タクシー時代、乗り逃げされて痛い目に遭いました、という話・続編

前回、白人男性に乗り逃げされて警察を呼ぶハメになったところまでお話しました。

江東警察署へ出頭

「もう今日は仕事に戻れそうにないな。売上どんなもんだろう」と虚空に目を向けながら、人気のない駐車場で警察が来るのを待ちました。

連絡して数分後に、サイレン音が遠くから聞こえてきて、パトカー到着。とりあえずお巡りさんに事情を話します。

「エレベーターで上がっていくところを見たんですが、4階で止まりました」

ぼくの説明を受けた警官が様子を見るため、4階まで上って行きました。まさかこれで犯人が捕まるとは思えませんが、そうであったらどれだけ助かるか、そんな淡い期待も込めつつ戻ってくるのを待ちます。

やがて警官がひとりで降りてきて、「どこにいるのか、もう分からないですね」と言われ、その期待も雲散霧消。

「被害届出されますか?」と言われたので、「はい」と即答。

そこから、江東警察署へ向かうことに。案内されたのは、確か生活安全課だったと思います。タクシーの無賃乗車は詐欺犯に該当するので、生活安全課が相談先になるわけです。

もうこの時点でそうとう疲れ切っていましたが、何とか気持ちを奮い立たせ、警察官と1対1の事情聴取に臨むことになりました。

調書をとるわけですから、正確性が問われます。男を乗せた場所、時刻、そのときの様子、車内の状況、会話の具体的な内容、降ろした場所、その際のやりとりの詳細、などなど。根ほり葉ほり聞かれ、なるべく間違いがないよう、記憶を懸命に追いながら回答しました。

ぼくから聞き取った内容を担当の方が調書にまとめあげ、最後にぼくの前で読み上げます。最後に「この内容で間違いありませんね?」と念を押され、「間違いありません」と返答。

「それでは、捜査を開始しますので、後日また署までお越しください」と警察の方。

「また来るのか」と閉口しつつ、「ありがとうございました」とお礼を言って署をあとにしました。聴取開始から2時間、ようやく解放されたものの、やるせない気持ちだけが胸に残り、少しもすっきりとはしませんでした。

後日、約束したとおり、江東警察署へ出向きました。窓口で名前を告げ、エレベーターで捜査2課の階へ上がるよう言われました。2課は詐欺罪など知能犯罪事件を取り扱う部署です。

エレベーターを出ると、ほぼ正面に男性がひとり。入り口の壁によりかかり、腕組みして立っていました。

「〇〇さんですか? お待ちしていました」。彼こそ今回の事件の担当刑事さんでした。「壁を背に腕組して待つなんて、キザだな」とぼくは噴き出しそうになったのですが、こらえて彼のあとについていきました。

通されたのは、奥の狭い個室。長机を挟んで刑事さんと対面します。りりしい顔つきで、眼光は鷹の目のように鋭い。けれど瞳の奥にはやさしさも感じられ、威圧感なく話せる印象。白いカッターシャツの襟もとからは、細身ながらむだのない筋肉質の体つきがありありと伝わってきました。ふだん目にする警察の姿といえば、制服のポリスしかないので、刑事さんだからこそのラフな装いは新鮮で、刺激的でもありました。

刑事さんは会社から取り寄せたであろう車内カメラの映像を見せてくれました。タクシーでは乗車状況の可視化が進んでいますが、うちの会社も御多分にもれず、ドライブレコーダーに加え車内に防犯用のカメラも取り付けていたのです。

映像には、にっくき犯人の顔が克明に映し出されていました。それほどきれいな映像ではないものの、特徴はしっかり押さえています。

車内での男の様子を、じっくり観察するように見つめる刑事さん。ぼくは犯人より、映像に視線を送る刑事さんの顔つきに注目していました。その目、その表情から、犯人逮捕の可能性はあるのか、探っていたのです。でも無表情だったので、そのあたりの感触はつかめませんでした。

犯人逮捕につながるような情報がないか、刑事さんからいろいろ質問を受け、ぼくも可能な限り有力な情報を提供しようと懸命に答えました。ぼくが持っている有力な情報というのは、犯人を載せたエレベーターが降りた階が4階である、ということ。けれどこれも犯人が陽動を企んだ可能性もあり、必ずしも4階に住んでいるとは言い切れません。そのことも含め伝えましたが、もちろん刑事さんのほうでもそのあたりは重々承知しているようでした。

聴取が終わり、そろそろ退室という際も、ぼくは「捕まりますかね?」みたいな問いかけをしたと記憶します。もう、その気持ちでいっぱいでしたから。刑最善を尽くす、程度のことしか言われないのは分かっていても、やはり光明らしきものをつかんでこの場を離れたい気持ちがどこかにあったのです。

腕っぷしが太く、頑丈そうな白人マッチョ。対して、知的な雰囲気と鍛え上げられた肉体、穏やかな風貌の裡に静かな闘志を感じさせる日本の刑事。優勢なのはどちらかと冷静に考えつつも、日の丸を振りたい気持ちは抑えられませんでした。

犯人逮捕の吉報

捜査は刑事さんに任せ、ぼくは自分の生活を淡々と送るのみ。月日の流れのなかで、タクシーを辞めて転職するという転機も訪れました。

時間の経過とともに記憶も風化するもの。そんなふうに事件のことを忘れかけていたそのとき、携帯に一本の着信が入りました。江東警察署の、あの刑事さんからでした。

「犯人、捕まりましたよ」

この報告を受けたときは、半ば信じられない気持ちでした。忘れかけていたところに、この吉報。喜びと安堵の気持ちが広がっていきました。

ああ、やはりお天道様は見過ごさなかったんだな。最後に正義は勝つ、うやむやにせず、被害届出して本当によかった、と思いました。

詳細な説明をしたいとのことでしたので、後日また江東警察署へ向かうことに。

そこで担当刑事さんから、事件の捜査と犯人逮捕で分かったことをいろいろ教えてもらいました。

犯人にはやはり余罪がありました。ぼくのほか、複数のタクシードライバーが同じ被害に遭い、警察に捜査をお願いしていたとのことでした。あちこちで悪さを働き、目立つ動きもあったからこそ、逮捕もできたのでしょう。

気になったのが、犯人の住む部屋の階。4階で合っていたのか確認したところ、別の階だったと分かりました。やはり、犯人はコシャクにも小細工を働いていたのです。

また、ぼくはそれとなく、逮捕されたときの状況を聞きました。あのビッグサイズの身柄をどうやって抑えたのか、興味があったのです。

「ああ、けっこう暴れましたけどね、大丈夫ですよ、その辺は」

と、軽妙に回答。まるで「そんなの慣れてますよ」という感じで。さすが、と日本の刑事を頼もしく感じました。

実はこの日の本題は逮捕の報告ではなく、今後の対応について、でした。通常の刑事手続きなら、詐欺罪として告訴して起訴するかどうかの判断がなされ、起訴されれば裁判所で法の裁きを受けることになります。状況からして有罪は免れないでしょう。が、「示談」という解決策もあります。弁護士が間に入り、和解というかたちで決着を図るわけです。刑事さんはぼくに、告訴するか示談にするか決めてほしい、とのことでした。

「ちなみに、被害届を出されている方のうち、絶対許さないから告訴するという方が1名おられるだけで、あとの方は示談交渉に応じる構えのようです」

なるほど、詐欺みたいな類の罪は示談交渉で合意するというのがスタンダードなのか。確かに、告訴したからといって失った利益が返ってくるわけじゃありません。このときの気持ちとしては、告訴は告訴でまた面倒な手続きがありそうだな、というのが正直なところでした。

刑事さんからは、弁護士の名刺を渡されました。告訴するかしないかは弁護士さんと話を聞いたうえでよいとのことでしたので、とりあえず話をしようという流れになりました(その場で示談する、と決めたかもしれません。そのあたりは記憶があいまいです)。

弁護士さんから聞いた、犯人のこと

後日、弁護士さんに電話し、近所のスターバックスで待ち合わせることに。当日スタバに来ると、そこにはさわやかな感じの青年男性が座っていました。見たところ若く、30代といった感じです。

弁護士さんの話を聞き、犯人の日本での生活の実態が分かりました。

彼は家庭持ちで、日本人の奥さんがいること。仕事は英会話の講師であること、など。とても犯罪を犯すとは思えない、ごく普通の生活を送っていた外国人とのことでした(国籍も分かったのですが、一応伏せておきます)。

今回の事件を受け、奥さんは大変ショックを受けたそうで、お金で解決できるものならどうかそうしてほしい、告訴だけは取り下げてほしい、とのことでした。ぼくを含む被害者の示談金は、すべて奥さんが支払うみたいな話もしてくれました。

「本人も大変反省していますので、どうか考えていただけないでしょうか」

といって弁護士さんが差し出したのは、厚みのある茶封筒でした。慰謝料&損害金の補償という名目で、金額もまあ悪くないといったところでしょうか。大金とまではいえませんが。

おそらく告訴すれば、本人は日本に住んでいられないでしょう。有罪となるのは確実で、出所後は強制退去になるはずです。夫婦の生活も普通じゃすまなくなるでしょう。お金をもらえるからじゃないけど、本人も深く反省している、奥さんも必ず更生させると言っている、そうであれば、意地を張って告訴までする必要はないかな、と思い、示談に応じることにしました

こんな感じで、いろいろと厄介だった事件から解放されました。

逮捕されたのはよかったのですが、弁護士さんから話を聞いたときは正直、複雑な思いでした。普通に仕事をしている人間が、人をだます罪を平然と犯す。彼は英語を学ぶ日本人生徒の前で、どんな顔をして教えていたのでしょうか? 家庭での彼の素顔は、どんなものだったのでしょうか?

犯罪者に落ちぶれた夫を、妻はこれからも支える、という。そのためならいくらお金がかかってもいい。刑務所に送られることだけは避けたい。そういう奥さんは、そうとう彼のことを愛していたのでしょう。

ひるがえって、ぼくにはそんな人いるだろうか? と考えてしまいました。罪も犯さず、ひたすら真面目に、ただ真面目に生きてきた人生。そんな愛は経験したこともないし、これからもそんな愛に出会う自信は、あまりない。人生って複雑だな、むずかしいな。事件が解決したというのに、この微妙な感情はいったい何なんだろう? 

封筒から覗く諭吉の顔。そんなもの、他愛のない無機質な紙切れにしか見えず、心は雲がかかったまま。そんなしょっぱい思い出で幕を引いた乗り逃げ体験でした。












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