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先日はお嬢さんのほうの話を書きました。

今日はお父さんのほうを書いてみます。内容はお嬢さんのほうとはだいぶ違いますが…(笑)。

44歳で大蔵大臣に就任した際の挨拶(というか演説)

田中角栄は、総理大臣になる前には大蔵大臣に就いていた時期があります。史上最年少の44歳での大蔵大臣就任でした。
大蔵省の官僚たちは、国を背負って立つ超高学歴のエリート集団。9割が東大出身者と言われ、日ごと徹夜で仕事を続けるような面々が揃っていました。

そこに出てきたのが、田中角栄というまだ若い政治家でした。霞が関の頂点とも言える大蔵省の大臣になるには「まだ早い」とか「蔵相の器ではない」とか「軽量級」とか、いろいろと揶揄されてはいました。

田中角栄44歳が就任した際の挨拶(というか演説)がこれです。

私が田中角栄だ。小学校高等科卒業である! 諸君は日本中の秀才代表であり、財政金融の専門家ぞろいだ!
私は素人だが、トゲの多い門松をたくさんくぐってきて、いささか仕事のコツを知っている。一緒に仕事をするには互いによく知り合うことが大切だ。
我と思わん者は誰でも遠慮なく大臣室に来てほしい! 何でも言ってくれ! 上司の許可を得る必要はない! できることはやる! できないことはやらない! しかし、すべての責任はこの田中角栄が背負う。以上!

日本屈指の秀才たちを前に「高等小学校卒」と丸裸になり、後は「思い切りやってくれ、全責任は取る」。大蔵省の講堂に集まった官僚たちからはどよめきが起こったそうです。
これまで懐疑的で「なぜこんな若いのが…」と思っていた大蔵官僚たちも、この演説で心を開いていったそうです。

1972年、国交正常化のための中国訪問で…

1972年、田中角栄が総理大臣に就任した直後、国交正常化のために中国を訪問した際のことです。

日中国交正常化に向けた交渉は、大平正芳外務大臣と周恩来首相がほとんど進めていました。しかし、交渉は、ほどなく暗礁に乗り上げます。
落ち込んだ面々が控室に戻った時、迎えた田中角栄と大平正芳の会話は、こんな感じだったそうです。

田中角栄「こういう場面になると、大学出のインテリは全然ダメだなぁ」
大平正芳「じゃあ、いったいどうすればいいんだ? 奴らは手強いぞ。一筋縄ではいかない」
田中角栄「それを考えるのが大学出の諸君じゃないかぁ~」
(一同、爆笑)
田中角栄「なぁに、ここまで来たら譲歩する必要はない。とことんやって駄目なら観光旅行に来たと思えばいい。俺が全責任を持つ!」

その後の田中首相と周恩来首相との会談。周恩来首相は「日本軍国主義者の中国侵略によって、中日両国人民がひどい災難を被った」に続いて、○○市では○百人の中国人が殺された、□□市では□千人の中国人住民が酷い目に遭った・・・など、具体的な都市名と数字を挙げて、どれだけ日本から酷い目に遭わされたか、苦情を並べ立てて責めてきたそうです。

黙って聞いていた日本側の外交団の面々は、中国側から次から次へと出てくる恨み辛みにウンザリしてきます。
そんなとき、田中角栄は、キレ気味に一気に大声でこう捲くし立てたそうです。

田中角栄「いい加減にしてもらえませんかなぁ! 我々は貴国と仲良くなろうとして、こうしてはるばるやって来ておる! それをあんなことされた、こんなことされた、などと文句ばかり言われちゃ交渉は進まないじゃないですか!!! 私は21歳の時に、騎兵部隊の二等兵として満州に赴任してた。その時、日本軍の大砲や、私たちの鉄砲の先はどっちを向いてたかわかりますかな?!」
周恩来「えっ?・・・・・・」

田中角栄の勢いと凄みに、その場はシーンと静まりかえったそうです。
少し間をおいて、ドスのきいた声でゆっくりと、こう続けたそうです。

田中角栄「・・・ソ連のほうを向いておったんですよ!!」
中国首脳たち「!!!・・・・・・。どぅわぁ〜っはっはっは〜〜!!!」

その意味「中国をソ連の侵略から守るために俺は満州にいたんだぜ」を理解した中国側首脳たちは、一同大爆笑だったそうです。

当時、中国とソ連は同じ共産主義国家でありながら、両国関係はあまりうまくいってはいませんでした。
その事情を知っていた田中角栄は、中国側の、ある意味「痛いところを突く」ひと言で、押され気味の日本の立場を一気に優位に立たせたのだそうです。

翌日、国家主席の毛沢東が出てきました。
毛沢東「周恩来同志とのケンカは済みましたか? ケンカをしないとダメです。ケンカをしてこそ初めて仲良くなれるんです」
紆余曲折はあったものの、両国の粘り強い交渉によって、中国との国交正常化は成立しました。

エピソードの宝庫みたいな人

ソ連訪問の際、前もって秘書官から「盗聴されるから気をつけてください」と忠告を受けていました。しかし、田中角栄はこの盗聴を逆手にとって、ホテルでわざと大声で「石鹸が悪い」「トイレットペーパーが悪い」と怒鳴ってたそうです。すると、翌日には上等のものに変わってたそうで、帰国後、忠告をくれた秘書官へ「盗聴されるのもいいもんだな(笑)」と語ってたと言います。

決断が非常に早く、陳情等は1件約3分でテキパキとこなしてたそうです。できることはできると断言する、で、その案件は100パーセント実行する、できないことはできないとはっきり言い、「善処する」といった「蛇の生殺しのような、曖昧な言い方」を嫌ったとのこと。口癖は「結論を先に言え。理由を三つに限定しろ。それで説明できないことはない」だったそうです。

いいこともわるいこともして、毀誉褒貶、清濁いろいろあった人でしたが、まぁとにかくいろんなエピソードを持ってる人でもありました。詳しくはこちら(↓)をどうぞ。



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