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191.

5:30。

消した筈の照明が薄らと点灯し始めたことに気付いて目を開けると、銘はまだ腕の中でぐっすりと眠っていた。その額にキスをして、すっかり感覚の失せた左腕をそっと引き抜き、彼の足元から回り込むようにしてベッドを下り、デスクチェアの背凭れにかけてあったスラックスを穿き、靴下と靴を履く。皺だらけのワイシャツを着てジャケットを羽織り、一度髪を解いて結い直し、左のポケットにネクタイを突っこみ、シャワーを浴びる際に脱いだ下着を入れたビニール袋を手にした時には、周囲はぼんやりと明るくなり始めていた。それを不思議に思いながら、瞬はスマートフォンを取り出し、消音のカメラアプリを使い、1枚だけ写真を撮る。ひょっとしたらこれが最後の朝になるかもしれない ──── そう思ったからだ。



スマートフォンを右ポケットに収めてドアを開け、彼を起こさないよう静かに閉めて廊下へ出ると、カーテンの向こう側にある店舗にはすでに灯りが点いていて、コーヒーのいい香りが漂ってくる。一瞬裏側の通路から駐車場へ抜けようかとも思ったのだが、カメラバッグをソファに置いたままにしているために、一度はそこへ行かなければならない。しまった、間に合わなかったか、と、彼は内心溜め息をつき、意を決してカーテンを潜る。予想通り、カウンターの内側には奏がいて、てきぱきとモーニングの支度を始めていた。

「 ──── おはざーす」
「おはようございます」瞬は真顔で一礼し、ソファへ向かう。「相変わらず早いね?」
「昨日、銘さんと瞬さんが険悪な雰囲気だったって、圭介くんが心配してたんで」彼はケトルを置き、ごく自然に答える。「拓海くんも早めに来るって言うんで、それもあって」
「ああ、ごめん。もう大丈夫」バッグを背負いながら、彼は答える。「心配かけて、ほんと申し訳ない」
「いえ。つうか、ここでも飲んでたんすか?」
「えっ?」
「クエルボ出しっぱだったけど、未開封だったんで」左手でボトルを持ち上げながら、彼は首を傾げる。「グラスはあんのに、何飲んでたのかなと思って」
「未開封?」
「ほら」

奏から手渡されたテキーラのボトルは確かに、封が切られていなかった。ということは ────

「男2人、炭酸水のショット飲んでたんすか?お洒落女子みたいっすね?」
「そういうことになるね」瞬は、がっくりと肩を落とす。「何だかおかしいなとは思ったんだけど」
「ってことは、また何か企んだんでしょ、あの人」奏はボトルをバックバーに戻し、振り返る。「で、昨日結局、何があったんすか?」
「うん ──── 奏くんだから言うけど」瞬は声を潜め、カーテンに視線をやりながら話を続ける。「実は昨日、銘さんに誘われて六本木までドライブして。NEMESISに連れてって貰ったんだ」
「 ──── はっ?」彼はぎょっとして、手を止める。「マジっすか?」
「そうなんだけど。俺がガートくんと話してる間に、銘さんが、知り合いっていう人と別室に入ってて ──── 」
「はぁ?」珍しく、奏は険しい顔をする。「1人の時ならまだしも、同行者いるのに、断りもなく?」
「断りもなくっていうか、バーで待ち合わせっていう形だったから。でも別に悪気があった訳じゃなくて、多分、何か事情が ──── 」
「事情じゃなくて情事・・っしょ?ていうか、非常識にも程があるって!マジで頭おかしいっすね?」
「奏くん奏くん、声が大きい!」瞬は慌てて、カウンターに近付く。「お願いだから ──── 」
「っした。さーせん」彼は美しい眉をひそめ、カウンターから身を乗り出す。「それって、瞬さんの気持ち知っててやってんすかね?」
「いや、違うと思う。結局ここに来てから、成り行きで告ったんだけど。銘さん、全然気が付いてなかったみたいだし」
「うっわ。いろいろ最悪っすね?」
「俺、元々空気だし、射程距離圏外だから。仕方ないよ」
「でも、よく我慢出来たっすね?俺ならほったらかしでハッテンされてた段階で、銘さん捨てて先帰るっすよ?」
「ショックだったけど、捨てて帰るほどじゃなかったし。あと、ここにこれ、置いてっちゃったからね。泊まっていかない?って誘われてたから」瞬は、カメラバッグのストラップをぽんぽん叩く。「だから、一緒に帰るしかなかったっていうのが近いかな」
「ふうん?」奏は、納得いかない様子だ。「で、仲直り出来たんすか?」
「便宜上そう表現したけど、面と向かって喧嘩した訳じゃないし、銘さんは悪くないんだよ。何を話していいかわからなくて、ずっと黙ってたら、銘さんが俺に嫌われたって勘違いしたみたいで、そこから、仕事の話も白紙に戻そうってことになって」
「あ、ほら!またそれだ!」奏は、完全に呆れたようだった。「あの人頭いい割にほんと自棄やけになると短絡的っていうか、後先考えないっていうか、勝手に極論に走るから。何でそこまで話が飛躍するんすかね?」
「いや、でも、何度も言うけど、銘さんは悪くないんだ。誤解させたのも、上手く説明出来なくて怒らせてしまったのも全部、俺のせいだし ──── 」
「前から思ってたっすけど、瞬さん、お人好し過ぎっつうか、甘やかし過ぎっすよ?銘さんから完璧舐められてるんじゃ?」
「そんなことないよ」瞬は溜め息をつき、壁掛け時計を見上げる。「そのあと俺もパニクって、いろいろやらかしちゃったし ──── 」
「あ、コーヒー淹れたばっかなんで、座って飲んでいきません?」
「ありがとう。でも9:00から仕事だし、その前にうち帰ってやらなきゃいけないことがいっぱいあって」
「じゃ、これ、お持ち帰りで」奏は小さなクラフトバッグにサーモスのマグボトルを入れ、彼に差し出す。「朝飯っす」
「あっ、ありがとう!」瞬は中を覗き、微笑んだ。「えっ、凄い!クロワッサンサンドだ!」
「アボカドとベーコンっす。いつも同じだと飽きるかなと思って」
「いつもいただいてばかりで申し訳ないよ。たまには払わせてくれる?」
「いや、いいっす。出張のたびにお土産貰ってるし、馬鹿兄貴が散々お世話になってるんで」
「そんなことないって。俺が、好きでやってるだけだから」
「それでそんな目に遭わされてたら、割に合わないっすよ」自分のマグカップにコーヒーを注ぎ、一口啜る。「今夜も来れそうすか?」
「わからない」瞬は、首を振る。「でも俺はしばらく、来ない方がいいかもしれない」
「うん?他にも何か揉めてんすか?」
「さっきも言ったけど、勢いで告白して、きっぱりと振られちゃったからね」瞬は曖昧に頷き、紙袋の持ち手を左手で掴む。「ジョシュさんと正式に別れたとしても、もう誰とも付き合うつもりはないって」
「俺もそういう時期あったから、銘さんの気持ちはわからなくもないすけど」奏は、肩を竦める。「親父やママさんから聞いた話だと、あの人、どんな相手でも、ほんと続かないっぽくて。性格とか性癖とか何処か見えない部分に、致命的な欠陥でもあるんじゃないすかね?」
「そんなことないよ。ジョシュさんとは物理的に離れただけだし、もしそうでなければ、今も仲睦まじくここで暮らしてる筈だよ」
「まあ、そっすね」
「銘さんの最愛の人はジョシュさんだし、あの人を超えられる相手が現れるとは思えないから」
「それはどうすかね?」
「だと思うよ。でなきゃ、ジョシュさんが帰国した途端、あんなに荒れることもないだろうし」
「ああ、そっか。言われてみれば ──── 」
「俺も自分の気持ち伝えて、玉砕して、すっきりしたから」瞬は何とか微笑んで、カウンターを離れる。「また落ち着いた頃に、顔出すよ」

奏はカップボードに寄り掛かり、その背中に向かって問い掛ける。

「 ──── 瞬さん?」
「うん?」
「銘さんと寝たんすか?」

瞬はドアハンドルに手をかけたまま立ち竦み、長い時間沈黙する。計らずもそれが、答えになってしまった。


「 ──── ごめん」
「別に、謝る必要ないっすよ」奏はマグカップを持ち上げ、コーヒーを飲む。「あの時通訳務めたお陰で事情は全部知ってるし、責めてる訳じゃないっす」
「だとしても、嫌だよね?」瞬は振り返り、項垂うなだれる。「大事なお兄さんを、俺みたいなのに ──── 」
「あの人もう23っすよ?俺も、そんなことにいちいち口挟むほど子供じゃないんで」

再びの沈黙。奏はマグカップをコールドテーブルの上に置き、腕組みする。

「マジで気にしないでいいっす。寝取り寝取られなんてのは、ヘテロでもガチホモでもよくあるはなしっすから。銘さんは自称フリーなんだし、問題ないっしょ?」
「だとしてもやっぱり、選択を間違ったんじゃないかって。もの凄く後悔してるんだ」
「いいじゃないすか。ヤった後悔より、ヤらない後悔のがきついんで」

瞬は答えられず、それでも懸命に、深いグリーンの瞳を見返した。人が話している時はこっちを向けと銘に怒られたことを、不意に思い出したからだ。

「ただ、銘さんは楽観的な人だからいいけど、瞬さんの方がこれからしんどい思いするんじゃないかなって」
「俺が?どうして?」
「ゼカさんのこと、完全に吹っ切れてる訳じゃないすよね?」

痛いところを突かれた瞬は、反射的に口をつぐむ。ほんとに、この人は ──── どれだけ鋭いんだろう?


「ジョシュさんへの後ろめたさと、ゼカさんへの未練との板挟みで。いばらの道じゃないすか?」
「俺は平気だよ。どんなことになっても」瞬は、穏やかな声で答える。「子供の頃味わった地獄を思えば、耐えられないことなんてないし」
「っすよね。余計なこと言ってさーせん」奏は軽い溜め息をつき、がりがりと頭を掻く。「今日はセッションすけど、俺は午後からEVIDENCEなんで。もし何かあったら、LINEしてください」
「わかった。いろいろありがとう」
「こちらこそっす」奏は僅かに口角を上げ、左手を振る。「じゃ、行ってらっしゃい」









6:04。

部屋の照明が完全に明るくなったところで、銘はようやく目を覚ます。瞬の姿はすでになく、脱ぎ散らかした下着は軽く畳んでデスクチェアの座面に置かれ、スラックスはきちんとハンガーにかけられていた。ぼんやりと天井を眺め、下半身に特有の気怠さを覚えながら、銘は独り言つ。

「ああ、しまった。洗濯 ──── 」



昨夜着ていたものと新しい下着を抱えてバスルームへ向かうと、すでにドラム式洗濯機が脱水を始めていた。奏だな?と彼は察し、洗濯物をカゴに収め、浴室のドアを開ける。几帳面な瞬らしく、カウンターの上のボトルは向きを揃えて綺麗に並べられ、洗い場にも床にも髪の毛1本落ちていない。バスチェアを引っ張り出してシャワーをかけ、そこに座って頭から湯を浴びながら、銘は昨夜の失態を思い出し、膝を抱えて顔をうずめる。瞬くんがあんまり俺によくしてくれるから、いい人なんだなと思って、弟みたいな気持ちで揶揄からかったり、甘えてたりしてたのに。まさか俺に本気で惚れてくれてたなんて思いもしなかったし、あの真面目で穏やかな人から、あんな形で求められるとは想像もしてなかったよ。参ったな、ほんと。今も昔も、俺はそういう方面に関しては、呆れるくらい鈍いんだな ────




シャワーを終えて髪を乾かし、身支度を整えて廊下を進むと、バターの焼ける香りと淹れたてのコーヒーの匂いが次第に濃くなり、拓海と奏の親しげな会話が聞こえてくる。銘は左手に並んだロッカーの前で立ち止まり、一度深呼吸して気を取り直してから、あらためてカーテンを潜る。カウンター席の中央には拓海が座っていて、クロワッサンサンドを食べている最中だった。

「あっ、銘さん!おはようございます!」
「おはよ」奏は、マグカップに注いだコーヒーを彼に手渡す。「また夜遊び?」
「夜、瞬くんと一緒にちょっとだけ出掛けたけど、祝日で何処も混みまくりだったから、日付変わる前に帰ったよ」銘は、さりげなく訊いてみる。「彼、何か言ってた?」
「いや、別に」奏は、素っ気なく答える。「早く帰って仕事しないとって、コーヒーも飲まずに行ったから」
「そっか」
「銘さんも先に飯食って。サンドにする?」
「ああ、うん」銘は、拓海の左隣に腰を下ろす。「ていうかお前、パンも焼けるの?」
「さすがにそこまで暇じゃないから。業務用の冷凍品だよ」
「でも、めっちゃ美味しいです、これ!」拓海は、最後の一片を大事そうに摘む。「お店でも出すんですか?」
「どうしよう?美味いけど、食パンよりハイカロリーだし、食い辛いからな」奏はクロワッサンサンドの乗った皿を銘の前に置き、首を捻った。「一応メニューに載せてみる?」
「そうだな ──── 」銘はそれを一口齧り、目を丸くする。「えっ、ちょっと、美味いじゃん!いいよ、これ!」
「じゃ、今日限定にしとこうか」
「ていうかお前、アボカド食えたっけ?」
「俺は無理」
「だよな?なのによく作る気になったよ」
「ママさんにもよく怒られてるけど、俺の好き嫌いに合わせたら、メニューががっつり減るからね」
「これ、スモークサーモンやクリームチーズも合うと思いますよ?」
「あ、確かに!」銘は思わず、身を乗り出した。「冷蔵庫にあったよな?」
「あるけど、その辺はカスタムで ──── つうか、和哉さんと沖田さん、矢部さんも来たっすね」
「あっ、準備しないと!」拓海は慌てて皿を重ね、立ち上がる。「ご馳走さまでした!」
「7:00前なのに、もうシャッター開けてたのか?」
「そう。準備終わったし、今日祝日だから ──── おはざーす。いらっしゃいませ!」
「おはようございまーす!」先頭にいた和哉は、笑顔を向けてくる。「あ、めっちゃいい匂い!」
「おはよう、奏、拓海、銘!」その後ろから、白髪の上に赤いバンダナを巻いた沖田が現れる。「おっ?何か美味そうなもん食ってるな?」
「クロワッサンサンドっす。中身はアボカドとベーコンすけど」
「あ、いいな!俺にもそれひとつ、セットでくれ!」
「畏まりっす。矢部さんはいつもので?」
「Guten morgen、allerseits!」競馬新聞を小脇に抱えた矢部は、にこやかに挨拶する。「オレもたまに違うのにしようかな!」
「Jawohl!和哉さんは?」
「僕ももし、お手数でなければ」黒いエプロンをつけた和哉は、にっこり笑う。「クロワッサン、大好きなんで!」
「了解っす!」奏は敬礼をして、すみやかに厨房へと向かう。「銘さん、薬飲むの忘れないように!」



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