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わたしたち日本人の祖先は、大きな戦争をすると決め、戦った~序章~

ここに、一冊の童話がある。タイトルは、『わたしたち日本人の祖先は、大きな戦争をすると決め、戦った』。

童話といっても、名のある作家が書いたものではない。まして書店に出回るような代物でもない。これは、N高校に在勤していた、あるひとりの学校用務員による自著である。

用務員は本年度、定年退職し、現在は気ままな隠居生活を送っている。これまでお世話になった学校に恩返しをできないかと考え、書いたのがこの童話ということらしい。「未来を生きる子どもたちに、何かを残したい」との思いが込められている。

タイトルから分かるとおり、内容は過去に日本が起こした戦争、太平洋戦争(大東亜戦争)に関するものだ。小中高生でも容易に読めるような童話文体でつづられている。一介の素人研究者が書いたものとはいえ、太平洋戦争史をひととおり網羅しており、ひとつの力作ではある。

この童話を戦争教育の教材とし、N高校2年A組のジュン、コウタ、ハナコ、ユナのグループが日本の戦争についてディスカッションすることになった。

4人の高校生は、とくに深い歴史的知識があるわけでもない。何色に染まっているというわけでもない。だから、まっさらな気持ちでこの童話を手に取り、自分たちなりの感性で咀嚼できるだろう。

簡素な装丁の表紙を開いて数ページめくると、こんなプロローグからはじまっていた。

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日本がまだ、いまほど豊かでもなく、自由でもなかった時代、アメリカと戦争をするという、とても大きな決心をかためたことがありました。

みなさんもご承知だと思いますが、この戦争は、日本の敗北という結果で終わりました。敗北どころではない、それはそれはむざんな負け方で、一言では言い表せないほどです。日本は、自然も、国土も、人のこころも、大きくきずつきました。そして、多くのとうとい命を失いました。

たくさんのものを失い、たくさんのものを壊され、二度と立ち上がるのはむずかしいとさえ思われました。それでも、日本という国はなくならず、わずかばかりの未来は残されました。

それは、焼き払われた大地に咲く、たった一輪の花のような、小さく頼りない希望に過ぎませんでした。そんな状態から、生き残った人たちは、二度と戦争はしないと心に誓い、祖国の復興を目指します。それは小さな一歩でしたが、確実に前へ進むための、力強い一歩でもありました。

残された人たちの努力と苦労により、焼け焦がれた日本は少しずつ元気な姿を取り戻していきました。田舎では、健やかに稲穂を実らせた田んぼが目立つようになり、街のほうでは、立派な高層の建築物が建ち並ぶようになりました。大きな道路や高速で走る鉄道が全国にくまなく整備され、人とモノの往来は活発となりました。便利な機械製品もどんどん生み出され、人々の生活は各段に進歩をとげていきました。がれきの山に埋もれ、明日の食糧もままならなかった敗戦直後を思い出す人は、もういません。日本は立ち直ったと、世界の人がみても思いました。

戦争に負けはしたものの、新たな国造りには成功しました。戦争のない、豊かで平和な日本をつなげることができました。希望を捨てなかった日本人の、わたしたち祖先の勝利です。そしてあのとき、わずかに残されていた未来を生きているのが、今日のわたしたちです。

幸い、いまの日本では、穏やかな日々を過ごせます。いろいろ不満や不安はあるでしょうけれど、戦争の災禍に見舞われるような怖れは、いまのところありません。もちろん、平和を愛し、不戦を誓う姿勢も変わりません。しかし、平和な世の中が、当たり前のように築かれるものではないことも、事実です。なぜ、平和でいられるのか、なぜ、豊かになったのか。そこに対する考えが、現代の人は甘いような気もしますが、どうでしょうか。

時代が過ぎて、戦争の記憶は薄れつつあります。戦争を経験した人たちも、ほとんど残されていません。戦争があった時代と、戦争についてまったく知らない人たちが中心の時代とが、少しずつ離れていこうとしています。そしてその距離が、今後ますます開いていくことは確実です。完全に切り離されるか、それとも、精神的なつながりをしっかり残しておくか。ちょうどその狭間にいるわたしたちに、この問いが突きつけられているような気もします。

ふだんの生活に追われていたら、なかなか気づかないことですが、前の戦争で起きたことは、現代にもところどころでその影をみることができます。

たとえば沖縄における、米軍基地をはじめとするアメリカのもろもろの権利は、かの国が日本との戦争で勝ち取った利益の延長です。アメリカは一度、日本との戦いに勝利を収めて、沖縄を占領したことがありました。

戦争が持つ不条理で理不尽な原理と、それにともなう国際社会の冷徹な常識に照らせば、「沖縄はオレたちのものだ」とアメリカ人に言われてもおかしくありません。それを、当時の政治家や官僚たちがアメリカの高官たちと交渉し、何とか話し合いだけでくつがえすことができました。政府の背中を力強く押したのは、沖縄返還を待ちのぞむ本土の人たちと、日本復帰を願ってやまない沖縄県民の、切実な思いです。沖縄の日本復帰が決まったときは、全国で歓喜の声が沸き起こりました。

戦争によって奪われた土地を、戦争以外の方法で取り戻すなど、本来ならありえないことです。快挙といっていいかもしれません。沖縄の米軍基地はいまなおさまざまな揉め事の火種を抱えますが、当時の人たちの大変な苦労のおかげで今の日本と沖縄がある事実も、忘れてはならないでしょう。

南の沖縄から、今度は北へ目を向けてみましょう。北海道の北東、根室海峡をはさんで洋上につらなる北方四島は、国後島、択捉島、歯舞群島、色丹島の四島で構成されます。この地は古くより、れっきとした日本固有の領土です。しかし、ロシアの人たちは、北方領土はロシアのもの、と言っています。

日本とロシアそれぞれの首脳が会談するとき、北方領土をどうするかについての議題が、必ずといっていいほどあがります。現在、北方四島にはロシア人が住み着き、日本人は気軽に足を踏み入ることができない状態です。日本はロシアに「北方領土を返してほしい」と言ってきましたが、相手は聞く耳を持ちません。両国の主張は、常に、平行線をたどったままです。

どうしてこうなったかというと、先の大戦でロシア軍(当時はソ連軍)がこの土地になだれ込み、不法占拠したからです。しかもそれは、日本が武装解除して、降伏した後に起きました。当時の日本人は、ロシアの行いに大変怒りました。日本と敵対していたアメリカも、ロシアに対して強く抗議しました。けれど、時代の経過とともに、怒る人は少なくなっているような気がします。当時の人は怒って、今の人はなぜ怒らずにいられるのか、この違いは一体、何だと思われますか?

平和な世の中に生まれたわたしたちは、戦争とはどういうものか、その現実を知ることはかないません。しかし、わたしたちの前の時代を生きた人たち、つまり、わたしたちのおじいちゃんやおばあちゃん、ひいおじいちゃんやひいおばあちゃんたちは、実際に戦争とはどういうものかを経験しています。戦争の持つあらゆる苦しみを味わっています。身近にいる人たちの体験談をとおして、その時代を生きた人たちの行い、考え、思いなどを知ることができます。

10代~20代の若者は、ひいおじいちゃんやひいおばあちゃんから戦争の話を聞くことができるでしょう。

30代~40代の、働き盛りの世代は、おじいちゃんやおばあちゃんから戦争の話を聞くことができるでしょう。

50代~60代の、後進を指導していく世代は、お父さんお母さん、おじさんおばさんから、つらい戦争体験の話を聞かされたのではないでしょうか。

70代~80代の、見守り世代は、お父さんやお母さん、あるいはお兄さんやお姉さん、学校の先輩たちのなかに、戦地へ赴いた人がいることでしょう。

そして、90代~100歳前後の、生き証人と呼ばれる世代は、友だちや近所の遊び仲間のなかに、戦友さんがたくさんいたことでしょう。何より、自分たちが、戦争とはどういうものかを、全身全霊で受け止めてきたことでしょう。

お父さんお母さん、おじいちゃんおばあちゃん、ひいおじいちゃんひいおばあちゃんたちが経験した戦争について、いまを生きるわたしたちが知っておくことに、どのような意味があるのでしょうか? 

別に知らなくても、生活に困ることはないかもしれません。知るだけ知って、役立つことは何ひとつ、ないかもしれません。ただひとついえることは、あのとき、自分たちが生きる「いま」を捨て、生まれ育った日本という国の「未来」のために、大砲の弾丸や銃弾が飛び交う戦場へ飛び込んでいった人たちが、たくさんいた、ということです。

時間があるときに、少しだけ、振り返ってみてください。当時の、厳しい時代を生きた人たちの、まっすぐ向けられた瞳と、強い決意で臨む態度が、頭のなかに浮かび上がってくるかもしれません。託したかった心の声が、聞こえてくるかもしれません。

あるいは、そんな聞こえのいいものではなく、見えるものは、目をおおいたくなるような、醜い事実かもしれません。気分が悪くなって、知らないほうがよっぽどよかったと、後悔してしまうことだって、あるかもしれません。「戦争をかっこいいことみたいに言うな」というお叱りの声も、少なからずあるでしょう。

ただ、どんな姿が見えても、どんな声が聞こえても、それはわたしたちの祖先が残してくれたものであり、あの人たちが生きた延長線上に、わたしたちの立っている道があります。いろいろな考えや感情があったとしても、その事実は永遠に変わりません。


1941年12月8日、日本海軍によるアメリカのハワイ基地奇襲をきっかけに、3年8か月におよぶ日米戦争がはじまりました。日本軍は広い太平洋の島々に躍り出て、米軍とはげしくぶつかります。戦域は太平洋にとどまらず、マレー、インドネシア、フィリピン、インド、ボルネオなどの東南アジア諸国から、ニューギニア、オーストラリアといったオセアニア地域まで拡大しました。各地でどんな戦いが繰り広げられたのか、どんな思いや感情が駆け巡っていったのか、いまからじっくり語っていくこととしましょう。


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