見出し画像

喫茶店に向かう女の子の頭の中

マンションの間から、西に傾いた陽が差し込んでいた。

細くて柔らかな西日が私だけを照らす。少し眩しくて目を細めると、フレアが目の前に広がった。

信号が青になり、横断歩道を渡る。学校帰りの小学生が右手を上げながら歩いている。少し遠くから、ジャケットを腕にかけたサラリーマンが小走りでやってくる。どうやら、信号が青のうちに渡れたらしい。

信号を渡り終えた私は右に曲がりながら、コンビニで買ったおにぎりを開けようとする。
最近のコンビニのおにぎりはさらに開けにくくなったなと思いつつ、なんとか海苔を取り出すことに成功し、おにぎりをおにぎりたるものへと形作る。

三角形で海苔が下から支えるように貼り付けられているおにぎりが好きだ。
まん丸で白米だけのおにぎりは母が作ったものを思い起こさせる。
そんな雪玉のようなおにぎりを想像すると、忙しい朝の風景が思い浮かぶ。


父は眼鏡が無いと言いリビングを歩き回り、ありとあらゆる棚を開けては閉める。
弟は教育番組を見ながら、ぼーっとしている。薄型テレビの中では体操のお兄さんが嬉々として踊り跳ね、お兄さんの周りは子供たちが無秩序に動き回っていた。羊飼いと羊そのものを見ているようだった。その間も弟の目の前に置かれたコーンフレークは牛乳を吸い上げて、みるみるうちに膨らんでいく。弟よりも牛乳を摂取しているコーンフレークを私はぼんやりと眺めていた。
朝ごはんを食べないと授業の内容が頭に入らないでしょと言いながら、母はラップで白米を包みおにぎりを作っている。中身の具はない。
そんな真っ白なおにぎりを私は好きでも嫌いでもなかった。


警察署の前をとぼとぼと歩いていると、緑の柵に覆われた小さい公園が見えた。公園では小学生ほどの男の子たちが布製のフリスビーを投げては追いかけてを繰り返して遊んでいた。

このご時世、プラスティック製のフリスビーをしていると、怪我するから危ないという理由で禁止されてしまうのだろうと、思った。

やはりその公園の看板には、キャッチボールをしている男の子のイラストに赤い罰が施されていた。

リーダー格であろう体格のいい男の子が目一杯高く布製のフリスビーを真上に投げた。
生憎、今日は風が強い春めいた日だったから、布製のフリスビーは強風に煽られて柵の外の道路に放り出されてしまった。

私が「あっ」と声を漏らした瞬間には、目の前にいたサラリーマンが布製のフリスビーめがけ走り出していた。

柵の中から眺めることしかできなかった少年たちは、ありがとうございます!と声を揃えてお礼を言っていた。大きな建物に囲まれた公園ということもあり、少年たちの感謝の声はマンションに跳ね返り反響していた。  

「ありがとうございます」  

心と頭の中で同時に繰り返してみる。安直ではあるが、とてもいい言葉だな、なんて思ったりした。  

小さい公園を沿って歩くと、マンション群へ続く緩やかな坂道が伸びていた。  

学生時代、吹奏楽部に所属していた私は肺活量が少ないと顧問に指摘され、放課後はこの緩やかな坂道を幾度となく走り抜けた。
最初のうちは一度全力で駆け抜けただけで息は上がり、目の前は大きく揺れて煉瓦造りの花壇に座り込んでいた。
そんな坂道をダッシュする私をたまたま見かけた同級生が「私も一緒に走る」と言い、汗で前髪が額にぺったりと張り付いた顔をお互いによく笑い合っていた。  

そんな緩やかな坂道は夕陽に照らされて、ランウェイのようになっていた。
片手におにぎりを持つ私はさすがに昔のように走る気はおこらなかった。  

坂道を上がり終えると、目の前には八階建てのマンションが屹立としていた。
風で洗濯物がゆらゆらと揺れていた。
マンションの駐輪場を抜けると広場があり、またそこを抜けると喫茶店がある。  

喫茶店の錆びかけたドアノブを回し、店に入る。
店内はコーヒー豆の匂いとほのかにタバコの匂いが入り混じっていた。いいにおいとは言えないが、心が休まるような落ち着くにおいではあった。
食器を洗う音やスチーマーの大きい音、誰かと電話している男の人の声などが飛び交っていた。
好きでもない音楽を聴いているよりかは幾分マシに思えるような可愛い喧騒だった。

私はブレンドコーヒーを注文して、窓際の席へ座る。
いつものようにスティック砂糖の半分だけ注ぎ込み、ティースプーンでかき混ぜる。コーヒーの中でティースプーンとカップがぶつかる音が私は好きだ。砂糖がとけていても余計にまぜてしまう。  

窓の外に目をやると、もう夕日は完全に隠れていた。画用紙にローラーで思い思いに塗りたぐったような濃紺の夜空が始まろうとしていた。  

バッグの中から、文庫本を取り出す。しおり紐が挟まっているページを開いて、コーヒーをすする。  

今日も私なりの一日が始まった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?