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ひとりごと 死についての権利と義務

以前、古市憲寿氏の小説「平成くん、さようなら」を読んだことがある。

安楽死が認められた架空の日本の設定で、平成から令和へと元号が変わることを背景に、死を願望する時代の寵児を異性の友人の視点から描いた作品だ。

やたらと商品名や人物の実名が登場したのが印象的だった。


そこはさておいて、やはり安楽死というところに、違和感を覚えてしまった。


手元に本が残っていないので、うろ覚えでしかないのだが、作中では粛々と葬儀が行われ(もちろん、聞いてないぞと言って揉めるシーンも存在する)、議論は尽くされたという風でもあった。


翻って、現実はどうだろうか。安楽死についての議論がされつくしたとはとても言えない状況が広がっている。

それに皆、権利ばかりを主張する傾向にあるのだが、「死」というのは誰しも平等に訪れる義務であるという大前提を忘れてはいないだろうか。

だから、「死ぬ権利」という言葉が流布してしまうのではないか。

養老孟司さんは「誰しもがいつかは死ぬんだから、慌てるな」というようなことを著書の中でおっしゃっていた(たぶん、死の壁だったと記憶している)。


そのせいか、安楽死とか、「死ぬ権利」などの言葉には、人間の驕りのようなものを感じて仕方がない。

以前も、noteに書いたが、人間が死ぬときはその周りに何かしらの喪失を生むことになる。


それ故にむしろ、安楽死の議論をタブー視してほしくない。

皆が死ぬときについて考えることで、「死ぬ権利」という言葉が持つ人間のエゴイズムについて見つめてほしいと思う。

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