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風呂場にて

 知らない女性に声をかけられた。
 三十七年間の人生を振り返ると、一通りの経験はしてきた。十七で初めて女の子と唇を合わせ、二十ニの時、汗だくになりながら真夏のクーラーの壊れた六畳一間のアパートで肌と肌を重ね合わせ、二十七で結婚、男の子が産まれて三十ニで愛想をつかされて離婚した。そう、一通りのことは経験した。しかし、女性から声をかけられたのは初めてだった。若者がにぎわう原宿の竹下通りでもなければ、成金の集まる六本木のお洒落なバーでもない、行きつけの銭湯の休憩室、百円で瓶の珈琲牛乳を買って、あまり座り心地ちがよいとはいえないくたびれたソファに腰かけた時だった。
 彼女は僕に訊ねた。色白で目鼻立ちの整った女性で、彼女もまた風呂から上がった直後なのだろう、ドライヤーで乾かした髪はまだ毛先に多少の水分を含んで、大切な人にしか見せることのないあらわな姿のように、石鹸の香りが彼女を数倍魅力的に感じさせた。
 女性とは不思議な生き物だ。化粧をして着飾り原型をとどめないほど姿を変えようと、風呂上がりの透きとおる肌と濡れた髪は、どんな化粧にも勝る化け方をする。ただ彼女は元がよいということもあるが、それをふまえてもなんとも美しいことにはかわりない。
 僕は彼女の問いに答えた。すると彼女は産まれたばかりの子鹿が初めて立ち上がり、元気に駆け回るような笑顔をみせ、また僕に訊ねた。
 僕は考えた。こんなきれいな女性と一夜をともにすることができるかもしれない、しかし、土曜日の銭湯、大勢の人が憩いの場を求め過ごしている。休憩室には小さな子供連れの家族に、若いカップルは自販機の前で何を買うか迷っている。もう決まっているくせに。独り身の男性は壁にかかったテレビを見上げながらビールを片手に持って、彼女を待っているのか、それともただ時間をつぶしているのか、従業員はゴミ箱の袋を替え、カウンターでは仕事帰りのサラリーマンが四百三十円の入浴料を払っている。僕は目の前の女性の問いに答える。
「じゃあ、こうしましょう」僕は提案する。
「僕はここに定期的に通ってます。一ヶ月の半分以上来ることもあるし、一ヶ月に一回だけの時だってある。明日来るかもしれないし、今月はもう来ないかもしれない。それまでに君は最高の小説を書き上げる。次に会った時、ぼくは君の書いた小説を読む。いいかい? 大事なのはそれまでにってことさ」
 僕は精一杯の強がりをした。
 彼女は頷いた。僕のような落ちぶれた作家のファンなんて僕の方が驚きだ。ただ売れるにせよ、売れないにせよ、読んでくれる読者がいることは心から感謝しなければならない。そうは思っても、僕はこの女性を性の対象をみていることに、もう何年も行為を行ってない事実に辿りついてしまう。
 そう、もう何年もだ。
 妻は売れなくなった僕に一言だけ、「あなたにはついていけないわ」と離婚届を読み終わった週刊誌を渡すようにガラステーブルの上に置いた。妻は名前を書いた。躊躇することなく、不安にみちた表情でもなく、希望に満ちあふれるように力強くだ。それから五年の時間が流れた。五年というのはあっという間だった。
 ただ五年という時間は僕を大人にした時間でもある。

 彼女は満足そうに帰って行った。たぶん次に会う時のために最高の小説を書いてくるだろう。僕は何をすればいい、彼女の小説を読んで何を感じどんなアドバイスをする。いや、彼女の小説の方が僕が書いたものよりずっといいことだってあるんだ。それは若さという才能であり、女性という感性の賜物でもある。さてどうするか、そんな時はいつも僕は風呂に入る。汗を流して全身の毛穴から老廃物を出す。毛細血管の先の先までA型の血液は循環して、僕は液体になり小さな風呂場を漂う。
 もう一度脱衣所に向かい先ほど使ったロッカーを目指した。ロッカーはもうどこかの誰かが使っていて、仕方なく空いているロッカーを探した。十畳ほどの脱衣所には中央に無垢材のベンチがあり、ところどころ黒く変色して、それが味といえばアンティーク店ならわからなくもない、大小合わせたロッカーはL字に二十設置されて、僕はドアから一番遠いロッカーに洋服を脱ぎ百円を入れ鍵を回す。古びた鍵はたまに抜けない。五年、十年、たぶんそれ以上昔からその場所にあるロッカーは、十七で初めて唇を合わせた時にはまだ錆ひとつない美しい姿をしていたに違いない。二十ニの時、ロッカーはどんな姿をしていたのだろう。たくさんの男を経験し、これからの人生について考えていたのかもしれない。二十七の時、これから一生をかけて守るものができたのかもしれない。三十ニ、錆びれた。鍵は僕にガタガタといってその手を離してくれない。ようやく何度かして抜けると、この先あと何度こんな生活を続けなければならないのかと、問いかけるように泣いたような気がした。

 風呂に入る、四十度に調整された少しだけ肌に熱い湯を肩まで浸かると、彼女のことを思い浮かべた。彼女はいくつだろう、初めて男性と唇を合わせた日、初めて肌と肌を重ね合わせた日、白い太ももに細い腕、どんな声をだして、どんな表情をみせるのか、温かい、僕は液体になる。彼女の中だ。毛細血管の先の先まで僕は流れる。精神的統合への欲求、それは感性であり、肉体的統合なくしてはありえはしない。人は腹が減ればスパゲティーを茹でて食べるし、勝手にセックスもするし、勝手に死んでいく。僕には勝手にセックスをするが欠落している。死ぬはまあ、いつかくることだし今はまだわからない。作家として錆び始めたのは妻とセックスをしなくなってからだ。性を書けない作家は錆びる。彼女はどんな性を表現してくれるだろう。僕は彼女との行為を想像しながら、さらに湯へととけ込む。ああ、温かい。
 明日もまた来よう。
 まだ僕は頑張れる気がする。
 もちろん、セックスできればの話しだが。


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