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短編小説『相乗り』

夜の10時頃、郷田隆吉のタクシーは山手通りを渋谷方面に向かって走っていた。後部座席には、老人男性と若い女が相乗りしている。

老人のほうは戸越駅付近で乗せ、その五分後くらいに西五反田の橋のところで手を上げた女を乗せた。「急いでいるから」と女は半ば強引に乗ってきた。郷田は基本的に相乗りを拒むドライバーだが、この日は売り上げが悪かったことと、女の気迫に負けたこと、老人と方角が同じであったことが重なり、乗せることにした。

七十歳くらいで、大学の医学部で教鞭を執っているという男性客は、軍医の経歴があると語った。日露戦争ではあの森鴎外の助手的な仕事もやったという。五年前に終結した日米戦争では、多くの教え子たちを戦争にとられたと嘆き、戦死した愛弟子のことに話がいったときはハンカチを取り出して語って聞かせた。

「運転手さんも戦争に行ってたんでしょ?」

「私は砲兵部隊だったんですけどね。香港から広東、九江、長沙と、転戦に次ぐ転戦で引きずり回されて。いやあ、七年、長い大陸生活でしたよ。最後のほうは悲惨でした。食糧はないわ寝床はないわ、まあ、生きて帰れたのが奇跡です」

「まったく、ひどいねえ戦争は。二度とゴメンだね」

郷田と老教授の会話はしばらく戦争談で盛り上がった。女のほうはイライラしているのか、窓ガラスに頭をべたりとつけ、怒らした目で窓の外を睨みつけている。

タクシーはひたすら山手通りを北上している。おしゃべりの老人は、代々木を過ぎたあたりから大きないびきを立て始めた。熊の鳴き声のようなとんでもない音が突然鳴り響いて郷田は驚いたが、話し声がいびきの音に変わっただけだと思って気にしないことにした。ただ女は老人の隣でいびきに負けないくらいの舌打ちを響かせ、相変わらず苛立った態度を剥き出しにしている。

「うるせえな」と堪りかねた女が毒づいた。その後しばらくしていびきが聞こえなくなり、静かになった。車は東中野の交差点を過ぎていた。

女のほうは赤羽あたり、老人のほうは荒川を超えた先の埼玉県の入り口で降ろすことになっている。郷田は運転しながら、今日の仕事終わりに見る予定の映画のことを考えた。好きな女優の原節子が出演する青春映画を観る予定なのだ。好きな女優と好きな映画のことを考えていたら、自然と口笛が出た。

「死んでる!」

悲鳴にも似た声が後ろから飛んできて、郷田は背中を斬りつけられたみたいにビクッとなった。「止めて、止めて、ちょっと」と女が取り乱している。郷田は慌てて車を路肩に寄せた。

郷田が降りて確認してみると、確かに老人は息をしていない。脈も心臓も止まっている。郷田は血相を変えて「いつ、いつこの人はこんなふうになった?」と女に問いただした。女も動転して、「知らないわよ、ふと見たら、首が変なふうに折れ曲がって白目剥いてたのよ、私何もしてないわ!」と泣きそうな調子で弁明した。

「とりあえず救急車を……」と言いながら、郷田は男性の胸に手を当てて心臓マッサージを試みた。無駄なことは百も承知ながら、何か手を施さなければ気がすまなかった。何の反応もない。戦地で仲間の怪我の手当くらいはしたことあるが、高度な医療行為などできるはずもなかった。

もはやあきらめて後は救急隊員や警察に処理をお願いするしかない。それにしても面倒なことになった。こちらは何も悪くない。老人は自然にポックリと逝っただけだ。運転の仕方が悪かったのかと一瞬考えたが、そんなバカなことあるか、大丈夫だと自分に言い聞かせた。

気がつくと、女がいなくなっていた。

さっきまで後部座席にいたはずなのに、いない。どこを見渡しても。もしかして、近くの住民に助けを求めに走ったのか。だが、しばらく待っても女は戻ってこないし、戻る気配もない。

郷田は唖然となった。またパニックになってきた。逃げたのか? なぜ? けったいな現場に一人取り残され、天を仰いだ。

「……途中まで普通におしゃべりしていたんですね。でも、突然いびきかいて眠りこけたかと思ったら、静かになった、そして気がつくと死んでいた。そういうことですか?」

「はい……」

淡々と質問する警察官に対し、郷田は疲れた表情で答えた。

事件性がないことは明らかだが、にしても困ったのが、姿を消した女性のことだ。郷田は老人の他に若い女性を乗せていたことを話した。

「相乗りさせていたんですか?」と警察はややあきれながら言いつつ、「で、その人の様子は? 何かおかしな感じはなかったですか?」と質問した。化粧が厚く、緑色の洋服が派手に感じたくらいで、別に怪しいところはなかった、と思う。郷田は「さあ、別に普通の感じだったと思うのですが、顔もちゃんと見ていなかったので、よくわからない……」と困惑気味に答えるしかなかった。

老人の死は自然死に違いないが、相乗りしていた女性が姿を消すという不自然な行動を取ったため、問題案件の様相を帯びてきた。一通り聴取を終えて無事帰された郷田だったが、何だかこれだけで終わりそうもない感じが残った。

その不安は的中した。翌々日、郷田が勤務するタクシー会社に警察が訪れ、また話を聞きたいと言ってきた。彼はこの前郷田を聴取した警部補だった。

「何とかホトケの身元が判明しまして、ご家族にも確かめてもらいました。旦那さんは心臓を患っていたそうで、間違いなく病死でしょう。それはいいんですが、ちょっと、厄介なことが判明しましてね」

警部補はしぶい顔をしている。郷田の中で嫌な予感が走る。一体何だと言うのだ? 俺は何もしていないぞ。

「遺体を引き取りにこられた奥さんによると、亡くなられた旦那さんの財布がなくなっている、とのことです。ジャケットの内ポケットにいつも入れているはずの財布がないのはおかしい、と言ってるんですね」

警部補の目は明らかに疑っているように見える。

「そんなの、私は知りませんよ、私が盗ったとでも言うのですか?」

郷田の唇は怒りで震えていた。

「いや、わからんから今こうして調べているのです。でも財布がないのはおかしいじゃないですか。あなたの車に乗ってきたわけですから、乗車したときは財布を持っていたはずでしょう」

「それはそうでしょうが、私は何も知らない、私に言われてもわかりません」

冗談じゃない、と郷田は思った。あの日の夜、こっちは二人も乗せていずれからもお金をもらっていないのだ。一人はポックリ逝ったせいで、もう一人は逃げられたせいでー。こっちだって被害者なのに、盗人扱いされてはたまらない。

「あなた、あのとき老人ともう一人女性を乗せていたとおっしゃってましたね?」

「ええ、そうです。二十代後半くらいの若い女性でした。彼女は私が心臓マッサージをしている間にいなっくなっていたんです。彼女じゃないですか? 財布を盗んだとしたら。どっちにしろ私は関係ない」

「あなたの車に女性が乗車したという事実を証言してくれる人はいますか?」

「は? 私がウソを言っているとでも?」

「だって、乗せたところを目撃した人の証言がないと、こちらとしては何とも判断できない」

郷田はあきれて二の句が継げなかった。真夜中の都会の出来事である。そんな証言者を今さら探し出せと言われても無理な話だ。そもそも、それはお宅ら警察の仕事だろう? 郷田は露骨に嫌な顔を警官に向けた。

こちらがいくら潔白を主張しても、相手は信じてくれない。結局、会社のロッカーや自宅の捜索を受ける羽目になった。捜査員数人が社内に押し入り、箱やら棚やらその辺のものを手当たり次第をひっくり返すなど、乱暴に調べ尽くした。結局何も出てこなかったが、上司や同僚たちの好奇な視線は郷田に屈辱を与えた。火のように顔が熱くなった。

郷田の潔白は完全に証明されたわけではない。降ったような災いを受け、社内で肩身の狭い思いを味わうことになったのである。郷田は社員がよく集まる喫煙室への出入りを一切しなくなった。

気持ちが塞がったままハンドルを握り、夜の町を走る。誰からも信用されず、盗人扱いされる自分が情けない。車窓に映る寂しげな町の風景すら、どこかよそよそしくて薄情に見える。「くそったれ。俺が何をしたんだ」。車中で一人吠えても、もちろん何も返ってこない。

五反田駅近くに来た。女を乗せた場所がこの辺りだった。この近辺を行ったり来たりすれば、女を発見できるだろうか。いや、彼女は人の財布を盗んだ疑いがある。警察の捜査を怖れてとっくに過去の生活圏から離れているかもしれない。

それでも、郷田は女の影を探してタクシーを流した。何とか女を見つけ出してやろうとの執念が芽生えていた。

毎日のようにタクシーに乗っては、五反田駅周辺や第二京浜、山手通りを流した。そのルートは女を乗せた場所、乗せて走った場所が中心になった。それ以外の道を走る気になれない。まず女を見つけ出して真相を明らかにしないことには、日常は戻ってこないような気がした。ハンドルを握る郷田の目線は客を探さず、女を捜した。

郷田は車を降りて歩行者に聞き込みをするなど、警察まがいのこともやった。女の容貌、着ていた服、背格好、雰囲気、すべてうろ覚えだが、覚えている限りの情報を投入して聞き込みにあたった。

そんな努力が実ってか、ようやくそれらしき女性を知っているという人に出会った。

「ああ、その女性なら、たぶん五反田駅近くのストリートに立っていますよ。先週も見かけたけどな。確か週末だったと思う」

五反田で露天市をやっている男性の証言に、郷田の心は躍った。女は近くにいる。手を伸ばせば届く距離だ。何だかぞくぞくしたが、まだ油断ならない。はやる気持ちを抑えて確実に行こうと思った。

その週の土曜日の夜、郷田は休みをとって五反田に出かけた。駅周辺は露店市がひしめき、肩で風を切りながら歩く米兵や、職を探してそうなやつれた格好の復員兵らが行き交う。そんな男たちに、ストリートガールたちが色目を送っている。女たちがたむろするエリアは五反田駅から目黒川を越えた先まで続いていた。この中に、例の女がいるはず。郷田は目を皿のようにして女たちが居並ぶ道を歩いた。違う女とうっかり目が遭うとハエのようにつきまとわれ、追い払うのに苦労した。

その女は意外と早く見つかった。山手通りの手前、目黒川にかかる橋のたもとで煙草を吸っている女が、それだ。体型、風貌、髪型。間違いない。郷田はずんずん女に向かって歩き出した。

「いくらですか?」

郷田ははじめて会ったふうを装って近づいた。女のほうはまったく覚えていないようで、ニッコリ笑って上目遣いに腕をからませてきた。タクシーに乗ってきたときの態度とえらい違い様だった。郷田のことを流れてきた行きずりの客としか思っていないようである。二人の影は橋の下のバラックの中に消えた。

行為を済ませた後、郷田は自分があの日のタクシードライバーであることを告げた。女は最初、何を言っているのかわからないような顔をしたが、すぐに思い出したようになって、たちまち警戒する目つきになった。

しかし、それも一瞬で打ち消して、またニンマリと娼婦の顔に戻った。そして「わざわざ見つけて会いにきてくれたの?」となれなれしく首に手を回してくる。「私、ミエっていうのよ。お得意になってくれる? そうだ、これから毎回タクシーで送迎してくれたらうれしいわ」などと言ってくる。郷田は何だか拍子抜けした。慌てふためく態度を予想していただけに、次の言葉がなかなか出てこなかった。

「君じゃないのかい?」

郷田は思い切って尋ねた。この女が財布を盗んだはずなのだ。

「何? 何のこと?」

「とぼけるな。君はあの、死んだ老人の財布を盗んだだろう?」

郷田が単刀直入に切りだすと、女はぽかんと口を開けた顔になった。何か変な生き物でも見るかのような顔つきになった後、声を立てて笑いはじめた。

「私が財布を? 冗談じゃないわ。何を勘違いしてるの?」

女は鼻で笑った。お話にならないとった感じである。

「じゃあ、なぜあのときいなくなった? まだ降車地じゃなかったのに、あのタイミングでいなくなるのは不自然じゃないか」

「面倒なのが嫌だったのよ。警察は嫌いだし。ほら、私のこの格好みたら娼婦ってわかるじゃない。最近もまた取り締まりが厳しいのよ」

女はあっさり答えた。ウソをついているようには見えない。

この女でなければ、老人の財布を盗ったのは誰なのか?

郷田は女の目をじっとにらみ据えた。本当のことを言っているのか、ウソをついていないか、目をこらして真実を見つけようとした。

「ちょっと、何を怖い目で睨んで。やあねえ。もう死んだ人の財布なんかどうだっていいじゃない。その奥さんがウソついているかもよ? そんなことは忘れてまた楽しみましょう」

抱きついてくる女を郷田は受け止めた。そのまま後ろに倒れる。女の髪の毛はいい匂いがした。郷田は黒い天上を見ながら、正体を必ず掴んでやると思った。

その日以降、郷田は休みの日に五反田へ通うのが日課となった。タクシー営業中も、客がいなくて暇なときはミエに会いにいった。

ミエに会い、一通り行為が終わると、郷田は決まって言うのである。「白状しろ。お前が財布を盗んだのだろう。お前が認めない限り、俺の濡れ衣は消えない」。そう問い詰められて返ってくるミエの言葉も決まっていた。「私じゃないわよ。本当はあなたじゃないの?」

「本当に俺が盗ったとしたら、こうしてお前に会い来て、お前を買う理由はない」郷田はこう言い返した。犯人捜しのために、郷田はタクシーで稼いだお金を使い果たすどころか、借金を背負う身になっている。自分が財布を盗んでいたとすれば、こんな行為は矛盾どころか相当バカバカしい。そう郷田は言いたかったが、ミエは「財布を盗んで手に入れたお金で私を買ってるんじゃないの?」と可笑しそうに言った。それに対して郷田はただ沈黙した。そして薄笑いになった。

郷田が何度も何度も顔を見せ、何度も何度も同じ問いを繰り返しても、ミエが罪を認めることはなかった。ミエがかたくなな姿勢を貫くほど、郷田にはウソを言っているように思えてくる。あのとき姿を消した理由もウソのように思われた。

こうして通い詰めるうちに郷田の生活は破綻寸前になっていた。それでも、濡れ衣を晴らすため、自分の名誉を回復するため、そう自分に言い聞かせて五反田の賑やかで暗い場所に足を踏み入れる。ミエの前に何も言わず立ち、バラックに消え、抱いた。数を重ねるにしたがい乱暴になっていった。終わると黙って金を起き、例の問責がはじまる。答えは決まっていた。

会社の同僚たちは、相変わらず郷田のことを怪しむ目で見ていた。郷田もそれはちゃんと意識している。しかしそれは、盗人疑惑の目色ではなかったのだ。「あいつ、近頃何だか生き生きとしているな」「そうだ、俺も、やたら血色よくなったなと思ってたところだ」「生きがいでも見つけたんだろう」という、うらやむ気持ちで見ていたのである。郷田が気にすることとは裏腹であった。

郷田を疑っていた警部補が再びタクシー会社に姿を現したのは、ミエのところに通い始めて三ヶ月後くらいだった。

「この度は郷田さんに大切なお話があっておうかがいしました」

「大切なお話?」

郷田は怪しんだが、警部補の顔つきを見ると前回のように険が立っていない。おごった感じは消えて低姿勢のように見える。

「ご老人の財布がなくなっていた件です。財布を盗んでいた人物がわかりました。あのとき現場にかけつけた巡査です。つまり、私の部下です。このたびはご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません」

警部補はそう言って深く頭を垂れた。

彼の話によると、その部下は娼婦と賭博に入れ込んだ挙げ句借金まみれになり、金に困ってつい魔が差したという。部下には厳しい処分が下る、少しでも疑って悪いことをした、どうか許してくれと何度も謝った。

これで郷田の濡れ衣は晴れた。この時点でミエのところへ通う理由もなくなった。そのはずであったが、郷田の足はまたいつものように五反田に向かっていた。

「どうしてあのとき、お前は何も言わずいなくなったんだ、理由を教えろ」と、以前に聞いて答えてもらったことをまた尋ねた。

「だから言ったじゃない、面倒は嫌だから、警察は嫌いだからって」

ウソだ、ウソをついている、他に理由があるんだろう、なぜ俺の前から消えた、それを教えてくれるまで俺は何度でもここに来なければならないー。郷田は、狂ったように言いながら、公衆の面前もはばからず、山手通りの橋の上でミエの体にむしゃぶりついた。

傍を通りかかる通行人はみな、一瞥もくれずに通り過ぎていく。



























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