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古文も漢文も数学も化学もひょっとしたら身を助く時がくるのかもしれない

度々ネットで話題になったりするが、学校で古文とかやったって何の意味があるの? みたいな意見がある。

個人的には知らないことを知るのは楽しいけどなぁ。
実生活に役に立たなくても、知識ってのは知ってるだけでほんの少しだけ得をするものだと思う。

教養が大事という考えの本質って、「僅かばかりだけど日常の楽しみを増やす/ストレスを減らす」ってことだと思ってる。
古文の全てを知らなくても、枕草子を知ってるだけで「春はあげぽよ」って言葉遊びができるし、「春はあげぽよ」って言っている人に向かって「いや枕草子かい! 春はあけぼのやろがい!」って突っ込むことができる。それだけでちょっと楽しくなる。変な例えだね。

因みに広辞苑無料検索なるデータベースによると、教養の定義としては

①教え育てること。
②(culture イギリス・ フランス・Bildung ドイツ)学問・芸術などにより人間性・知性を磨き高めること。その基礎となる文化的内容・知識・振舞い方などは時代や民族の文化理念の変遷に応じて異なる。「―のある人」「―を高める」「人文主義的―」

広辞苑(第六版)無料検索

とのことらしい。
人間性とか知性とかまで大きいことをいいたい訳じゃないけど、やっぱり持ってるだけで自分の人生に大きく影響はしてくるみたいだ。

広く言えば「元ネタが分かる」ってのも教養の大事さの一つなんだろうな。
Twitterでバズってる投稿があったとして、それが元ネタを知っている前提のネタだった場合、知っている分には楽しいけど知らなかったらなんか嫌な気持ちになる。
この知識の差で人間性とか人生が決まる訳じゃないけど、もし知識を持っていたら、ふふッと笑える一瞬が増える。持っていなかったら不快な一瞬が増える。その積み重ねの差はバカに出来ない。

ネットでもたまに見かけるが、太宰治の「正義と微笑」という長編小説に「勉強の大事さ」について下記のように記されている。

お互いに、これから、うんと勉強しよう。勉強というものは、いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記あんきしている事でなくて、心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ!

太宰治「正義と微笑」より抜粋

要はこの「一つかみの砂金」というものが、教養の正体だったりするんじゃないのかなと個人的には思っている。
ものすごいピーキーでいつ役に立つのかも分からないけれど、自分の頭の中に潜んでいるそれが効果を発揮した時、自分の人生において確実にプラスになる何か。みたいな。

なので勉強や物事を覚えていくことは大事だし、それが必ず役に立つ確証はないにせよあったらあったで助かる時がくるかもしれない。
ないデメリットよりあるメリットの方が恐らく数十倍、数百倍デカいと思う。

とはいえ興味のないものを無理して覚える必要もないんだけど、頭ごなしに「自分の人生には関係のない知識だから要らない」と切り捨てるよりかは、そもそもなんでその学問が必要とされているか、学ぶ人がいるのか、それを知ることでどういうメリットがあるのか、みたいな事を考えられた方が生産性があるんじゃないかなぁ。

自分自身、分からないことがあったらすぐ調べなきゃ気が済まない性分ではあるが、その場で知って「ふーん」で終わることが圧倒的に多い。
だけど、なんとなく調べたものが後に誰かとの会話で出た時、脳汁がものすごい出ている感覚がある。「進研ゼミでやったやつだ!」みたいな。

太宰はこの感覚が尊いと言っているんじゃなかろうか。多分。
まぁ本当かどうかは本人に聞いてみるしかないんだが、聞けるはずもないので自分なりにそう解釈してこれからも色んなことを知っていこうと思いますわ。

おわり。


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