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上の画像は、東京都台東区入谷の「法昌寺」にあるお地蔵さんです。先日、7月24日が命日の、とある人物を悼み、この人物の師匠であるコメディアンの由利徹、親交のあった漫画家・赤塚不二夫、映画監督・山本晋也が発起人となって、亡くなった昭和60年に建立されたものです。

このお地蔵さんに刻まれている、彼の座右の銘は「めいわくかけてありがとう」。
彼の死後、後年、赤塚不二夫は週刊プレイボーイ誌のインタビューで「現代の妖精だったね。たこは」と語りました。
その彼の名は「たこ八郎」と言います。

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もともとはプロボクター。左目が見えない状態で、プロテストに合格。

本名・斎藤清作、1962年には、第13代日本フライ級チャンピオンにまで上り詰めたプロボクサーでした。髪型を河童のように刈り込んだことから、当時「河童の清作」の愛称で親しまれ、人気のあるプロボクサーのひとりでした。

少年時代に友達とどろんこの投げ合い遊びをしていて、泥が左眼に当たったことが原因で左眼の視力をほとんど失いました。
すぐに病院に行き治療をすれば失明はしなかったそうですが、裕福な家庭ではなかったため、病院に行けば親に迷惑がかかると思い黙っていたと後に語っています。
左眼の視力を失っても、ボクサーとなることを諦められなかった彼は、そのままプロテストを受けるという無茶な行動に出ます。
プロテストでは、当然、視力検査がありますので、普通なら不合格です。そこで彼は、視力表をすべて暗記して答えるという一計を案じ、難なくプロテストをクリアしてしまいました。

「あしたのジョー」の主人公・矢吹丈のモデルのひとりと言われています。

左眼を失明していますから、自分から見て左側から飛んでくるパンチはほとんどが見えません。そこで彼が考えた戦法はこうでした。

「ノーガードで、パンチは全部受けてしまおう!」

こうして、彼はほとんどの試合で、前半は相手にいいように打たせ、相手が打ち疲れた後半、一気に攻勢に出てKO勝ちをするというパターンで戦い続け、その後も勝ち続けました。

この戦い方は「あしたのジョー」の主人公・矢吹丈のボクシングスタイルを構成するモデルのひとつになったとも言われています。

同郷のコメディアン・由利徹に弟子入りし、お笑いタレントの道へ…。

現役時代からお笑いに興味があった彼は、同じ宮城県出身のコメディアン・由利徹に弟子入りを志願します。
由利は、「チャンピオンになったら弟子にしてやる」と言って、彼の弟子入りを断っていたのですが、引退後に「元日本フライ級チャンピオン」の肩書を引っさげて再び目の前に現れたため、やむなく弟子入りを認めることとなりました。

コメディアンとなった彼は、現役時代に受けまくった無数のパンチの影響で、すっかりパンチドランカーになっており、夜尿症などの症状に苦しみます。
芸も、パンチドランカーそのままの愚か者の役を演じるスタイルでした。
夜尿症を気にして師匠宅を出て、友人宅を泊まり歩きますが、その常人離れした精神力で夜尿症などの症状を人知れず克服。高倉健主演の映画「幸福の黄色いハンカチ」に出演するまでになりました。

パンチドランカーの症状を克服した彼でしたが、無類の酒好きは治りません。
結局この酒が彼の命を奪う大きな原因となりました。

海水浴場で飲酒後に海水浴をし、心臓麻痺で亡くなりました。

人気絶頂期の1985年7月24日午前10時20分頃、神奈川県足柄下郡真鶴町の海水浴場で、酒を飲んで酔った状態で海水浴をし、心臓麻痺でこの世を去りました。享年44歳。早すぎる死でした。

この訃報は、当時レギュラー出演していた「笑っていいとも!」の放送中、タモリによって全国に伝えられました。
葬儀・告別式の葬儀委員長は、中部日本放送制作の中京ローカルのトーク番組で共演した際に、「もし、俺が死んだら葬儀委員長をやってほしい」と冗談交じり頼まれた漫画家の赤塚不二夫がつとめました。
新聞には「たこ、海で溺死」の見出しが踊り、弔問に訪れたタモリは「たこが海で死んだ。何にも悲しいことはない」と、タモリならではの言い回しで彼の死を悼みました。
葬儀終了後は、師匠・由利の先導「たこヤロウが好きだった三本締めを…」で参列者による三本締めの後、彼の棺を乗せた霊柩車は式場を後にしました。

彼を知る人物は、赤塚不二夫のように、誰しもが「妖精のような人だった」と振り返ります。
あき竹城は、夜な夜な居酒屋で酔いつぶれるのを繰り返す彼の身を案じて、よく面倒をみていたそうですが、彼女にたこ八郎の話を振ってはいけないと言われています。なぜなら、いまだに番組の本番中であろうと泣き崩れてしまうからなのだそうです。

本当に、いろいろな人たちに深く愛され、記憶に留められている人物でした。


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