見出し画像

小説 ムジカ~不毛な時間②

 気が付いたら、昼になっていた。時刻は一二時一五分、空腹で目が覚めた。ようやくソファから起き上がり、昼食に相応しい食べ物を求めて、キッチンを漁り始めた。袋麺が見つかったので、袋を開けて、鍋にミネラルウオーターを入れる。ガスの火で沸騰させて、麺を入れた。放心状態の私でもできる、最低限の家事だ。
 それにしても、美穂子は帰ってこない。しばらく経ったら、帰ってくるだろうと車で三〇分くらいのところにある彼女の実家には連絡していなかった。何よりも、怖くて連絡できないという臆病さが優っていたのだ。もう一度、美穂子の携帯に電話をしてみることにした。
「おかけになった電話は、電波の届かないところにあるか・・・」
と告げたところで、電話を切った。絶望的な気持ちになって、ラーメンの入った鍋にスープの素を入れて食べた。何の味もしない。強いて言うなら、砂の食感がした。

 ラーメンを食べ終えると、今度は妻の実家に電話を入れることにしたのだが、そこに至るまでにはかなりの時間を要した。義父母に何を言われるかという、ある種の恐れが潜んでいたのだ。普段から美穂子の親には頭が上がらない。大企業の会社役員をしている義父やバリバリのキャリアウーマンとして鳴らしていた義母に私はどう思われているのだろうと考えただけでよく吐き気がしたものだ。結局、電話できたのは、一〇分してからであった。
「おかけになった電話は、電波の届かないところにあるか・・・」
デジャビュかと思った。再び電話をかけなければならないことに、多少の徒労感を感じずにはいられなかった。その一方で一度、恐れを乗り越えると電話をかけることは、義母の携帯に電話する時よりも容易に感じられた。今度は実家の固定電話にかけることにした。意外にもすぐに電話に出た。
「はい、花井ですが」
「もしもし、賢治です。お義母さんですか?」
「あら、賢治さん。お義母さんですかじゃないわよ。突然、美穂子が帰ってきたかと思ったら、大泣きして・・・。どうしたのって聞いたら、あなたが左遷されたって言うから、もう大変よ」
義母は不機嫌そうにまくしたてた。
「すみません、ご迷惑をおかけして。それで、美穂子《《さん》》はどこにいるのでしょうか?」
何故か、妻の名前に「さん」と付けた。普段、妻の両親の前では、名前で呼ぶことはないから、違和感を感じずにはいられなかった。
「美穂子は外に出ているわよ。携帯繋がらないの?」
「それが繋がらなくて、困っているんです」
「どこに行ったか分からないけど、帰ってきたら、連絡入れるように言うわ」
「すみません、ありがとうございます」
そう言うと、携帯の向こうにいる義母の声が途絶えた。

 同じことをグルグルと脳の中で捏ねくり回していると、次第に頭痛がしてきた。キッチンへ行き、冷蔵庫から水を取り出す。コップに水を入れて、飲み干す。この一連の作業がとても辛いものに感じられた。頭痛は数日前からの私の悩みの種の一つだったのだが、今日は酷い。頭痛に効く薬を飲もうと、救急箱を探すが、在りかが分からない。そういえば、風邪をひいた時も、風邪薬を出してくれたのは美穂子だった。そんなことを思い出しているうちに、眩暈も催してきた。薬を飲むことを諦め、私はその場にうずくまった。
「しばらく横になっていたら、少しはマシになるかも」
と思い、ソファを目指すが遥か彼方に置かれているように感じ、リビングのカーペットも敷かれていないフローリングに横になった。フローリングの冷たさが私の心とリンクして、とてもではないが、居た堪れない気持ちになった。

 それからどれだけの時間が経ったのだろうか。辺りは闇に包まれていた。真っ暗な太陽のない宇宙のような空間に、携帯の着信音が鳴り響いた。義母からのものであった。
「もしもし、お義母さんですか?美穂子《《さん》》は帰ってきたんですか?」
半狂乱の中、私が言った台詞をかき消すように義母は
「ええ、帰ってきましたよ。でも、会いたくも話したくもないって」
と小声で言った。
「そうですか、でもそんなことは関係ありません。美穂子《《さん》》に会わせてください。お願いします」
 私はなりふり構わず、懇願した。相手の気持ちを慮らずに自分の気持ちを主張するのも珍しかった。しかし、義母の返事は
「今は気が立っているから会うのは止めておいた方がいいわね。また、ほとぼりが冷めたら、こっちから連絡しますから、今日はゆっくりと休んでください」
というつれないものであった。

 私は目の前が何も見えなくなっていた。独りで
「これからどうしよう。美穂子もいないし、会社に行けば左遷の話は広がっているだろうから、どんな目で見られるか……。何より、この家のローンはどうやって払っていこうか?不妊治療はどうなるんだ?その前に美穂子と別れるなんてことになったら……」
と繰り返し呟いていた。まるで経典でも読むかのように厳めしく。

つづく

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?