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ロケレン、開幕までの1ヶ月。

2019年8月2日、ベルギーの天気は快晴。気温は30°前後だっただろうか。ヨーロッパは北極で冷やされた風が北西から入ってくるので、夏場でもかなり過ごしやすい気候である。湿度もかなり低いので、日本の真夏の30°とは比較にならないほどジメジメ感がない。そんな爽やかなヨーロッパの夏空の下にいた僕は、その夜に起きる衝撃的な出来事を知る由もなかった。

その日僕はベルギーにいた。ケルン体育大学の学生として過ごしていた僕は、ドイツで迎える初めての夏休みの期間、ベルギーで仕事をしていた。
僕の役割はサッカー選手の英語通訳。Jリーグからベルギーへ移籍した選手にフル帯同しての通訳・雑用業務だった。その数ヶ月ほど前から選手の関係者と連絡を取りながら、ずっとこの日に向けて準備を続けてきた。ベルギー2部リーグ、開幕戦の日。

2015年4月に「サッカー選手の通訳になる」と覚悟を決め外国語習得とサッカー部での活動に大学4年間の全てを捧げてきた僕にとっては、ひとつ大きな夢が叶った瞬間でもあった。だから関係者との最初の話し合いがあってからは抑えきれない高揚感で胸が溢れていた。もちろん選手移籍の公式発表があるまでは誰にも内密にしていたが、公式リリース以降は家族やお世話になっていた人、親しい友人などに電話をした。嬉しい気持ちを押し殺しながら、落ち着いたトーンで報告の電話をした事を鮮明に覚えている。

7月上旬、僕はケルンから関係者の車でベルギー・ブリュッセル空港へ向かった。その道中、プロサッカーの世界に長く身を置いているその方の助手席に座っていた僕は、たくさんのことを質問した。「これからどう振る舞っていけば良いのか」「どんな心構えでいるべきなのか」「選手との接した方」など、頭に浮かんだ事を聞いて、その答えを頭で飲み込んで、また聞いては飲み込んでの繰り返しだった。ちなみにこの時点では、僕はベルギーで「ドイツ語通訳」として働くという心構えでいた。関係者とは、「ベルギーはドイツ語も通じるからきっと大丈夫。英語もできるでしょ?」という話になっており、僕はドイツ語がメインであるけれど英語も使えるかな、という程度の英語に対しての自信だった。ドイツ版ウィキペディアで「ロケレン」を調べたところ「ロケレンはドイツ語圏です」とはっきり書いてあったので、尚更僕はドイツ語通訳としての心構えで向かった。
ブリュッセル空港でロケレンの会長とベルギーでの代理人と合流し、コーラを飲みながら選手と代理人の到着を待った。そして30~40分ほど待ったのち、成田空港からのANAの飛行機が到着した。到着ロビーには乗客たちが次々にやってくる。そして選手と代理人の姿が見えた。Jリーグの大ファンであった僕からしたら、選手はテレビの中の人である。しかしその瞬間僕は頭を完全に仕事モードに切り替えた。「僕は彼をサポートするためにここに来ている。」
その日ロケレンはフランスの名門モナコとの練習試合が控えていた。僕たちは空港から試合会場へ向かった。車の中は、会長と代理人と選手と僕である。当時森保JAPANにも選出されており移籍市場を賑わせた注目の選手とその移籍を手掛けた代理人、そしてそのチームの会長、そして僕がその会話を通訳する。正直何が起こっているのか状況を全く理解できなかった。ただその時の事は鮮明に覚えている。
モナコとの試合会場は下部リーグのスタジアムを使用したこともありほぼ満席だった。僕たちはVIPルームに通されたり観客席に案内されたりと会場内でもかなり移動したが、ファンたちは僕の隣の選手に釘付けだった。みんな選手の名前を呼び、それに手を振って応える選手。モナコには元スペイン代表のセスク・ファブレガスが所属している。余計に僕がなぜここにいるのかが分からなくなった。試合が終わりVIPルームで待っているとベルギーのテレビ局から取材を頼まれた。僕はメディアの方に「ドイツ語で大丈夫か?」と希望と疑問の念を抱き聞いた。「ドイツ語は聞いて理解できるけど話せないから英語で」と答えが返ってきた。その瞬間、「ベルギーではドイツ語は忘れよう。全て英語で頑張ろう」と一瞬にして決意した事を今でも覚えている。そして初めてのメディア対応。その時の映像が後にベルギーのテレビで放送されたり、ネットで出回っていたのを見た時に「プロチームに来たんだ」とようやく実感が湧いてきた。
試合会場からホテルへ車で向かい、選手と代理人、関係者と僕で夕食をとり、ホテルの部屋のベッドに倒れ込んだ。初日が終わった安堵より「あまりにも精神的負荷がかかりすぎている。無理かもしれない。」と思ったのが正直なところである。

それまでも通訳の経験はあった。ボルシア・ドルトムントの来日イベントや1.FCケルン所属女子選手の取材通訳など。でもチームと選手にフル帯同して、ましてや”自分の得意なドイツ語”ではなく英語での通訳。そのパフォーマンスがチームや選手のキャリアに影響しかねない。
ファンはメディアを通して選手の事を知る。そしてそれが応援につながり、スタジアムの雰囲気やチームの雰囲気を創る。「通訳なんてサブキャラだよ」「別にお前が失敗しても大丈夫だよ」と思う人もいるかもしれない。けど当時22歳の僕からしたら、背負うものがあまりにも大きすぎた。
それでも「大学4年間の全てを捧げて自分が目指してきたところなんだ。やってやる。」と決意を固め深すぎる眠りについた。死んだように眠った。

それから入団会見やファン感謝イベント、スポンサーパーティーなどいくつかのメディア対応をこなしながら僕は通訳としての経験を積み間違いなく自信がついた。もちろん日々の練習やミーティングなどもフルで帯同し、プライベートの部分でも基本的にはずっと付きっきりだった。テレビの中の存在だった選手とも喋ることが多くなり仲を深め、キャリアの事を話したりプライベートについてもお互い話せるような仲に少しずつなっていった。当時僕は22歳、選手は27歳で5歳も年上だった。これが本当に難しかった。僕の方が年上なら、海外経験や語学の面なども踏まえ全て自分がしたいようにサポートする事ができたが、年上だとそうもいかない。さらにプロサッカー選手は思っているよりも繊細な職業なので、気に障る事も許されない。
日本社会特有の上下関係を気にしていたら持たないと思ったので、僕は個人マネージャーのような感覚に近づけるように努めた。
年上だし。サッカー選手だし。通訳と選手の関係性だし。
考えれば考えるだけ余計な邪念は生まれてしまう。だから僕は全てを消した。それが功を奏したのかもしれない。開幕戦というひとつ目の大きな目標に向かって日々2人で頑張った。

そして8月2日。迎えたアウェイでのベーシュコットとの開幕戦。現在は日本代表の鈴木武蔵が所属するベルギー1部のチームだ。
チームのスポーツダイレクターであったトーマスに呼ばれた選手と僕は午前中に市役所へ向かった。トーマスは契約や給料、労働許可や支給される車などのほぼ全ての書類関係の担当者だった。彼からは「今日の午前中までに登録を済ませれば今夜の開幕戦に出場できる」と言われていたので、僕らはその通りに行動した。疑う余地もなかった。そして予定通り登録を済ませ一旦家に戻り、数時間後に集合場所であるホームスタジアムへ向かった。
ロッカールームに着くと感じた事のない重苦しい雰囲気に包まれていた。モチベを上げるための音楽も流れていなければ、談笑もない。一人ひとりと握手し挨拶を交わすのが毎日の決まりだが、それをしてもみんな反応が悪い。プロの開幕戦ってこういうものなのか?って感じた。そして一通り全員と挨拶を交わしたところで選手と僕は監督室へ呼ばれた。
「お前は今日、開幕戦でプレーできない。」開口一番こう言われた。何を言いだすんだと思いながらもゆっくり訳して選手に伝えた。「書類が間に合わなかったみたいだ。本当に申し訳ない気持ちだが、今日は試合に出す事ができない。出しても良いがチームとして制裁を受ける事になる。今の気持ちを教えてくれ。」
「正直何が起こっているのか理解できないし、なんて答えて良いのかも分からない。けど試合に出れないっていうのは事実のようだから、受け止めるしかない。」
そんな監督と選手のやりとりを通訳しながら僕は状況をゆっくり飲み込んでいった。
10分ほど話した後、選手と僕は監督室を後にした。
確かに考えてもみればおかしな話だ。開幕戦のその日に登録をするなんて。仮にそれがOKだとしても、前日までにも多くの時間があった。なぜその時間を使って登録しにいかなかったのか。
その夜の開幕戦。0-1で敗戦した。

トーマスが相手チームに買収されていた説。前会長の陰謀説。様々な憶測が飛び交ったが、結果的に翌日付けでトーマスは解雇された。
本当にショックを受けた。通訳にとってもショックはデカい。あの時監督室で感情的になりそうだった。でも通訳はあくまで通訳。自分を消さなければならない。もし僕が感情的になっていたり、別のニュアンスで訳して伝えると、それが選手への悪影響につながるのは言うまでもない。さらに移籍当初から僕は毎日トーマスと話しチャットや電話をコンスタントにしていた。そんな彼に何の前触れもなく急に裏切られた事。もし僕が労働許可や選手登録に関してもっとトーマスにプッシュしていればこんな事起きなかったんじゃないか。それが通訳としての責任じゃないのか。そんな事も考えたし自分も責めたけど、どうしようもならなかった事であるのは事実。そして誰よりも1番悔しいのは選手本人である。開幕の1ヶ月前に日本のチームを離れ移籍を決断し、言葉の壁がある中でも必死にチームに溶け込んだり自分に磨きをかける努力をしてきた。さらにそれを隣で見てきたからこその僕の悔しさもある。

あの日の監督室での出来事、自分たちが当事者として関わった出来事が翌日には日本でも報道された。友人からLINEをもらったり、ゲキサカやYahooでニュースになっていた。信じられないくらいの責任感とそれに付随したやりがいを感じた瞬間でもあった。


今回僕はこの記事を通して「こういう出来事があったんだ」というのを伝えたいわけではない。あなたの身の回りの当たり前は本当に当たり前ですか?という事である。常識だと思っていることって本当に常識?
日本に住んでいると、全てがオーガナイズされているし基本的には物事はある程度その通りに進む。だから常識を疑うとか、そういう事はなかなか感じにくい。だからこそ考えることにすごく意味があると思う。本当に何でも良い。例えば、なぜここに駅があるのだろう。この駅がなかったらどんな生活になるんだろう。そしてその生活になると他の物事への影響はどうなんだろう。
そう考えることにより、物事の関連性や連続性への発見に繋がる。僕はコロナ禍の4月、一時帰国中に町役場で職員の方に質問した。「なぜ住民登録ってしなきゃいけないんですか?」思わぬ質問に答えられず別の担当者が僕に丁寧に説明してくれた。
こう言うと、「ひねくれたヤツだな。そんな事を考えてもしょうがない。意味がない。」そう思う人もいるかもしれない。けど世の中の事を知らないまま人生を過ごす事の方が僕は意味がないと思う。
ただ、ここで僕の価値観を押し付けることはしたくない。僕は常識を疑い考えることに人生の幸せを感じる。もしそうじゃない方が幸せだと感じるなら、その道を選べば良い。正解なんてないから。強いて言うなら幸せを感じる方が正解だ。
「現代人には考える力と推測する力が著しく足りない」という話は別の記事で書こうと思う。「大人はそういうものだ」「屁理屈言わずにやれ」という社会の風潮が人々をそうさせてしまうのではないだろうか。もしそれが本当に”大人”というなら、僕は大人になんてなりたくない。
幼少期、小中学生の頃に抱いていた「なんで?どうしてこうなるの?」という純粋な気持ちとそれを必死に考えることに僕は人生の価値を置いている。

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