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文学にあらわれた銘仙

服飾研究家の笹岡洋一先生にお会いできたのは、昔の着物や布を研究する者として、大変光栄なことでした。家政学会の民俗服飾分科会の講演にいらしたときは83歳でした。その後二子多摩川のご自宅にお伺いし、コレクションを拝見しました。先生は大正10年のお生まれで、教員としてご勤務のかたわら服飾研究を続けてこられました。
「和服の美しさに関心を持っていた私には銀座・歌舞伎座などの華やかな世界は、今もって思い出となっている。しかし私の話せる親戚の女性は所謂中流で地味なものであった。(中略)ある従妹は大柄の二色の絣銘仙に羽二重の写生風バラの染帯、初夏の空気には錦紗などより爽やかであった。」と「銘仙の周辺」でお書きになっておられます。

家政学会での講演テーマは「銘仙と文学」でした。江戸時代から現代までの資料をもとに銘仙がどのような扱いをされてきたかについてご説明をいただきました。銘仙は守貞縵稿にも記載があるということです。

守貞謾稿 巻18 雑服
めいせん織(蚕より直に絲とならずして、莫綿より繊くいとをひき、よりをかけて、経緯ともこれをゝる。縦横じま、絹糸を多く茶糸じまなり。男女常服にダぐ略服とす。けだし冬服綿いりなり)。

この時代(守貞謾稿は1837年から1867年まで30年かけて執筆されました)の銘仙はすべて縞であったようです。笹岡先生がご紹介された文学の中で、一番印象に残っておりますものは、夏目漱石の「門」です。

有名な作品ですので、読まれた方も多いと思います。この小説に銘仙が出てくるのはご存知でしたか?宗助が隣人の坂井のところに来た行商人から、銘仙を御米(およね)に買う箇所です。

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織屋はしまいに撚糸の紬と、白絽を一匹細君に売りつけた。宗助はこの押しつまった暮に、夏の絽を買う人を見て余裕のあるものはまた格別だと感じた。すると、主人が宗助に向って、
「どうですあなたも、ついでに何か一つ。奥さんの不断着でも」と勧めた。細君もこう云う機会に買って置くと、幾割か値安に買える便宜を説いた。そうして、
「なに、御払はいつでもいいんです」と受合ってくれた。宗助はとうとう御米のために銘仙を一反買う事にした。主人はそれをさんざん値切って三円に負けさした。
(中略)
宅では御米が、宗助に着せる春の羽織をようやく縫い上げて、圧の代りに坐蒲団の下へ入れて、自分でその上へ坐っているところであった。
「あなた今夜敷いて寝て下さい」と云って、御米は宗助を顧た。夫から、坂井へ来ていた甲斐の男の話を聞いた時は、御米もさすがに大きな声を出して笑った。そうして宗助の持って帰った銘仙の縞柄と地合を飽かず眺めては、安い安いと云った。銘仙は全く品の良いものであった。
夏目漱石「門」より

ここに出てくる銘仙も縞柄です。小説は1910年に連載が始まった作品です。守貞謾稿の完成より約40年後、まだ柄物は現れていなかったようでです。引用箇所の前後に、山梨からやってくる行商人の様子が細かに描写されています。「地元では米も取れないので機織りをしているのだ」などと語っています。その服装や言葉にも、作者の観察眼の鋭さが伺えます。

再び笹岡先生のことにお話を戻します。先生のお若い頃は古い布を集めるのに良い時期であったようです。「しばらく京都に滞在した時期があって、東寺などで随分布を集めたものです」と仰いました。今では手に入らないものもあったことでしょう。羨ましい限りです。ご自分で針仕事もされる器用な方で、奥様の作り帯なども制作されていました。帯にする長さのない更紗なども、作り帯にすれば少ない布地でできると教えていただきました。これも懐かしい思い出です。

(一般社団法人昭和きもの愛好会理事 似内恵子)

【画像解説】引用文頭の画像は「縞帳」の一部です。農家や生産者が自分たちの織った布を記録するために、一部を帳面に貼り付けたものです。明治期の銘仙はこうした縞の布に近いものであったと思われます(NPO法人京都古布保存会所蔵)

【参考文献】 
「民俗服飾研究論集第15集」(平成13年) 銘仙の周辺 笹岡 洋一

夏目漱石「門」 青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/785_14971.html

https://showakimono.jimdofree.com/ 昭和きもの愛好会HP
https://www.facebook.com/showakimono/ 昭和きもの愛好会FB

【関連原稿】
姿を変える銘仙-戦前から戦後の歴史
https://note.com/showakimono/n/nd5059cb2723f


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