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姿を変える銘仙-戦前から戦後の歴史

Ⅰ着物の着回しと使い回しの変遷
着物にはその誕生から終末までの歴史があるように思います。
最初はお嬢さんの振袖であった晴れ着が次は妹の十三詣りの着物となり、その次は新しく生まれた子のお宮参り衣装となる。本来使い捨てをしない素材であり、反物を購入する家庭もそれなりに考えているので、昭和50年頃まではこのような使い回しは当然のことでした。
この着回しや使い回しがうまく機能しなくなった原因は、まず

1 着物の知識がある人が減ってきたこと
があります。この着物の知識がある人というのは、呉服屋さんや仕立屋さんではなく、「今まではどうしていたか」「どこをどう直せばいいのか」について知る人です。

2 家族構成が変わってきたこと
今までは同じ世帯ですぐに聞けたことが聞きにくくなっています。

3 「節目に着物を着る」という感覚が薄れてきたこと
節目とは、お宮参りに始まり、七五三、十三詣り、成人式などを指します。レンタルで済ませる、最初から着物を着ない、という選択をする人が多くなってきました。

それまではどうであったかというと、家庭は3世代、場合により4世代の同居で必ずお祖母さんが衣生活を取り仕切っていました。お祖母さんは和裁の知識もあり、着物の縫い直しや袖丈つめなどができました。着回しや使い回しのサイクルを回していたのはお祖母さんです。特に昭和40年以降は、外に出て働く女性の数が増え、家庭での衣類管理はこうした人々の専属の仕事となっていきました。働くことで一日中お姑さんと顔を合わさないのは気楽でよかったのでしょうが、反面家庭内における手仕事や衣類管理の伝達ができなくなっていったようです。

Ⅱ なぜ銘仙なのか

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なぜここで銘仙をテーマに取り上げたかというと、こうした着物の使い回しで、一番よく行われたのが銘仙であったからです。
銘仙はご存知のように普段着の着物です。薄手なので針も通りやすく、少し和裁の知識があれば若い娘さんでも気軽に縫うことができます。聞き取り調査の中でも「自分で嫁入り用の銘仙を何枚か縫って持っていきました」という話が出ていました。これは2000年頃の調査で、当時70歳くらいの方のお話でしたので、1950年頃のことでしょうか。
上の画像も聞き取り調査とともにお譲りいただいた銘仙の着物で、持ち主の女性は「私は母が早くに死にましたので、姉が親代わりで、この銘仙を作ってくれました」と言われました。一枚の着物にも各人の様々な歴史が潜んでいます。
また、晴れ着や礼装の着物と違い、銘仙はその「普段着感」ゆえに、他の家庭に出てゆくことがあまりないようです。いろいろに形を変えてもその家庭にとどまり続けます。擦り切れても長くお仕えするのが銘仙です。

Ⅲ「私の銘仙物語」が語る戦前戦後の歴史

ここである文章を引用させていただこうと思います。私の恩師である村田陽子先生が、日本家政学会服飾分科会の会報「民俗服飾研究論集第15集」(平成13年)に掲載されたものです。学術的なものではなく、個人の体験をもとにして判りやすい内容となっています。ご出生は恐らく昭和2年から4年くらいで、太平洋戦争の最中に学生時代を送られ世代であるようです。
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 「私の銘仙物語」
初めて絹物の袷を旧制女子専門学校の教材として縫うことになったとき、母が用意してくれたのが銘仙であった。黒地に牡丹色の大きなバラの花模様、葉の色はピーコックグリーンである。銘仙は平織で、厚くも薄くもなく、滑らかであるがドレープ性は少ない。
 標付も容易、針もスイスイ通って初心者には最適の布である。昭和初年の生れで小学校から洋服で育ったはしりの世代である私は、浴衣と寝衣裳を除いては、それまで着物らしい着物はあまり持っていなかったので、急に大人になったような晴れがましさを感じたものであった。平和な時代であれば胸高に帯を締め、お茶やお花のお稽古に通うのにふさわしいのが銘仙であった。
 時は昭和19年1月、1年生後期の教材であった。
この当時、生活必需品の全ては国家統制のもとにあり配給制で、衣料品は切符制であった。この教材の銘仙を母がどのようにして入手したのか確かな記憶はない。母亡き今は聞くすべもない。将来に備え以前から買い調えておいてくれたのか、切符で買ったのか、或は入学時に示された実習細目を見て、闇で買ったものかも知れない。
(中略)
 さて戦況は益々苛烈となり、昭和19年12月、学徒動員令が発せられて学業は停止、病弱者を除く全学生かす都宮市中島飛行機製作所(現スバルの前身)に派遣された。私か配属されたのは全属材料研究所兼図書室で、カードの整理や疎開する図書の荷造りなど、切迫した戦争の気配など全く感じられない部署であった。やがて各地にに米機の来襲があり、仙台も宇都宮も焼夷弾の猛攻に曝されることになった。その時、我が3枚の銘仙は他の衣類とともに庭先の防空壕に難を避けていた。 
梅雨の遅い仙台は7月に人ってからよく雨が降る。仙台空襲は7月20日頃であったと記憶しているが、その前後も雨がちではなかったかと思う。幸い動員先の工場、宿舎も、仙台の我が家も無事であった。8月15日、敗戦、もはや空襲もなくなり壕の中の物は全てとり出されたが、衣類は無惨であった。
雨水が人らぬよういろいろ工夫はしたであろうが、全部グチャグチヤに水が浸みていたという。上の模様は下に移り、裏の色は表に染みして、再び手を通せそうには思われなかったとのことであった。敗戦の翌々日帰仙(先生は仙台市在住でした:著者)、この哀れな銘仙類とも再会した。
(中略)
雨水に汚れ、色移りした我が銘仙は黒地のものが何とか着られそうで、解いて洗い、板張してもらった、紅絹の紅色が薄くは残っていたけれど。また動員で中断していたお茶とお花の稽古も再びゆきはじめた、着るものが必要であったが、まだ長袖はためらわれた。街には占領軍がウロウロし物騒であったのがその理由である、そこで黒地の1枚は戦時中に奨励された二部式標準服に縫い直すことにした。仕立ててから一度も身に付けていない長着を上下二つに分けることは悲しく口惜しかったが、せめて袖だけは元禄にし、下衣は襠を残り布からとって余分を縫いこみもんぺとした。

敗戦の翌年、昭和21年8月、スマトラ島て現在インドネシア領)に陸軍司政官として派遣されていた父が帰国。安否が知れす心配し続けていた私達はようやく安堵の胸を撫で下したのも束の間、11月末に急死。もはやお稽古三昧の日は遠くに去り、なんとしても生活の資を得ねばならなくなった。
翌22年、六・三制発足、義務教育となった新制中学校に職を得た。校舎なし、教科書なし、先輩・指導者なしの出発であった。何とか4年間、勤めたところで将来に備え、一たん退機して洋裁学校へ進み2年後に高校に再就職した。折角の二部式標準服とも無縁の生活であった。
 昭和28年頃、幼い姪を一時預かることになり、かの二部式の銘仙は上下が繋ぎ合わされてねんねこになったのである。ガス八の袖口、綿人れで黒の別珍の衿であった。やがて姪も学令となり親元へ帰った。ねんねこは当時大学生たった妹が寒夜勉強するのによく羽機っていたようだった。更に時が過ぎ、私か自分のための家を建てることになった。来客に備え、かのねんねこは丹前に変身した。
(著者注:ガス八とは 東京近郊で生産される経糸に対して緯糸がやや太く、黒色無地の厚手の丈夫な絹布を指します。ガス糸で作った黒八丈からきている名称と思われます。)

Ⅳ 形を変えてゆく着物

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村田先生の銘仙は、長着から二部式へ、その後ねんねこから丹前へと形を変えて持ち主に仕え続けました。よく聞く話とはいえ、こうして正式に記録されたものは意外と少ないので、引用をさせて頂いた次第です。
家政学会の見学で最初にお会いした時、村田先生はまだ仙台市の尚絅(しょうけい)女学院短期大学を退職されて間がない頃でした。引用文にあるように、お父様を早くに亡くされたので、家計を支える為に教員となられ、独身で通されたと聞いています。
この時代を過ごした方は、手放したり、どこかにいってしまったりと多かれ少なかれ着物についての残念な思い出があるようです。特に東京周辺で聞き取り調査をしますと、「空襲」や「疎開」は関西より深刻な問題であったことが伺えます。「着物を調べることは、その時代の女性の歴史を見ること」、調査のたびにそのような実感を持ちます。

【参考文献】村田陽子「民俗服飾研究論集第15集」(平成13年)「私の銘仙物語」
(著者:昭和きもの愛好会理事 似内惠子)

【関連原稿】

銘仙の由来とその流行
https://note.com/showakimono/n/nd9a82a324e7b

文学にあらわれた銘仙
https://note.com/showakimono/n/nc9214754b900/edit

https://showakimono.jimdofree.com/ 昭和きもの愛好会HP
https://www.facebook.com/showakimono/ 昭和きもの愛好会FB

M(1945)

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