小説 ムジカ〜不毛な時間③
夜が白々と明け始めた。仕事へ行かなきゃと私は慌てて時計を見た。SUNのスペル、日曜日だった。ホッとしたと同時に一睡もできなかった自分自身に言いようのない憐れみを感じた。もう一度、ベッドに横になって昼過ぎまで寝ようと試みる。しかし、目が冴えて眠れないその間にこれまでの不妊治療の経緯を思い出していた。
職場結婚して三年、当初は二人とも子どもはいつでも構わないとのんびり構えていたが、昨年あたりから、何度セックスしても子どもができないことに対して、美穂子が焦りを見せ始めた。お互いに三〇代に入ったこともあり、だんだんと子どもができにくくなっているのではないかと思い、私と美穂子は産婦人科に通うことにした。一年間タイミング法を試みるということで「妊活」が始まった。その間に夫婦両方の体を検査してもらった。結果、美穂子には異常がなかったが、私の方は精子量が少ないことが明らかになった。とはいえ、平均値より若干少ない程度なので、自然妊娠も可能ですよと言うふうに、産婦人科の医者は話した。しかし、タイミング法を始めてから一年経っても、妊娠することはなかった。この頃になると、美穂子はあからさまな苛立ちを見せ始め、
「赤ちゃんが授からないのはあなたのせいよ。なんとかしてよ」
などと私を面罵するようになった。
「そのうち、授かるから焦るなよ」
と宥める私に向かってさらに、
「呑気なこと言っていられないの。女にはリミットがあるのよ。何も知らないのね。これだから男って・・・」
と泣きながら怒りをぶつけたこともあった。
この頃から仕事上のミスも目立つようになってきた。全ては自らの責任だからと、誰も責めることができなかった。
これまでの経緯を思い返していると、全く眠れなかった。気が付くと、昼過ぎになっていた。昼食は近所の牛丼屋に食べに行くことにした。洗面所へ行くと、鏡の向こうにボサボサ頭で、目の下に隈を作った酷い顔をした私がいた。寝癖を直すと、服を外に出ても恥ずかしくない格好に着替え、財布と携帯を持って外出した。
二日ぶりに外の空気を吸うと、排気ガスまみれではあるが、家の中にいるよりかは、気持ちよく思われた。こんな自分は他人にはどう見られているのだろうか?みすぼらしいように見えているのかもしれない。
幹線道路沿いの牛丼屋に入った。久しぶりに入る店はピークを過ぎていたが、まだまだ客でいっぱいだ。ポツンと空いた席に座り、牛丼と味噌汁のセットを注文した。数分後にセットが到着したが、その間も考えるのは美穂子のこと、会社のこと、そして自分自身のことの三点であった。数分間のことであったが、何時間も経っているかのように思われた。不思議だったのは、牛丼を食べても、味噌汁やお新香を食べても全く味がしないことであった。昨日のラーメンを食べた時から味覚も馬鹿になってしまったのだろうかと、心底自分が惨めになるのを感じた。半分も食べないうちに、勘定を済ませ、逃げるように店の外へ出た。そして、ゴミが散乱した家に戻った。玄関先のポストに新聞がたまっていたが、気にも止めなかった。
家に帰ってから、美穂子に電話してみた。しばらく、プルルと鳴った。電源は切れていないし、圏外にいるわけでもなさそうだ。プルルルルと何度か鳴った後で、
「もしもし」
と、至極面倒臭さそうに電話に出た。
「もしもし、いや、あの、何て言うか」
私も思ってもいない展開にたじろぎ、言葉に詰まってしまった。
「何も用事なかったら、電話切るからね。ハッキリ言ってよ」
「ちょっと待って、とにかく話をしよう。実家の駅前のスタバとかでさ」
私がこう言うと、美穂子は間髪入れず、
「話したいことなんてありません。それにスタバでなんて話したくない。丸聞こえじゃない」
と怒り口調で返し、そのまま電話は切れてしまった。
「終わった」
そう呟くのが精一杯だった。その後のことは覚えていない。いや、覚えているのも煩わしい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?