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助詞研究 「は」VS「が」

言葉と言葉、文節と文節をつなぐハブの役割を持つ「助詞」。

そのなかでも、主語と結びつくことが多い「は」と「が」。

この違いとは何だろうか? どっちを使ったほうが正しいんだろう?

文章を書きながら、つい考え込んでしまうことがあります。

助詞を解説した文法の本はたくさんあります。また、多くの学者が助詞についてさまざまな説を出していて、なかには学術論争に発展している例もみられます。

つまり、助詞の使い方、用法については、明確な答えというものはないに等しいのです。

時代によって、異なる使われ方・異なる解釈が生まれることもあります。

では自分なり考えて、「こういう使い方あってもいいんじゃない?」といった軽いアプローチもあっていいんじゃないでしょうか?

そこで今回は、「は」と「が」にはどんな違いがみられるか、またどんな使い方をすればよいのか、ぼくなりの考察を試みたいと思います。

これから述べることは、ぼくのこれまでのライター経験の中で培った知見に基づくものです。参考書や学術書などのソースがあるわけではないので、それを承知のうえで読んでいただければと思います。

「は」は客観・「が」は主観?

まず、以下の例文を表示します。

①夕日はきれいだ ②夕日がきれいだ

このふたつは何が違うでしょうか?

同じことを言っているようですが、ニュアンスが若干異なります。

①は、夕日そのものを説明し、②は、夕日をきれいだと思う自分の感情を説明しているような印象です。

①は、夕日を眺めていなくても言える言葉です。窓を閉め切った部屋のなかにいても言えますし、夜や朝どきでもいえます。しかし、②は、夕日の実景を前にしないと生まれてこない一文です。

もうひとつ、例を出しましょう。

①空は赤い ②空が赤い

①をみたとき、「ん?」となりませんか? 空は青いものであって赤くはないでしょう。だから、これは誤字だろうとか、日本語としておかしいだろう、と返される可能性が大です。

②だと、「これは夕空のことを言ってるのかな?」とか、「自分のなかでは“赤く見える”ってこと?」など、ちょっと考える余地が生まれます。

同じように言える「は」と「が」を使った例文を列挙してみましょう。

夕日はきれいだ/空は青い/佐藤は賢い/恭子はきれいだ/時計は高価だ/歯ブラシは汚い/レモンは酸っぱい/仕事はつらい/旅は楽しい
夕日がきれいだ/空が青い/佐藤が賢い/恭子がきれいだ/時計が高価だ/歯ブラシが汚い/レモンが酸っぱい/仕事がつらい/旅が楽しい

上と下の文、微妙に違いますよね。

いずれも、いわゆる「A=B」という文章です。しかし、対象、つまり主語との距離感が、「は」と「が」では異なるように見受けられます。

「は」の場合、何かしらの根拠があることを前提に、Aという対象を客観的に捉えている印象です。その根拠を示す文章があとに続くことになるでしょう。

それに対して「が」はあくまで主観で、Aに対する自分の見方、考え方、体験、見たままの印象を述べている感が強く、続く文章は至極日常的なもの、私的なものになりそうです。

青い。今のぼくのすっきりした気分のようだ。いよいよ司法試験の結果が分かる。思い残すことは何もない。結果がどうであれ、ぼくは今日、真知子に告白する。
青い。今のぼくのすっきりした気分のようだ。いよいよ司法試験の結果が分かる。思い残すことは何もない。結果がどうであれ、ぼくは今日、真知子に告白する。

「は」の例文、次に来る文章と、何かつながりが悪い感じがしませんか? 空について何か言いたいのかと思いきや、いきなりぼくの気持ちがどうとか言い出して、完全に冒頭の一文だけポエムと化しています。書くとすれば、「空は青く澄んでいる」としたほうが自然でしょう。

青い。色はそうだが、かたちは明確に一言で表せない。これに対し、太陽の色は赤、橙、黄金など、いくらでも表現できるが、裏を返せば定まっていないのと同じだ。しかし、かたちは丸いと断言できる。
青い。色はそうだが、かたちは明確に一言で表せない。これに対し、太陽の色は赤、橙、黄金など、いくらでも表現できるが、裏を返せば定まっていないのと同じだ。しかし、かたちは丸いと断言できる。

空の客観的説明の場合、やはり「は」を使うほうが自然です。こうしてみると、「は」「が」の使い方が、次の文章を規定する、と言えそうです。

まとめ

「花子は走っている」「花子が走っている」

花子の行動、花子の今の姿、花子の様子にフォーカスしたい、あるいは花子のいる運動場全体にまで視野を広げて文章を構成したい場合は、「花子は走っている」がよい、と個人的には思います。

そうじゃなくて、「花子走ってるよ、今気づいたよ、なんであいつ走ってんだ、ひとりだな、寒そうだな、さみしそうだな」などなど、花子の行為自体に対して何か思うことがある場合、その現象に感情を乗せて表現したい場合、「花子が走っている」のほうが、すわりよい感じがします。

長々と説明してきましたが、そんなに細かく突き詰めなくても、だいたいが自然と感覚的に使い分けているのではないでしょうか。

最初に言ったとおり、あくまで私見であり、専門的に研究したわけではないので、学術的に甘い部分もあるかと思います。おそらく例外もあるでしょうし、文章次第では逆のケースがよいかもしれません。このあたりが、日本語の複雑怪奇なところであり、面白い一面でもあります。

いずれにしても、助詞について「こんな見方できない?」というぼくなりの見解を伝えたかっただけで、何かの参考にしていただけたら幸甚です。






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