オレとお前とザ・ファースト・スラムダンク

―――いい音のする映画だな、と思った。

 三月のなかば、仲良くしてくださっているフォロワーさんと「えらく評判がいいスラムダンクの映画を見に行こう」という話になり、私はミニシアターの一席でスクリーンを見上げていた。

 「ザ・ファースト・スラムダンク」は、あたたかそうな海辺のバスケットコートで、ボールが跳ねる音から始まる。
 この時点ではなにもわからない。ただ、十代のなかばと思わしき精悍な少年が「怖いか、リョータ」と、慈愛に満ちた声で、小柄な少年に語りかけるシーンを見て「このふたりは兄弟なのだな」ということが察せられた。

「怖いよな。怖くても、心臓バクバクでも、平気なふりをするんだ」

 優しい声だ。ほんとうに、目の前で果敢にボールを追うリョータ少年を深くいつくしみ、また、そんな「ソーちゃん」をひたむきに見上げるリョータ少年と「ソーちゃん」の間に、切っても切れない絆があることを、私はたった数分で強く印象づけられた。

 これは、とても丁寧で誠実な映画だな……と感じたことを覚えている。
 どこの地域の話かも不明だが、ともかく、小柄で生意気そうなリョータ少年と、そんなリョータ少年をあたたかく見守る「ソーちゃん」の関係性が主題におかれた話なのだ、このリョータ少年が成長する物語か?と思ったが、

「ソーちゃんのばか!もう帰ってくんな!」

 リョータ少年の、子どもらしい涙声で放たれた言葉で、そうではないと気がついた。
 水飲み場に置き去られた赤いリストバンド。はからずとも遺品になってしまった「ソーちゃん」の、生きていた証跡。
 それを自分の手首に……バスケットマンとしての生命線である利き腕に嵌めるリョータ少年の「行ってくる」という静かな言葉で、湘北高校の面々が歩き出すオープニングが始まる。


 どうでもいいかもしれないが、私はスラムダンクという作品について、ほとんど何も知らない。
 「諦めたらそこで試合終了ですよ」「なぜオレはあんな無駄な時間を……」という、おふざけのように無断転載されるネットミーム画像を目にしたことがあるだけ、と言えば、スラムダンクという作品を深く愛するファンの方は嫌な顔をするだろうか。

 ただ、そんな私でも、片脚をかばいながら歩く三井寿が過去に味わったであろう苦難と、堂々たる歩みを見せる赤木剛憲のたのもしさと、流川楓の涼しげな容貌と、少し肩をいからせて歩く桜木花道の人柄と―――

 バスケットマンとしては致命的であろう、圧倒的に小柄な宮城リョータの歩みに、目を奪われて夢中になった。

 あとから調べて知ったが、宮城リョータの過去は原作でほとんど(というか、一切?)掘り下げられていないらしい。
 井上雄彦先生と言えば、当代一と名高い天才作家のイメージがある。そんな天才作家が約七年を費やして制作した、というのが前評判の触れ込みだったが、これはすさまじい構成の映画だと思う。

 スラムダンクを見たことがない観客に、冒頭の数分で「これはバスケットボールの映画です」「宮城リョータ少年は、生まれ持ったフィジカルによる壁を越えられません」「宮城リョータと宮城ソータの間には深い絆があり、それは永遠に喪われました」「そうしてその喪失と約束は、いまも宮城リョータ少年の手首に巻き付いています」と説明し、白黒のシンプルなオープニングで、湘北高校の面々がどのような造形をしているかを提示する……。
 そうしてシーンが切り替わると、坊主頭の巨漢たちと湘北高校の面々が激しくボールを奪い合う試合が始まっている。
 これはすごい、と思った。
 ひとつ間違えば、オープニングの数分間で提示される情報のどれかひとつでも面倒がって省略すれば、私のように何も知らない観客は置いてけぼりになってしまう。
 ただ、その時点で、私はこの映画にのめり込んでいた。

 音響の臨場感。コートを動き回る赤と白。ライトに照らされて光る汗。ボールをぶつけられて、鈍い音を立てながらたわむゴールリング。
 事情はわからないし、山王工業との試合が何地区のどの段階かも(神奈川県代表・秋田代表、という説明からして、全国大会なのだろうとは察したが)まったくわからない。

 でも、面白い、と思った。
 おそらく、山王工業との試合が始まる前の数分間で提示された、計算され尽くした情報の出し方が「何もわからない、置いてけぼりだ」ではなく、何も知らない私に「何がどうなってるんだ、早く教えてくれ、続きはどうなるんだ」と思わせたのだろう。

 素人感想だが、映画は「シナリオや監督、役者そのものに意味があるもの」と「劇場で体験することに意味があるもの」に大別できる、というのが最近の流れだと感じている。
 「シナリオや監督、役者そのものに意味があるもの」はいちいち挙げるのもおっくうなぐらい名作の例があるが、「劇場で体験することに意味があるもの」は、数年前に圧倒的な熱狂をもたらした「キンプリ」や「マッドマックス」「プロメア」「バーフバリ」など――映画館の音響で、ときにはサイリウムを振って、まるでアイドルのライブを見に行くように楽しめる映画が有名どころだろう。
 好きなアーティストやアイドルのライブは、家のテレビやパソコン、タブレットで鑑賞するより、現地の良質な音響やステージセットで拝みたいと願う人が多いと感じるが(むろん、大きな音が苦手だったり、持病の関係でそれを避ける方がいらっしゃるのも承知はしているが)この、ザ・ファースト・スラムダンクも、劇場で見た方がいい「体験型」の作品だと思う。

 なにしろ、この作品はバスケットボールのひと試合を追体験するのと同じぐらいにカロリーを消費する。
 跳ねる汗、ときに陰るライト、つまらなさそうに余所見をする子ども。逃げ場のないコートで、そびえたつ王者と相対する宮城リョータの小柄な背中。ときおり鳴るホイッスルと、磨かれたコートを踏むバスケットシューズの音。

 「黒子のバスケ」という作品がもっとも流行していた(そうして、頭のおかしい愉快犯がそれを台無しにした)時にオタク文化へ触れた世代なので、バスケットマンとして、小柄であることはそれなりのハンデになり得ると理解しているつもりだった。
 けれど、宮城リョータの目線で見上げる山王工業の選手らは威圧的に大きく――こんなのにしつこくマークされたら何も出来ないだろ、と、ものすごく理不尽な気分になった。

 原作における主人公は桜木花道だとは承知だが(さすがにそのへんは事前に調べてから鑑賞に臨んだ)この物語は「かつて自分を護ってくれていた兄の姿が、そのまま自分を阻む影に変わってしまった少年の物語」という意味合いを含んでいる。

 越えられない。抜け出せない。
 偉大で優しかった兄、宮城ソータの遺していった陰に、宮城リョータはがんじがらめにされている。

 愛は呪いだ。
 毒と薬のあいだにそれほど差がないのと同じで、愛による呪(のろ)いと呪(まじな)いの間には、ほとんど差異がない。
 かつて自分を導き、護ってくれた兄の愛が、いまは自分を縛り付け、壁の中に押し込める呪い(のろい、まじない、どちらと読んで貰ってもかまわない)に変わるというのは、まだ十代の少年にとって、どれぐらいの質量をもった業になるのだろう?

 さわやかなバスケットマンである三井寿少年が膝を壊してやさぐれる一幕、高校生とは思えない貫禄をした赤木剛憲キャプテンが年相応に苦しむ一幕を挟みながら、宮城リョータの過去と現在は境目なく混じり合って進行していく。

 王者・山王工業で因幡の白ウサギさながらに跳ね回る沢北選手の圧倒的なカリスマ性もさることながら、対戦相手の心をしっかりと折りにくるそのプレイスタイルは「このうえなく最高で、このうえなく最悪」の一言に尽きる。
 だからこそ、原作の主人公である桜木花道の「山王を倒すんだろ」「通過点じゃねーかよ、あいつらなんて」という言葉が二日酔いの朝に飲むシジミ味噌汁ぐらいに染みるのだが……。
 ただ、宮城リョータの目から見れば、桜木花道も〈持っている〉側の人間にカテゴライズされる。
 長身で、手足が長く、ジャンプ力があり、タフな肉体と精神を持っている。
 初心者・経験の短さというハンデはあるだろうが、桜木花道の体格であればほとんどのスポーツで活躍できるはずだ。

 そういったところを丁寧に、丁寧に、原作を読んでいない人間にも、読んでいる人間にも丁寧に提示してからの――――

 「ドリブルこそ、チビの生きる道なんだ」という言葉で、思わず泣いてしまった。

 あの瞬間、宮城リョータが踏み越えたのは、山王工業のブロックというよりも……かつては自分を護り、導き、そのまま物言わぬ障壁に変わった「ソーちゃん」の存在だったのではないかと思う。

 〈いま〉を泥くさく生きる人間が、死者に勝つことはできない。
 死没した父の代わりに宮城家のキャプテンになった宮城ソータのかわりになることは誰にも出来やしない。それは、宮城リョータがいちばんよくわかっている。宮城リョータにはソーちゃんとは違う良さがたくさんある。……そんなことはわかっているだろうが、憧れは、ときに呪い(のろい、あるいは、まじない)となってあの小柄な体躯を縛り付けたことだろう。
 ただ、バスケはひとりでプレイするスポーツではない。
 宮城リョータが繋ぎ、三井寿がスリーポイントを放ち、流川楓がパスを出し(というか、この子はいままでパスを出さずにどうやってスタメンになったのか?)赤木剛憲が豪快なダンクシュートを決め―――

 遠い星まで届きそうなぐらい――高く、高く、高くジャンプした桜木花道がリバウンドを決めて、湘北高校は点差を縮めていく。

 あくまで映画「ザ・ファースト・スラムダンク」は、宮城リョータがメインの作品だ。
 それはわかっているのだが、どうやら原作では主人公のポジションにいるらしい桜木花道が華麗なリバウントを決めたときに、ふと思った。

 あんなに高く跳んだら。
 もしかして、遠い星にいるソーちゃんからでも、あの真っ赤な坊主頭のてっぺんが、ちょっとぐらいは見えていたりするんじゃないだろうか。

 ……正直、書きたいことはまだまだたくさんある。
 仲の悪そうな(でも相性はものすごく良さそうな)桜木花道と流川楓の熱いハイタッチとか、三井寿のどうしようもなくダメなかわいさとか、木暮先輩って婚活でアホほどモテそうだな、とか、ゴリって本当に人間出来ててすげえよな、山王に地下アイドルみたいな語尾の人居るけどあれ何?とか。

 ただ、やっぱりこれは宮城リョータの物語で、「持たざる者」が「持って生まれた者」を越えようとする映画だったと思う。
 宮城ソータは、宮城リョータの繋いだボールが、仲間の手でゴールリングに運ばれるところを、遠い星から見ていただろうか。
 宮城リョータは、自分のことを、許せただろうか。
 私を映画に誘ってくれたフォロワーさんと息を切らせて語り合い、賑やかな夜道を歩きながら、ひたすらそんなことを考えていた。

 ほんとうに良い映画だったと思うし、天才・沢北栄治の人生が、惜敗による挫折の後も続いていくという美しいラストもすごくよかった。

 そうして、何より――

 天才・沢北栄治とアメリカ合衆国のコートで向き合い、真っ正面から不敵に立つ宮城リョータの表情は本当にたまらないものがあった。
 宮城リョータは、宮城ソータのかわりにはなれない。なにしろ、いまを泥くさく生きている人間が、きれいな思い出になってしまった死者に勝つことはできっこない。
 けれど。
 本質的に言えば、宮城リョータは――ドリブルを武器にしてコートを駆ける宮城リョータは。
 偉大な兄であるソーちゃんとはまったく別の戦い方をする生き物であり―――はなっから、ソーちゃんに勝つ必要などなかったのだ。
 ソーちゃんはそれをリョータに伝えられなかったことを、最期の瞬間に悔やんだだろうか? 描写されていない余白に関しては、想像することしか出来ないが……。
 噛んでも噛んでも味がするとは、まさにこのことだ。
 また原作を(超人気作だが、なぜか電子書籍が見当たらない。何かあるのだろうか?)読んで、改めて映画をキメたいものだ。

 何も知らない私にとってのザ・ファースト・スラムダンクは、おおむねそんなところである。

(終)


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