脳内変換

以前、下記記事を投稿した際にも書いたことだが

私は昔のRPGをプレイする時、ゲームシステム上自分の操作するキャラクターが敵のターンを律儀に待ったり自分が攻撃できるタイミングまでちゃんと待機する挙動をしていても、それはシステム上の記号でしかなく、実際には攻撃を必死で避けたり隙あらば攻撃を仕掛けたり死闘を繰り広げている様を脳内で想像している。

作中の人物達はシステムに沿った戦闘をしている筈がないので、そういう風に想像する事でより臨場感を楽しめたりその作品の世界観に入り込む事が出来ると思っているからだ。

話は変わり今日、X(Twitter)にて下記ポストを見つけた。

ノーゲーム・ノーライフの作者で知られる榎宮祐氏の投稿だ。

めちゃくちゃ共感できる。
例えば日本人の作家が日本語を用いて、舞台設定が異世界となっている小説を書いたとする。設定にもよるが異世界という以上、実際にその世界の住人が日本語を話したり、現実世界の単位を使っている可能性は低い。

しかし日本語話者向けに作られた作品である以上、日本語で分かりやすく何が起こっているのかを説明したり、登場人物が日本語で会話をするのは当たり前だと思う。全編通して異世界語で小説を書かれてあっても、まずその異世界語の単語なり文法なりを学ばなければ作品を楽しめる筈がない。

異世界の中でメートル方が用いられているのであれば、それはその世界の中でメートル法と同義の単位系が生み出されたりしているのであろう
当然その異世界の言語では違う言葉で表現され、たまたま同じ長さの定義がメートルと同じだっただけで。もしくは筆者が分かりやすくメートルと表現しているだけだ。

例え現実世界が舞台で、メートル法が生み出される以前の時代を扱った作品でメートルという単位が使われていても、それはただ分かりやすく伝えるための記号でしかないと思う。

そういう事を踏まえたら重箱の隅をつつく批評をするより、この物語は現実世界向けに変換された上で筆者により綴られていると思った方がが作品を楽しめるのではないか?

大事なのは脳内で都合よく変換する事だと思う。
別に悪いことではない。
これは私の持論だが作品というのは面白ければいいと思っているので、「作者が物語を受け手に分かりやすい様に伝えてるんだな」と感じながら楽しんだ方が精神衛生上いいと思うな。



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