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幕末「強運」を演出した人物①大沢逸平

大沢逸平

池田屋事変に遭遇するも釜に身を隠して死地を脱す

大沢逸平(後の和田義亮)は、大和国出身の尊王攘夷家。大和義挙、生野の変、禁門の変、幕長戦争、戊辰戦争など、大きな戦乱に身を投じては命を賭して戦い抜き、死地をくぐり抜けた。これだけでも大沢の強運は推して知るべしだが、決定的なのは池田屋事変に遭遇して生き残ったという事実である。鮮血に染まる凄惨な修羅場に居合わせながら、大沢はかすり傷一つ負わずにやり過ごせた。

新選組が襲撃した京の旅籠・池田屋には、長州・土佐の浪士らが十数名潜伏していた。2階の居間で謀議を重ねていたところへ、近藤勇率いる討伐隊に押し込まれたのである。

乱闘騒ぎとなったとき、大沢は1階の台所へと駆け込んだ。どこも逃げ場がない中、咄嗟の判断で身を隠したのが釜の中だった。大沢としては一か八かの賭けだっただろう。結果的にこの判断は間違っていなかった。隊士たちは最後まで大沢の存在に気付かず引き上げてしまったのである。

もちろん残党の探索は入念に行われている。大阪の後日談によると、「天上を剣で突いたり、床下に槍を入れたりしてしきりに残党を探していた」という。そこまでしながら人ひとり収まる台所の釜を覗いて確かめなかったのだから不思議だ。おかげで大沢は万死に一生を得たのである。天運にでも恵まれなかったらこんな奇跡は起きないだろう。

池田屋の会合に参加した人物やその数ははっきりとわかっていないものの、そのほとんどは現場で闘死を遂げたか、その傷がもとで命を落としている。傷を負いながらも脱出に成功した宮部春蔵(池田屋で闘死した宮部鼎蔵の弟)は、翌月の禁門の変に参加、天王山にこもって自刃した。大沢はその禁門の変にも生き残っているから、その運の強さたるや計り知れない。

戦乱続きだった幕末が終わって明治の世となり、大沢は宮内省に出仕して内舎人を奉職した。しかしすぐに辞して京に赴き、西陣織職人となって第二の人生を送る。江戸時代以降廃れていた西陣織は明治に入って近代化に成功、再興を果たしたというから、大沢の運がよい影響をもたらしたのかもしれない。



































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