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192.

11:38。

「 ──── じゃ、お疲れさまでした!またよろしゅう!」
「西村さん、お疲れさまです!」
「お疲れっしたー!」
「お疲れさまです、またよろしくお願いします」
「おっつー!」
「お疲れさん!また頼むよ!」


機材を背負って西早稲田のスタジオを出ると、頭上には、澄み切った秋空が広がっていた。祝日なせいか、細い裏通りは赤ん坊連れの夫婦や若いカップル、学生らしき集団が行き交っていて、そんな眩く華やいだ雰囲気の中で、瞬は朝方の奏の言葉を思い出し、ますます気が塞いでくる。


( ──── ジョシュさんへの後ろめたさと、ゼカさんへの未練との板挟みで。茨の道じゃないすか?)


奏くんの言う通りだよ。このまま進むにしろ、退くにしろ、何れ地獄を見ることになるのはわかってる。でも、俺にはこれが生涯、唯一のチャンスかもしれないから。いつか覚める夢だったとしても、今はこのまま、行かせてほしい ────



重たいカメラバッグを背負い、物思いに耽りつつ歩き出した彼の背に、アシスタントのしずるが両手を振りながら、元気な声で呼びかけてくる。

「 ──── 瞬さーん!次の現場まで乗っけてきますよ!」
「いや、大丈夫。ありがとう」彼は、笑顔で手を振った。「地下鉄で移動するから」
「ゆうて、飯田橋っすよね?」シズルは、不思議そうな顔をする。「こっからだと、馬場からのが近くないすか?」
「まあまあ、いいから」ヨシは、ハイエースのドアを開ける。「瞬!夜、Riotに行く予定?」
「間に合えばですね。18:00から安西さんのところなんで、時間が読めないんです」
「あー、なるほど、そりゃちょっと厳しいな?」ヨシは、肩を竦める。「俺は西と待ち合わせてるから、もし来れたらおいで!」
「わかりました」瞬は2人に向かって、真顔で一礼する。「では、お疲れさまでした。また明日よろしくお願いします」




肩甲骨の下まで伸びた黒髪を翻し、遠ざかっていく瞬の後ろ姿を眺めながら、シズルは車のエンジンをかけ、シートベルトを装着する。

「 ──── ヨシさん?」
「うん?」
「なんか今日の瞬さん、おかしくないっすか?」
「沖縄から帰ってきてから、ずっとおかしいよ。前にも増して付き合い悪くなったし、撮影中もぼんやりしてるし」ヨシはスマートフォンでメールに返信しながら、首を傾げる。「夜間の仕事とか遠方の依頼とか、ばんばん断るようになったしさぁ?」
「えっ、マジっすか?」ゆっくりと車を出しながら、シズルは尋ねる。「そっちのが金になるのに?」
「マジマジ。シズルくんに経験積ませたいからって言ってるけど、俺、他に何か原因がある気がするんだよ」
「いや、気持ちはありがたいすけどね?瞬さんに来た仕事を半人前のオレが受けちゃうの、ちょっと気が引けるなぁ?」
「ま、前からそういうとこある奴だけどね?真尋くんの写真集がばーん売れて、次第に名前も知られてきて、今が一番の稼ぎ時だってのに」ヨシはスマートフォンをジャケットのポケットにしまい、溜め息をつく。「何考えてるのかねぇ、あいつ?」





別な現場へ向かう2人と別れ、早稲田通りを穴八幡方面へ下っていく。ゼカは先進理工学部の学生だし、自宅は下落合だから、明治通りや高田馬場駅方面に行けば、ますます遭遇する確率が ──── そこまで考えてから、瞬は、馬場下町の交差点でぴたりと足を止める。よくよく考えてみたら、今日は平日じゃなく、祝日だったな?

「 ──── ということは、ゼカは何処かで仕事が入ってるだろうし。別に馬場方面に戻ってもよかったのか」

いや、でも、出来ればあの辺りは通りたくない。どうしても、あの日のゼカのことを思い出すから。


( ──── ねえ、また会える?)
(LINEの交換した時から、そのつもりだったけど?)
(よかった、そこ確認してなかったからさ。それ聞いて安心したよ)
(俺、重たい男だから、行きずりは性に合わないよ。その確認するためだけに走って来たの?)
(うん。カメラ背負ってたら、そんなに急いで歩けないだろうと思って)


9月11日の深夜、新宿3丁目でゼカにナンパされて、断り切れずに一緒にホテルへ行って。翌朝西早稲田駅で別れたあと、彼は何故か走って、俺を追い掛けてきたんだ。金髪を靡かせて、息を弾ませて、頬を紅潮させて、人懐っこい笑顔を向けて。あの時はまだブラウンのカラコンをしてたけど、それでも、周囲が振り返るくらい綺麗な子で。そんなゼカが、どうして俺みたいな陰キャなオタクに興味を持ってくれたのか、今でもわからない。でも、ゼカは来月アメリカに行くから、もう物理的に会えなくなるし。それに、俺は2回も、さよならadeusって言われてるんだから。
あのアパートでゼカと過ごした2週間をどんなに懐かしく思おうと、彼と暮らした間の記憶をどれほど愛おしく思おうと、俺の気持ちも言葉も、もうゼカには届かない。考えてみたら今の俺は、あの頃のゼカと同じ立場なんだ。思う相手のいる人を好きになって、2番でも3番でもいいからと、一縷の望みに縋りついて。自分がその立場になって、初めてわかったよ。 ゼカがどれほど俺に尽くして、俺のことを大事にしてくれていたのか ────





苦い思いを振り切るように交差点を渡ったところで、ようやく緊張が解けたのか、酷い空腹を感じた。向かい側には学生向けの定食屋と松屋、右手には丸亀製麺とインド料理屋、進行方向にはドトールとマクドナルドの看板が見える。こういう場所はどうも居心地が悪いよ、と、自分と同じくらいの年齢の学生達に交ざって歩きながら、瞬はあらためて思う。俺もまともな家に生まれてたら、卒業するまでちゃんと大学に通えてただろうし、あんな事件さえなければ、今頃は1人暮らしを楽しみながら、友達と飲みに行ったり、課題に取り組んだり、女の子と付き合ったりしてたかもしれない ──── いや、そんなことはないか。俺は何処に行って何をしていても、うだつの上がらない陰気な男で、4年生になった今もぼっちでいるんだろう。そのために、芸術学部を選んだようなものだから。


少し悩んでから、瞬はカメラバッグを前抱きにしてドトールへ入り、愛想のいい店員にジャーマンドッグとカフェラテのLを頼み、トレーを手に1階の席へ移動する。嵌め殺しの窓を背にした椅子の上にカメラバッグを下ろし、その対面に座って一息つくと、案の定周囲は学生だらけで、サークルやゼミ、友人関係や恋人の悪口など、種種雑多な会話が聞こえてくる。大勢の中で孤独を感じながらスマートフォンを開くと、そのタイミングで、銘からのメッセージが届いた。


銘【瞬くん、お疲れさま】
銘【昨日はごめん】
銘【今日は木曜セッションだけど】
銘【もし、嫌じゃなかったら】
銘【遅くなってからでも、顔出してもらえると嬉しいよ】
銘【俺は0時ぐらいまで起きてるから】
銘【来れそうなら連絡して】


そんな言葉に、どうしようもなく胸が騒ぐ。初めての2人きりでのドライブ、初めての六本木、初めての擦れ違い、初めて目にした銘さんの激しさと、それと、初めての ──── 昨夜の出来事を順に思い出した瞬は、酷い動悸に襲われ、顔に血が上ってくるのを感じた。ああ、まずいよ。今更だけど、何て馬鹿なことをしたんだろう、俺は?これが最後だからと思って勝負に出たのに、まさかあのタイミングで圭介くんが来るとは思わなくて。いや、圭介くんのせいじゃないよ。それ以外のことも、そのあとのことも、全て行き当たりばったりで、すっかりぐだぐだになってしまって。しかも、銘さんに余計な気を遣わせて、お情けで抱かせて貰ったりして。ほんと、かっこ悪いし、情けない ────


瞬【銘さん、お疲れさまです】
瞬【こちらこそいろいろすみませんでした】
瞬【今夜の件、了解しました】
瞬【奏くんに、ボトルも返したいので】
瞬【いつもより遅くなるかもしれませんが、伺います】


たったそれだけの文章を何度も打ち直し、推敲し、何度も読み返し、ようやく送信する。いや、しょうがないよ。こういうのは、長々と書いても仕方ない。言いたいことは、銘さんと顔を合わせた時にしよう。

スマートフォンをテーブルの上に置いてから、瞬は深々と溜め息をつき、気を取り直してナプキンで手を拭き、やや冷えたジャーマンドッグに齧りつく。今朝食べたクロワッサンサンドも、淹れ立てのコーヒーも最高に美味かったし。奏くんはとびきりの美形で、料理上手で、気配り上手で、おまけに父親である國原さんに似て、恐ろしく頭のいい人で。あんなパーフェクトな恋人がいる哲郎さんはきっと、毎日幸せに暮らしてるんだろうな ────


そんなことを考えながら、彼は胸ポケットから手帳を取り出し、午後の仕事の内容を確認しようとしたが、その時初めて、ポルトガル語で書いたメモの順番が入れ替わっていることに気付いた。

「 ──── えっ?」

思わず声に出し、4つに折り畳まれたメモを開く。ああ、やっぱり ──── いや、でも、銘さんが無断で中を見るような人だとは思えないし、抽象的な内容にしてあるから、歌詞か何かを書き写したものにしか見えない筈だ。そう、俺がこれを書き始めたのはゼカに会ってからで、彼に見られてもいいようにしておいたんだ ────

元のように紙片を畳み、手帳に挟もうとした時、奥のテーブルにいた学生が、こんなことを言う。

「 ──── つうかソゴウ、ありえなくね?マジでキモくね?」

突然のことに動揺した瞬は、手帳を床に取り落とす。向かいの壁際に座って勉強していたロングヘアーの大学生が顔を上げ、彼は慌てて会釈しながら、身を屈めてそれを拾う。嘘だろ?こんなところで面が割れるなんて、しかも、聞こえよがしにdisられるなんて。テレビに出演させられた件も、真尋くんのインスタの件も、やっと落ち着いたと思ってたのに!

想定外な事態に、こめかみにじっとりと汗が滲み、心臓は嫌な高鳴り方をして、目の前にあるカップに触ることも出来ない。落ち着け、落ち着かないと。ヨシさんにもよく言われてただろ?知名度が上がるとファンも増えるけど、アンチも増えるって。同業者は勿論、ネットで名指しで批判される機会も増えるって。覚悟はしていたけど、実際こういう目に遭うと、想像以上にきついな?無名の俺でさえこうなんだから、真尋くんとかヨシさんとか、風雅さんとか銘さんなら、もっとなんだろうな。でも、そんな中でもちゃんと自分を保てるようになって初めて、一流と呼ばれる人間になれるのかもしれない ────


「ソゴウって誰すか?」茶髪の学生が、怪訝な顔をする。「 ──── あ、わかった!俺は面識ないすけど、ガチっぽい人っすよね?」
「ガチなんてもんじゃねえよ、マジで終わってんだよ。たかだか惣菜屋の息子が、ちょっと見た目いいからって、調子乗りやがって!」
「一昨年ぐらいからぱったり見なくなったんで、どうしたんかなーっては思ってたんすけど」
「あの通りの奴だから、いろいろやらかして、2年で中退したんだよ。マジで助かったわ」

それを聞いた瞬は、ますます生きた心地がしなくなる。ていうか、何で俺が、日芸中退したことまでバレてるんだ?SNSにも公式なプロフィールにも、そんなことは、一切書いてないのに ────

「 ──── つうかソゴウさんとこ、ヤリサーだったってほんとっすか?」
「違う違う!元々は普通のテニサーだったのに、あいつのせいでそういう評判が立っちまったんだよ。他大の女ばっか集中的にタゲって、片っ端っから手ぇ付けて、その挙句、女同士で刃傷沙汰になって ──── 」
「マジっすか?大迷惑っすね?」
「迷惑どころじゃねえって。しかも、ブチ切れるとあいつ、女にグーパンするからな?普通は出来ねえだろ?」
「ちょ、待って!ただのヤベえ奴じゃないすか、それ!」
「ヤベえなんてもんじゃねえ、サイコパスっつうか。あたおか・・・・なんだよ」

ヤリサー?テニサー?刃傷沙汰?グーパン?と、昼時の喧騒の中で、瞬は学生達が口にした単語をひとつひとつ拾っていく。ああ、よかった。だとしたら俺のことじゃない。俺は彼女いない歴イコール年齢で ──── いや、ちょっと待て。十河そごうって名字は珍しいし、しかも、ここは早稲田だよな?っていうことは ────

「あ、そういや鈴木さんの実家、中野っしたね?」
「そそ、それで高校まで一緒だったんだけど、あいつ昔からすぐかっとなる性分で、先生にも食ってかかるし、男にも女にも普通に手ぇ上げるし。母親も相当ヤベえ人だから、ありゃ遺伝だよ」
「そうなんすか?」
「小学生の頃、一度だけ家に行ったことあんだけど、あいつと母親が就学前の弟捕まえて、こいつ反抗的だからとか、躾だからとか言って、へらへら笑いながら殴りまくってて。さすがに引いたわ」
「はぁ?そんな小さい子を?マジ意味わかんないっすね?」

その話を聞いて、瞬は確信する。ああ、思い出した。あの時うちに来た兄貴の同級生か。当時は玄関にもドアにも、畳にも襖にも、壁にも天井にも、至るところに俺の血の痕が残りまくってたから。そりゃ、引くよなぁ ────



自分の話じゃなくてよかったような悪かったような、幾分複雑な気分でジャーマンドッグを食べ、カフェラテを飲み終えた瞬は、バレないように背を向けながらカメラバッグを取り、席を立つ。2人の傍を摺り抜ける時、瞬は鈴木と呼ばれた男の姿をちらりと眺めた。ブランドもののポロシャツを着て、真っ白なジーンズを穿いて、高そうな腕時計をつけて、磨き上げられた革靴を履いた、如何にも育ちの良さそうな学生に、瞬はつい、シズルの姿を重ねてしまう。きっとこの人もシズルくんと同じように、裕福な家庭に生まれて、可愛がられて、何不自由なく暮らしてきたんだろうな。いい大学に入って、いい会社に入って、ヒエラルキーの頂点に立って、バリバリ働いていくんだろう。そんな筋書きが、目に見えるようだよ。

トレーを戻して店員に礼を言い、バッグを背負って外に出た瞬は、道路を渡ってきた風に目を細め、左手首に嵌めていた髪ゴムを取り出し、長い黒髪を首の後ろでひとつに結わえ、早稲田駅へ向かって歩き出す。いや、 ──── いいよ。兄貴のことも、おふくろのことも、心底どうでもいい。俺は先月伯父の一騎いっきさんと養子縁組して貰って、正式に槙野まきの家の人間になったんだ。兄貴が反社になろうと、祖父母やおふくろが死のうと関係ない。十河さんやヨシさんに言われた通り、俺はもう過去を捨てたんだから。これからは自分の足で、歩いていかなきゃいけないんだ。



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