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小説 ムジカ~合唱④

 新品のCDプレーヤーに、昔取った杵柄のCDを入れる。何しろ長年箱に入れて保管されていた代物だ。音飛びなどしないかが心配だったが、それは杞憂に終わった。
 私はCDプレーヤーが処分されてしまった事実に気付いた瞬間に、家を飛び出していた。近所にある家電量販店に着いたのは、閉店の一〇分前のことだった。閉店準備にかかり始めている店員を強引に呼び寄せ、CDプレーヤーの売場を案内させた。どんなものでもよかった。とにかくCDを聴くことさえできれば、それでいい。
「すみません、これをください」
と言って、購入したものはポータブルのCDプレーヤーだ。
 イヤホンからは懐かしい合唱曲が聴こえた。はるか遠い過去の記憶とつい最近の記憶とを同時に呼び覚ます。


 五月三日、ゴールデンウィークの後半、私は横浜市内のホールにいた。この日は「かながわコーラスフェスティバル」のアンサンブルコンテストが開催されている。

 会場の外では、本番前最後の練習に臨む中高生や中高年の姿があった。私たちもその輪の中にいるのだ。「斎太郎節」を一通り歌って最終調整を行う。周りのが真剣ながらも、お祭りみたいな空気も醸していたので、私たちの直前練習も真剣ながらも楽しくやれている気がする。

 小一時間ほど練習したところで、
「よし、完璧だ」
と武藤が納得したような表情を浮かべて言った。その瞬間、たかひろグリークラブのメンバーは自信で満たされていた。
「よし、たかひろグリークラブ、気合い入れていくぞ」
「おー!」
と円陣が組まれた。

 皆が活気に満ちる中で、私は美穂子のことを考えていた。
「今まで連絡取ってこなかったけど、彼女は何を考えているのだろうか?やはり強引にでも会って話し合うべきか」

 すると突然、後ろから梓が話しかけてきた。
「今、奥さんのこと考えてたでしょ、タナケン。顔に書いてあるよ」
正直驚いた。コンクール直前に申し訳ないと思いながらも、私は素直に
「そうだよ、どうしても思い出してしまうんだ。どうしたらいいんだろう?」
と応じた。
「今はコンテストに集中しな。あとはやるだけだって。運に任せる、これコンテストも奥さんとの仲も一緒だよ」
梓の言葉に、私の心は少し軽くなった。
「ありがとう、肩の力が抜けたよ」
「黒瀬の言ったこと忘れるなよ」
キツいことを言う梓はとても頼もしく感じられた。

 そして本番が近づいた。舞台袖に集まる「たかグリ」メンバー。舞台上では高校生がアカペラでポップスの曲を披露している。私たちは声を潜め、
「『たかグリ』ファイトー」
「ファイトー」
と上に高く人差し指を持っていった。

 前の順番の高校生たちが演奏を終えたようで、拍手が聞こえる。進行係の方から進んでくださいと合図され、舞台に立つ。
「さあ、続いては一六番、『たかひろグリークラブ』の皆さんです。どうぞ」
と司会者から紹介された。皆、楽譜を持たずに歌う。私は恥ずかしかったが、一人楽譜をもって歌うことになった。
「エンヤァー、エェ、エェエンヤァー」
「斎太郎節」が高らかに歌われる。舞台に乗っているうちは時間があっという間に過ぎていく。歌っている間、私は歌にすべての集中を持っていくことができた。

 全力で歌いきった。皆、ヘトヘトになっていた。私はより一層ぐったりしてしまい、終わってからフラフラになった。演奏後、出迎えに来た梓たちは
「上手かったよ、なかなかやるじゃん」
と一人一人を激励した。私にも
「よく頑張ったね。コンディションの悪い中」
と労いの言葉をかけてくれた。
「美穂子と別居し、鬱と診断された中、よく頑張った」
と自分を褒めたい気分だった。

 全ての演奏が終わると、いよいよ表彰式だ。ホールに多くの聴衆がいる。勿論、たかひろグリークラブも全員、ホールの座席に着席している。合唱協会の会長が空気を読まず、長々と講評を述べた為、ダラダラした空気が流れる中、司会者の
「では、お待たせしました。結果発表をしていきたいと思います」
という一言で、場が一気に緊張感に包まれた。
「それでは、第三位の発表です」
長い間を置いて、
「夢が丘高校合唱部Aチーム」
と発表があった。色めき立つ高校生たち。その横で優勝を信じる「たかグリ」メンバー。

「次は第二位の発表です。第二位は…」
再び長い間があった。
「女声コーラスはな」
ステージの近くに陣取った妙齢の女性たちが「キャー」と歓声を上げる。
皆が優勝を願わずにはいられなかった。私も空気に飲み込まれるように祈っていた。
「では、お待たせしました。いよいよ第一位の発表です」
もう運に任せるしかない。

「第一位は…」
「絶対うちだ」
ヒソヒソと「たかグリ」メンバーが話す。
「た」
この頭一文字が発表された瞬間、立ち上がりそうになった。
「たなかこうじと仲間たち」
ガッカリとする「たかグリ」メンバー。前の方で「たなか何とか」のメンバーと思しき、おじさんたちが喜びを爆発させている。

ホールから出た「たかグリ」メンバーは外で円形になって集まった。
「悔しいなあ」
「何で俺らが一位じゃないんだ。あんなに練習したのに」
などとメンバーは口々にこぼしていた。武藤は
「確かに一位は逃したけど、何かを掴んだような気がしないか?順位には反映されないものを」
と話した。そうすると、メンバーは愚痴を言うのを止めた。
「そうだね、確かに一体感は物凄くあったような気がします」
と黒瀬が言うと、
「そうだよ、仲間意識とか一体感っていうのが大事なんだ。これは金を積んでも買える代物じゃないからな。俺は一生大事にしていきたい」
そう武藤が付け加えた。すると、メンバーは元の賑やかさを取り戻し、まるで水を得た魚のように生き生きとした顔を見せた。

私はというと、その輪から少し離れて、電話をある人物にかけていた。美穂子だ。
「もしもし、俺だ。今度会って話し合ってみないか?お互いのこと全部」
私も「たかグリ」と出会って、何かのきっかけを掴んだような気がした。

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