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【短編小説】徳川のお面

小汚いお面を手に帰宅した道夫を、俊子は叱りつけた。そんなガラクタを拾ってどうする、行儀もよろしくない、第一人様のものだったらどうするのだと、ガミガミまくし立てた。空き地のゴミ溜めに放り込まれていたのだから問題ないやい、と抗弁する道夫の声にも耳を傾けず、お面を取り上げた。よく見ると安物のお面ではない。能で使われる小面のようで、伝統工芸品であるのは素人目でもわかった。ただそれよりも、口を小さく開けて何か物言いたげなふうに微笑む顔の造作が、俊子には薄気味悪く思えた。

そのとき、飯田家には、近藤さんという隣の隣に住む七十がらみのご近所さんが遊びに来ていて、舅の武郎と碁を打っていた。彼は俊子が持つ能面を見ると目を丸くし、驚いた様子でこう言った。

「これは、徳川家光公が当代きっての名師・永光宗丸につくらせた能の小面ですよ。私の叔父が能面師だったもので、小さいときからウンチクの耳講義受けてきたものですから、こっちの知識はにわかじゃないんです。間違いない。坊や、あんたお手柄だねえ」

目利きのしっかりとした古物商に持ち込めば、五万円はくだらないだろう。そんなふうに太鼓判を押したものだから、武郎も立ち上がって右往左往しだした。ついこの間女房が家を飛び出して骸のように消沈していたが、やっと生きた目を取り戻したようだった。

戦争が終わって六年弱、お金もモノも乏しく瀬戸際の生活を強いられるなかで、五万円という大金は飯田家の当分の生活を支える十分な資金源になる。まさに天の配剤とばかり、一家は色めき立った。

その日の夜、飯田家では家族会議が開かれた。「では、私が明日にでも骨董屋さんに持って行きましょう」そう口火を切ったのは俊子である。しかしすぐに夫の昌彦が「お前ではわからん、これは目のある人間がちゃんとしたところを見つけて持って行くのがよいのだ」と冷や水を浴びせた。武郎も「そうだ、八百屋で大根の値踏みするのとわけが違う」と同調する。大根の値踏みといったのは、俊子が毎日心血を注ぐ支出の切り詰めを揶揄したのだろう。俊子は嫌な気持ちになった。

結局この問題は、高価な代物だと教えてくれた近藤さんに相談することで一応の決着を見た。俊子は改めて自分が一家で信用されていないことに気づいた。それどころか、近所の人間のほうが頼りにされているみたいで心外ですらある。この嫌な空気を跳ね返せない己の無力も歯がゆかった。

俊子は心臓の鼓動が早鐘するを覚えた。何か胸がチクチクと痛む。動悸なら、戦時中につんざくような空襲警報が鳴ったとき散々経験したのだが、ただあのときは恐怖もありながら、どこか投げやりでヤケクソな気分が風穴を開けて軽くしてくれたこともあった。この鼓動はそれとまた違う、重くどんよりとしたものが乗っかり、逆に根詰まりを起こしたみたいにうっとうしい。

戦争が終わってから今日まで、一家の家計が破綻せずに済んだのは誰のおかげよ。野垂れ死を免れたのは、誰の働きがあってよ。私がいなかったら、一家もろとも潰れていてもおかしくなかったのよー。

俊子はそう叫びたかった。


「主婦連合」の会員でもある俊子には、家計のやり繰りをすることの他に、週に一回の会合や、暮らし改善運動、消費生活をよくするための啓蒙など、政治的な活動に奔走する日課があった。

主婦連合は、戦後に立ち上げられた政治団体である。「台所から政治を変える」をスローガンに、主婦の有志が集まって結成された。ここには働きながら家事育児をやる兼業の主婦もいれば、俊子のような専業主婦もいる。エプロン姿のまま出席する婦人もちらほらいた。敗戦のショックでぼうっ切れのように腑抜けとなった男たちに変わり、女が立ち上がってインフレという脅威から生活を守る防波堤となる。そんな気高い誇りを持つ集団だった。男女同権の風潮と、婦人の参政権が認められた時代の追い風を受け、女たちはこれからの日本を引っ張っていく気概にあふれていた。

「政府が電気代の値上げを検討しているそうです。断じて阻止しなければなりません。私たち主婦連合が率先して声を上げていきましょう」

「公共下水道の整備が遅々として進まないのも問題です。署名を集めて国会に提出しましょう」

「公共サービスも大事ですが、市民にとって喫緊の課題は防犯体制の強化です。また空き巣被害が多発しています。先月も都内だけで空き巣が22件出たとの報告が警察から上がっています。見回り隊の結成や声かけ運動など、市民が安心して暮らせる防犯の仕組み作りが求められています」

会合では、活発な意見交換や政治的な議論が展開された。婦人たちが目を輝かせて政治を語る姿など、戦中戦前まで考えられない光景だったと言ってよい。敗戦で死んだ目つきの男たちとは対照的である。がれきだらけの荒野を裸足で走る野人のようなたくましさで、女たちは社会を引っ張ろうとしていた。

そんな、戦後の主婦たちの活動ぶりを、新聞は「生活防衛の要」と称えた。「生活防衛の要」。このコピーに接したとき、俊子の心は震えたものである。もう男たちが威張り散らす時代は終わった。インフレ脅威の今は、家計を上手にやり繰りできる主婦なくしては生き残れない。実入りが少ないというのに、米麦の高騰、追い打ちをかけるように電気代の値上げ。ミサイルが飛んでくる戦争が終わり、インフレ地獄から家庭を守る戦いがはじまったのだ。この方面で武器となるのは腕力ではなく台所の経済感覚。つまりは主婦の才覚が、物価の津波を分かつ剣となったのである。

俊子には、霞を食むような困窮状態の飯田家を、台所に立ちながら必死に支えてきたという自負がある。国民総闇屋になった敗戦後、お米や野菜を手軽に仕入れるにはどうすればよいか知恵を巡らし、情報を集め、遠出もいとわず出かけていった。野菜を安く大量に買えるとの情報が入れば、房総半島の南の田舎までリヤカーを引いて運んだこともある。食うため生きるため一家を支えるため、物資の仕入れをやりこなせたのは、他ならぬ俊子の働きによるものだ。闇の生活から抜け出した後も、絶えず変動する物価に対応しなければならなかった。昌彦の印刷工の収入だけで乗り切るのは無理な話で、収支に目を光らせる俊子の本領がここでも発揮された。この時代、入るのが乏しいなら出るものを抑えなければならない。収支をやり繰りして消費を上手にこなす知恵のない男たちには、到底できない仕事だった。

戦争中はいかに女が無力であるかを痛感したが、その認識は戦後になって180度変わった。女たちこそ社会のエンジン。無気力の男たちはただのお荷物。そのような自覚も俊子の中で芽生えていた。

俊子の発案で動いた施策があった。都民の声を幅広く集めて都政に反映する「グリーンポスト」設置がそれだ。都民と政治の現場をつなぐ伝書鳩を趣旨とした。路上に溜まったゴミ、酸鼻を極める下水道、多発する空き巣被害など、都民の頭を悩ます問題は多い。彼らの声を吸い上げ、都政に反映させるのは民主政治の基本といえた。この案は主婦連合の幹部連ほか、施設や都議たちの間でも評判がよく、設置場所は都庁やデパート、婦人会館、区役所など、瞬く間に都内各所に広がった。

「俊子さん、丸善のグリーンポストに入っていた封書、見ました?」

そう声をかけてきたのは、主婦連合事務局で唯一の男性スタッフである青木だった。

「何か面白いことでも書いてあったんですか?」

俊子が聞くと、細面の青木は右の口角をにゅっと上げて、「息子の就職がなかなか決まらない、おエライさんの口利きで何とかしてもらえないか、ですって。あろうことか都民が汚職を誘導しようとしてます、どうしましょう?」

そう言いながら青木は腹を抱えて笑い出した。俊子はその調子に合わせず「全部を都政に吸い上げるわけじゃないんで、お門違いの意見は無視していいんじゃないでしょうか」と、冷静に返すにとどめた。

グリーンポストにはまともな意見もくれば、的外れでとんちんかんな投書も届く。都政と直接関係のない意見は無視でよいのだが、青木は突飛な意見を見つけては俊子に報告して面白がった。自分より二歳年下のこの青年を、俊子は弟のようにかわいく思うこともあるが、どちらかというと大人しい自分とは波長が合わずやや持て余し気味なところがあった。

この後、俊子は連合の仲間とともに都庁へ出向いた。各所のグリーンポストに集まった都民の声を届けるためである。白い紙の束を都知事に直接手渡すのは俊子の役目だった。このとき、俊子は、五臓六腑がしびれるほどの心地よい興奮と昂揚を感じるのだった。

そんな俊子のはつらつとした威勢も、家庭に戻った途端にしぼんでしまう。昌彦も武郎も、俊子の働きには目もくれない。お家の台所事情を守った功績などなかったかのように、当たり前のようにふんぞり返っている。今はただ徳川のお面という天の配剤をどう活かすかに血なまことなっていた。高額に取引してくれる受け入れ先の選定以外、目にないようである。

そんな調子だから、俊子が声をかけても蚊が寄ってきたみたいに邪魔だと払いのける。武郎などは、その横着な態度のせいで女房に逃げられた反省など微塵もないようだ。俊子は泣きたいくらい情けなくなる。昌彦と武郎を虜にする薄笑いのお面がまるで自分をあざ笑っているようで、憎たらしい気持ちにすらなった。

戦後の社会の空気を変えた風が家庭にまで入ってくることはなく、自分を取り巻く空気はよどんだままだった。

お面の価値を見いだしてくれたご近所の近藤さんを招いて、持ち込むべき骨董品店の選定会議が行われた。それは夜を徹しての白熱した議論だった。そこでの俊子の役割といえば、お茶出しと団扇の仰ぎくらいである。もちろん会合の輪にも入れてもらえない。深更にようやく持ち込み先が決まった後、ちゃぶ台の片付けをするのも俊子の仕事だった。

俊子はもやもやした感情を引きずったまま、翌日の会合に顔を出した。浮かない表情が目についたのか、青木が一杯どうかと声をかけてきた。いつもの俊子なら断るのだが、その日は二つ返事で承諾した。それくらい俊子の理性は弱っていた。青木の奢りということで出費に気を回さなくていいことも後押しした。生まれてはじめてといっていいほど、俊子はやけ酒をくらった。

「どうして生き残ったのかな、と今でも思うことありますよ。特攻崩れなんて言われて、のこのこ帰ってきてとけなされて。一体どうしろって言うんでしょうか? こんなふうに腐った気持ちでぼやくくらいなら、生き残らず華々しく散る運命であればよかったと悲観するんですよね」

「言いたい奴には言わせとけばいいのよ。あなた、もっと自信ある人かと思ったけど、意外ともやしみたいなところあるんだねえ」

いつも陽気な青木の、酒が入って弱気な一面を見て、俊子は少し心がほだされるような気持ちになった。

青木との懇談が思った以上に延びてしまい、帰りがいつもより遅くなってしまった。玄関の戸の前に立った頃には、時計の針が夜ご飯の時間を過ぎていた。しまったと思いながら俊子が扉に手をかけてみると、鍵がかかって開かない。ドンドンと強めに叩き、俊子です、今帰りました、開けてください、といっても、誰も出てこない。縁側を通して居間の灯りがついているのが見える。昌彦は起きているはずだった。羽を伸ばした女房への嫌がらせだとすぐにわかった。

音に気づいて玄関の扉を開けてくれたのは道夫だった。悪ふざけのつもりか、お面を被って出てきた。

「それ、明日古物のお店に出すものだよ。ダメじゃないの、被って遊び物にしちゃ。お父さんとおじいちゃんに怒られるよ」

そう息子をたしなめ、お面を取り上げた。相変わらずおちょぼ口の薄笑いが不気味でしょうがない。掴んだ右手の握力に思わず力がこもる。一瞬、このまま投げ捨ててしまおうかと思って外に手が延びたくらいだ。

夜が更けて二時頃、俊子は目を覚ました。隣では昌彦が静かな寝息を立てている。もう一度眠ろうとしても、一度開いた目蓋は閉じてくれない。何度も寝返りを打つうちに時間が過ぎた。そのうち喉がかわいてきて、しょうがなく起き上がった。

台所に入ってみると、明らかに隣の和室で誰かいる気配がした。武郎が起きているかと思ったが、さっき部屋の前を通ったとき熊のようないびきを聞いたので、そこにいるはずがなかった。

視線の先に、黒い影の塊がうごめている。背筋が凍り付いた。こちらの気配に気づき、影がすくっと立ち上がった。俊子は口を開けたまま動けず、暗闇の中で目出し帽を被った男と向き合った。

覆面の男は包丁を突きつけながら、金を出せと脅した。おびえて声が出ない俊子はその場に居すくまり、かろうじて後ずさりするのがやっとだった。男の声音は苛立っていて、何をするかわからない雰囲気を漂わせる。俊子は歯のカチカチ鳴るのが止まらず、膝が震えてどうしようもない。男が背にする座卓に目がいった。薄笑いのお面が白く浮かんでいる。俊子はおそるおそる時計回りに体をずらし、男と対峙しながら和室に回り込んだ。素早くお面を手にすると、「こ、これを持って行ってください。これは徳川の将軍様が作らせたとっても価値のあるお面です。目のある人に言わせると、十万円の価値があります。本当です、う、うちには、それ以外金目のものはありません。ど、どうぞこれで勘弁してください」

五万円であるのを十万円と口走るなんて、子供だましの機知に過ぎなかったが、我ながら意外と冷静だった自分に驚いた。そう思うと物もちゃんと見えるようになるもので、男は自分より短身、ひょろひょろと細い体をしている。何ならしゃもじ程度の武器でも勝てそうに思えたくらいだ。ろくに食べておらず、ひもじい思いをして我が家に押し込んできたのだろう。このご時世の空き巣や強盗はそのような手合いばかりだということも、俊子は知っている。

男はそっと前のめりになり、俊子が差し出した右手に向かって踏み出した。男の手が伸びてお面を掴もうとした瞬間、俊子の右手が思い切りふりかぶり、男の頭頂部を直撃した。相手が膝を崩したところを、「わー、わー」と狂ったように叫びながら、ホウキ、ぞうきん、ぼんぼり、ざぶとん、湯飲み、茶碗、漆喰の置物など、目に付く物を手当たり次第に投げつけ投げ飛ばした。極めつけは仏壇の燭台を掴んでぶん投げる。男は完全に怯んでいた。

俊子は前屈みになって座卓に手をかけ、ふんと力をこめてひっくり返した。ものすごい音が響いた。廊下の奥からドンドン走ってくる音が聞こえる。昌彦だった。慌てた男は縁側に向かって遁走した。めちゃくちゃに物が散乱する光景に昌彦は唖然と立ち尽くし、髪を乱してうずくまる俊子にはちらっと横目に入れただけで、「おい、まさか」とかすれた声を出した。

ひっくり返った座卓をのけると、お面が真っ二つに割れて骸になっていた。

昌彦は頭を抱え、横に行ったり後ろに下がったりして、「何てことだ、何てことだ」と呪文のように繰り返した。ただただくずと化した張り子を惜しむだけで、後ろで女房が鋭く眼光を飛ばしていることに気づかなかった。その面貌は般若のようだった。


空き巣被害の一事から数日後、俊子は出奔した。同じ頃合いに、主婦連合事務局スタッフの青木が姿を消した。連合内ではふたりの駆け落ちが噂された。

グリーンポストには、毎日のように都民の意見や注文が届く。ある日、こんな投書が寄せられた。

「主婦連合の会員でもあった妻が家出しました。変な噂を立てられ、一家は苦しめられています。生活防衛といいながら、人様の家庭をぶち壊すとは何事ですか。責任をとって探しだしてください」

この投書はスタッフの間でしばらく話の種になった後、ゴミ箱に捨てられた。





















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