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No.001:人生を変えた"天才・たけしの元気が出るテレビ!!"

本noteでの文章は私がディープな昭和-平成時代を連想しながら初めて書いている小説的な連載です。内容は全てフィクションであり、実在の人物や団体・店名などとは関係ありません。

ふと幼少期を振り返る

僕は会社を経営している。
ろくな学歴もない僕が経営する会社で働いてくれる従業員のメンバーには本当に頭が上がらず、自宅に持ち帰った仕事を行う時には働いてくれる従業員のことを思い「もっと従業員が良い人生を送れるように懸命に学んで頑張らねば」と元気をいただくもの。

僕と同世代の従業員とは時折、昭和時代の音楽の話やテレビ番組の話で盛り上がり当時を懐かしむこともあるが、そんな話を楽しみながらふと幼少期から現在に至るまでの人生を振り返ると、僕が従業員を雇用していることを不思議に思うことがある。

元々人と違うことをやりたがる僕が大手企業を退職し、会社を経営するようになったのは不思議なようで、なんとも自分らしいと思うこともあるが、困難に陥った時に「気合いや根性」と考えてしまうのはなんとも昭和生まれだなと感じるものだ。

会社経営をしながら"愛情を大事にしたい"だとか、"従業員のため"だとか、"社会のため"だとか、そんなことを従業員と話すことがあるが、周囲からは「単に自分が楽しければいいだろ」とよく言われることもあった。
しかし、僕はいつからか"愛だとか平和"だとか、"仕事は人のため"だとか、そういう類のことを叩き込まれてきたせいか「自分が楽しければそれで良い」という考えができない不器用な人間だ。

振り返るとそれは、ロクでもない環境の中で僕を可愛がってくれていた周囲の方々の影響であり、貧しい中でロクでもない人生を送っていた僕を育ててくれた親の存在であると思う。
だから僕は"仕事は人のため"だとか"社会のため"だとか、常に頭を抱えて苦労するのだろうとも思う。

人生を変えた1990年代

1980年代、近所の友人と学校を終えては集まっていた小学生時代。

当時なぜか阪神タイガースの帽子がお気に入りだった僕は、いつもタイガースのを帽子を被り、スポーツブランド"PUMA"の偽ブランドだろうと思うが"PUNCH"と書かれたジャージを着て、野球・ファミコン・ミニ四駆・虫捕りやいたずらに明け暮れる日々。

貧しかった僕の家庭では、幼少期は白黒テレビを見ていた記憶があるが、「みんなが持っているから」とテレビゲームを買ってもらったと共にカラーテレビが我が家に設置され、家にいるときはファミコン。出かけている時は野球か昆虫探しばかりで、宿題などをやっていた記憶はほとんどない。

余談だが人気ファミコンソフト"ドラゴンクエストⅢ"の発売日と、ミニ四駆の"エンペラー"というモデルの発売日にはデパートに並ぶ長蛇の列に母親と並んだ記憶があり、貧しいにも関わらず"子供のためには"と面倒な長蛇の列に並んだ母親を思うと、少し心苦しくなるものである。

転校した先で

小学生時代、家庭の事情で転校することになった僕は、不良が多く、決して治安の良いとは言えない学校へ転校することとなった。
小学生の僕にとって治安の悪い学校の中で、どんなグループに属するかというのは死活問題であり、当時は暴力を伴ういじめや喧嘩は日常茶飯事。

簡単に言えば不良グループ・弱いものグループ、そしてどっちつかずの目立たないグループと大きく分けて3つのグループがあったように思うが、小学生ながらにタチの悪い"不良グループ"は、その他グループからテレビゲームのカセットを巻き上げていたり、万引きを強制していたりと、今思い出すととんでもないグループであった。

転校前の小学校では適度な人気グループに属していたという不要なプライドのせいか、子供ながらに"カッコ悪いグループ"には属したくないという気持ちがあったのだろう。
適度に運動神経の良い"不良には属していないが適度な自由がある小規模グループ"のようなものがあり、転校生が多く属していたそのグループに僕は属した。

今思い出せばなんとも子供な話だが、砂場でバク転をしてみたり、なぜか高いところから飛び降りてみたり、高層マンションの廊下の手すりを上を歩いてみたりと「運動神経良くて度胸があって凄い」と言われたがりなグループで、ジャッキーチェンの映画がテレビ放送された翌日には大抵真似事を楽しんでいた。

そんな僕に衝撃を与え、今思えば人生を変えたのは、1990年代に放送された"天才・たけしの元気が出るテレビ!!"という番組のひとつのコーナーであった。

ダンス甲子園

僕が小学生時代を過ごしていた地域では、俗にいう"ヤンキー"という種の不良が多く"ビー・バップ・ハイスクール"の世界から飛び出したような中高生がタバコを吸いながら自転車に乗り、駅前や駄菓子屋の前に溜まっていた。

そんな中で"天才・たけしの元気が出るテレビ!!"のひとつのコーナーであった"ダンス甲子園"は当時の僕に激しすぎる刺激を与え、当時耳にして衝撃を受けたHeavy D & The Boysの"Now That We Found Love"は、今聴いても当時の衝撃を思い出す。

当時からなぜか、Michael JacksonやMC Hammerなどが好きで、どこかBlack Musicに惹かれていたのだが、治安の悪い地域で世間を知らない僕には"日本人とは無縁の世界"だと思っていた。
しかしブラウン管を通して見るダンサーの姿は「日本人でこんなにカッコいい人が居るんだ!」という衝撃、そして今思うと恥ずかしい話だが、不良っぽいカッコ良さに憧れたのだろう。

New Jack Swingで踊るダンサー、耳にしたことのないRap、そしてHip Hopという音楽。もちろん何を言っているかなんて分かるはずもないが、テレビを見て曲名を必死にメモしては中古CDを探した記憶がある。

以来ダンス甲子園が新聞のテレビ欄に載っていると、いつから我が家にあったのか記憶にもないVHSのビデオデッキでテレビ番組を録画し、巻き戻し・再生を繰り返しては見よう見まねでダンスの振り付けを覚える日々が始まった。

Beat Street

見よう見まねのダンスを繰り返し、1人で部屋で汗だくになりながら親を呆れさせていた小学生は、いつしか同じ真似事を趣味とする仲間が増え中学校へ進学した。

僕の通う中学校は時代的背景もあるだろうが、明らかに不良の多い中学校であり入学式では映画"ビー・バップ・ハイスクール"の世界のような上級生が校門に集まっており、あまりの不良の多さに「変に目立ってはダメだ」と見ないように注意していた記憶がある。

複数の小学校が集まって構成されるクラスでは、ヤンキー・パンクロッカーが混在し、ボンタンに短ラン姿の学生も居れば、細い制服を履いたロッカー調な学生もいる。
大抵こうした目立つ格好をしている生徒は長男ではなく、兄がヤンキーであるかバンドマンかのいずれかである。
もちろん"普通"の学生もいる訳だが、僕の目には止まっておらず男女共に不良がとにかく目立つ学校であった。

そんな中で僕らは中学校始まって以来の"ダンスの真似事"をするグループとなる訳で、校区が広がったお陰でレンタルビデオという存在を知ることになった。

そしてダンス甲子園でメモしたCDを探してはカセットテープに録音という繰り返しで、徐々に色々なアーティストを覚えていく訳だが、ふとした時に目に止まったのが"Beat Street"という映画。

"ダンス甲子園"では基本的に高校生が学ラン的な服を着て踊っている訳だが、三本線のジャージを着てディスコでダンスバトルのシーンのある映画を自宅で眺めて「これぞ僕の求めるカッコ良さだ」というような、小学生以来の衝撃を受けるのである。

おそらく当時はADIDAS位は知っていたと思うが、裕福でない僕の家庭では、そんなものを買ってもらえる訳でもなく、なんとなくそれっぽい服を探してはクルクル回るBreakin'というものの練習を見よう見まねで始める日々を中学1年にしてスタート。

どこで覚えたのかは定かでないが、同級生の"ダンス真似事仲間"で、夜になると自宅から段ボールを持ち寄り、公園に段ボールを敷く。
そしてその段ボールの上で、出来もしないBreakin'というものを練習し痣を作る毎日。

もちろんラジカセを持参し、無駄に大きな音量を出してL.L.Cool JやHeavy D & The Boysなどを流しながら、巻き戻し・再生を繰り返して覚えたダンスの振り付けや、痣だらけになりながらのBreakin'もどきなクルクルダンスを踊るのである。

この頃にもなると「あの公園に変なやつらがいる」と近所でも話題になるのだが、当時、地域の公園には各ジャンルごとに溜まり場が決まっており、今振り返るとなんとも面白い。
例えばシンナーを吸ってラリっている学生がいる公園、タバコを吸いながらリーゼントを決めたヤンキーが集まる公園、COBRAなどパンクを流しながら酒を飲む学生のいる公園、そしてその界隈を走り回る暴走族。

僕らが通っていた公園には、Hip Hopをラジカセで流しながら、クルクル回っている子供がいると、当時はなんとも不思議な光景だっただろうが、そんなHip Hopの音楽に、時折暴走族が流す"God Father"のテーマソングが流れていた。

そして公園でクルクル回る僕らは、電車に乗って街の中心部に出れば、僕らの街にも"ダンサー"という者がいるんじゃないかと、それぞれが個別に街へと繰り出すようになるのであった。

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