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わたしたち日本人の祖先は、大きな戦争をすると決め、戦った④「燃える真珠湾」

日本とアメリカの戦争は、1941年12月8日未明、日本海軍によるハワイ基地攻撃をきっかけとして始まりました。ちなみに、ハワイ時間でいうとこの日は12月7日の日曜日にあたります。アメリカではラジオでも聞きながら、ゆったりとモーニングコーヒーをすする時間でした。

太平洋のはるか上空には、厚い雲の屋根がどこまでもかかっています。その雲のさらに上には、日の丸の印を翼に持ち、濃緑色の迷彩に染まった航空機の大群が、大規模な編隊を組んで飛行する姿がありました。

一団が目指すのは、言うまでもなく、アメリカ艦船が停泊する真珠湾基地です。

飛行機に乗り合わせるはみな20代の若者、大一番を前に臆する者は誰もおらず、流れゆく青雲に負けじとカラリとした表情をみせています。

みな勇気と闘志にあふれる海の荒鷲たち。そこに、パイロットや偵察員、電信員などの差はありません。

爆撃機に乗り組んだ電信員・松浦憲造一飛曹も、熱い血潮をたぎらせていた若武者のひとりです。

松浦一飛22歳。司令長官から「アメリカとの戦争に先立ち、我が軍は切り込み部隊としてハワイ基地を攻撃する」との訓示を受けたのは、わずか十日ほど前。

もとより海軍に入ったときから、命はいつでも投げ出す覚悟です。いざとなればお国のため、この命惜しまんとの意気で鍛えてきた自負もあります。

長官から訓示を受けたときは、命を失うかもしれない恐怖より武者震いがさきに起こりました。これまで血のにじむような鍛錬で培った力と技を、すべてぶつけてやる。そう感奮せずにはいられませんでした。

「父さん、母さん、憲造はやりますよ。ぜったい、この戦いで必ずお国のために役立ってみせます。だから、死んでも悲しまないでください」

小さな島に残してきた両親のことが、ふと思い起こされました。すでに遺書も書き終え、振り返らないと心に誓ったはずなのに。せめて、最後まで弱音を吐かず、立派に戦い抜きたいと思いました。

ふたつ下の弟・慎二のことも頭によぎりました。小さいときは病弱で、何かと心配をかけてきた弟も、今は陸軍の歩兵部隊に所属します。彼もまた、天皇陛下の一兵卒として、いつでもその身を差し出す覚悟でいるはずです。

「慎二はいま、どこにいるんだろうか。きっと南方あたりに派遣されているのだろう」

戦争はまだはじまったばかりで情報もなく、他の部隊や作戦のことは想像するしかありません。いずれにしても、弟は立派に戦い、お国に殉じてくれるだろうと願わずにはいられませんでした。

太平洋の空は気候もよく、おだやかです。敵機が近づく気配もありません。これから戦争がはじまる緊張感も、どこかへ消えてしまいそうでした。

「松浦、徳山、見てみろ、朝日が昇っている」

「おお、本当だ」

「こんなに美しい朝日をみるのは、はじめてだ」

島田操縦士が指さした向こうには、朝日がさんさんときらめき、雲の峰を白く照らしています。まさに、天が開けて旭日の光が差し込んでくるかのような荘厳さです。日いずる国の神様が、はやくも勝利の祝福をしてくれている。そんな淡い期待も誘うほどでした。

空を飛ぶこと2時間、どこまでも続いた白綿の海が、ところどころで切れ間をはさむようになりました。眼下に広がるのは、コバルトの海と緑の島の海岸線。

われわれが攻撃目標としている、アメリカ太平洋艦隊の軍港を構える島、オアフ島が、真下に見える。

オアフ島の上空から急に雲が切れ出し、島を視認できたのは、ほとんど奇跡のようでした。やはり、勝利の女神はわが日本に微笑んでくれているのだろうか。

松浦電信員の握るレシバーが、「ト、ト、ト」の信号を受信しました。これは「全軍突撃せよ」という、指揮官機から発せられた電文です。

鍛えに鍛えた日本海軍の航空部隊が、いよいよその腕を振るうときがやってきました。

「爆撃進路に入ります」

島田操縦士の声とともに、松浦電信員らを載せた爆撃機は、ゆっくり降下をはじめます。松浦電信員は、周囲に敵機らしい影は見えないか、注意深く目を配ります。敵機を発見したら、すかさず機銃で撃ち落としてやるぞ。彼の手には自然と力がこもりました。

日本の攻撃機が差し迫ってきても、美しき緑の島は眠れる美女のように、静かな姿でたたずむのみ。

どんどん高度を下げていく爆撃機。海岸線も、軍港に浮かぶ戦艦も、はっきりととらえることができます。機体は照準を定め、爆弾を落とす体勢に入りました。このときすでに、うっすらと立ち上る黒煙が確認されました。雷撃を積んだ攻撃機が、豹のような鋭い動きを見せ、オアフ島の上空を支配しています。

自分らも負けてはいられない。一発デカいのをお見舞いして堂々と帰還してやるぞ。仲間たちの活躍が、松浦電信員の気持ちに火をつけました。

徳山偵察員の「打てっ!」という声が響くと、機体が一瞬浮いたような感覚になりました。見下ろすと、機体下部に装着されていた800キロ爆弾が、音もなく静かに流れ落ちていきます。吸い込まれるように落ちた弾はけし粒のように小さくなり、やがてみえなくなりました。その瞬間、パッと火花が散ったかと思うと、白い煙が立ち、どんどん広がっていくのが見えました。

爆弾は見事、敵戦艦に命中しました。

松浦電信員は、すかさずカメラを構え、戦果確認のためにその瞬間を撮影します。しかし、緊張のためか、シャッターを押す指先が震えてブレてしまいました。「くそっ」絞り出したような声で、悔しさと恥ずかしさが入り混じる感情を吐き出しました。

せっかくの晴れの場面を、きれいな形で記録に残せず、唇を噛む松浦電信員。そんな悔しい思いをよそに、オアフ島は次から次へと繰り出される攻撃によって、ますます火災と黒煙の密度を濃くしていきました。

「これはすごいぞ、すごいぞ、大成功じゃないか」

興奮のあまり、徳山偵察員の声は上ずっていました。松浦電信員も、燃えさかる島を前に、攻撃の大成功を確信し、頼もしく思えました。やはりわが航空部隊は日本海軍の宝だ、と誇らしくなったほどです。

その一方で、華々しく活躍する雷撃機のパイロットや、目の前の島田操縦士の背中をみて、複雑な気持ちもよぎりました。

松浦電信員はもともと、パイロット志願で海軍に入ったという経緯をもちます。それが、上官の「君は記憶力がよく、手先も器用だ。電信員のほうが向いている」の一言で、進路の変更をせまられたのでした。

「オレも、パイロットになって、カッコよく飛行機を乗り回したかったなあ」

攻撃を終え集合地点に向かう途中、松浦電信員の胸には、少しだけキリっとした痛みが走りました。「次の戦いに望みをつなげるか」そう気を取り直して、松浦電信員は前を向きます。まだ戦いははじまったばかり。活躍の場は、まだまだあるはずだと、自分に言い聞かせながら。

眼下には、赤く燃えるハワイの海。島を覆うほどの巨大な黒煙が四方に舞い上がり、いまにも空に迫ってきそうな凄まじい勢いを見せています。

戦争が、はじまったー。

松浦電信員は背中に戦慄が走るのを、一瞬だけ感じました。


敵に察知されることもなく、主力部隊による反撃もなく、ただ一方的な攻撃で終わったハワイ作戦。その戦果は予想以上のものでした。

沈没した敵戦艦は四隻。破壊されて戦闘不能になった艦船は十隻近く。ほかにも、多くの戦闘機や船が炎上爆破しました。アメリカ太平洋艦隊は大きな被害をこうむり、しばらくの出動も稼働もできない状態となったのです。

対して日本側の被害は、微々たるものだったといえ、何人かの優秀なパイロットを失いました。なかでも多くの部下に慕われた、飯田房太隊長の自爆戦死の事実は大きく、士気に与える影響は避けられませんでした。

得たものもあれば失ったものもある。もっとも大きな産物は、アメリカの怒りではなかったでしょうか。ハワイの基地をボロボロにされ、軍人・民間人ともに多くの人材を失ったことに対する怒りと悲しみは深く、日本人に対する恨みを植え付けました。ルーズベルト大統領はこの日をもって第二次世界大戦への参入を決意、国民に一致団結を呼びかけます。国内は「リメンバー・パールハーバー」の大合唱で埋め尽くされました。


日本がアメリカに喧嘩を売るかたちではじまった戦争。これまで、主に海軍の目線で戦争に至った経緯を語ってきました。次回は少し時計の針を戻して、陸軍の立場から見ていきます。

海軍と比べ、とかく悪者扱いされがちな日本陸軍。彼らはなぜ、自国を無謀な戦争へと駆り出したのか? 彼らが主張した戦争の「大義」とは何だったのか? 

開戦当時の総理大臣は、東条英機という人です。陸軍のトップエリートの道を歩んできた逸材。そして山本五十六大将とは犬猿の仲。もちろん立場が違えばものの考えや見方、描く未来図は変わるでしょう。東条英機大将が目指した日本の未来とは何だったのか。"正体不明なことヤマタノオロチのごとし"とまで言われた陸軍の実相に迫ってみましょう。





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