あらかじめ決められた恋人たちへ『7"』
第3章「別れ・再生・目覚めの日とシリアルストリーム」
「この家に地下室があるなんて知らなかったよ。何故今までボクに隠してたんだい?」
「隠していたわけじゃないわ。あなたが聞かなかっただけよ」
「聞かなかっただけか——。でも普通に考えてこんな木製の古びた家に地下室があるなんて考えもしないだろ?」
「あなたにとっての普通は、この世界では適用しないのよ。何が普通で、何が普通でないかなんて、時代によって変化するものだし、特にこの世界は全てが普通ではないことは、あなた自身が十分理解しているはずよ」
「確かに」とボクは納得した。
地下室は寒かった。
当たり前といえば当たり前のことだ。
換気する窓もなく、薄暗く密閉された空間は、この真上に本当にあの木製の古びた家が立っているのか、と思うほど無機質で、死体安置所のように冷たく、漂う青白い煙が渦を巻く様子がはっきりと見えるくらい線香独特の匂いが強烈に漂っていた。
「こんな部屋があったなんて……」
ボクは強烈な線香の匂いを尻尾の先で鼻を覆いながら言った。
「あなたを連れて行きたい場所はここじゃないわ。ここは線の途中にある点に過ぎないの」
「ようはチェックポイントってことだ」
「単純に考えればね。あのドアの先に——」
そう言って彼女は左手の人差し指を鉄のドアに向けた。それは早くこの場所から抜け出したいと感じるくらい、ピンっと真っ直ぐにその場所を指した。
「——あなたを連れて行きたい場所があるの」
「進もうか——」
ボクは一歩一歩部屋を観察するように進みドアに手をかけた。
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ドアがゆっくりと開くとバスタオルを巻いた『穴貸し』は照れながら微笑んでいた。
彼女のシャンプーの香りがする。
『穴貸し』の身体中には痣があった。
それはもちろん衣服で隠れたところにあって、彼女はそれを隠すことなくさらけ出して、僕の性器を赤ん坊の肌を摩るように優しく触れた。
彼女の痣は痛々しく黒く変色して、それはまるで二つの生命が共存するかのように彼女の身体に寄生していているみたいだった。僕の視線に気付いた彼女は、今にも僕が何か言いたそうな顔を見抜いたのか、そのまま僕の口を塞いだ。これほどまでに痛々しい痣を見てしまったにも関わらず、僕の性器は成長を続け固く勃起している。
最低だ——。と僕は心の中で呟いた。
彼女の抱えた暗闇を払拭することはできないにしても、今このタイミングで身体中の痣のことを聞くことはできる。それなのに、僕は自分の欲望を彼女にぶちまけようとしている。
何が君が悲しそうだったからだ——。
何が世界のどこかだ——。
もともと僕はそんなタイプでもないにも関わらずどうしてこんな風になった。
僕はただ、一匹のオスの動物として、悲しそうな彼女につけより生殖本能が思うがままに行動していたに過ぎなかった。その分、彼女の『客』よりもタチが悪い。三十分二万五千円、くらいの過ちの方が彼女は幸せを掴むことができるのではないか?
そんなことを考えても僕は腰を上手に振って射精を繰り返す猿でしかなかった。
結局僕は痣について『穴貸し』に訊ねることができなかった。
こうして彼女と出逢った一日目は終わった。
20
二日目、僕らはセックスをした。
理性は欲求を支配できないと気付いた。
『穴貸し』は美味しそうにプリンを食べていた。
三日目、僕らはセックスをした。
彼女の痣は当たり前にその場所にあるもののように感じた。
『穴貸し』はan・anを読んでいた。
四日目、僕らはセックスをした。
それはもう当たり前のことだった。
『穴貸し』は僕にリヴィングストンの言葉を教えてくれた。
五日目、僕らはセックスをした。
何度も何度も抱き合った。
『穴貸し』は陽気に鼻歌を唄っていた。
六日目、僕らはセックスをした。
もはや理性なんてものは無かった。
『穴貸し』は月が見たいと公園のベンチで眺めた。
七日目、『穴貸し』はいなかった。
僕は初めて自分の犯した過ちを理解した。
渡した合鍵を持ったまま、彼女はいなくなった。
部屋を荒らした形跡もなく、自分の荷物だけを持っていなくなった。
ドン・キホーテで買った下着もスエットも、縞模様のワンピースも、デニムのショートパンツも、キティーちゃんがドグロになったTシャツも、黒のコンバースのハイカットにベージュのグラディエーターサンダルも、化粧品も、生理用品も置いて行った。
ただ一つ、黒い傘だけ玄関にあった。
たぶんこれに深い意味なんてない。純粋に忘れたのだと思う。
なんたって天気予報では、この先一週間、雨予報の「あ」の字もなかったからだ。
こんな風にして『穴貸し』との関係は、目の前を閃光のように飛ぶ飛行機雲みたいに、長い過ちの意識をなびかせて去って行った。
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「長い道だ——もうどのくらいボクら歩いたんだろうね?」
「まだまだよ。目的地まではとても長い道のりよ」
ドアを開けた先には空に浮かぶ細い一本の道が続いていた。地下に来たにも関わらず上空には無数の星が輝いていて、一メートル幅ほどの道の端は厚い雲に覆われて、その先がどうなっているかなんて全く検討もつかなかった。
「私のあとを必ずついてくるのよ、いい?」
「分かったよ」
「何があっても見失わないで」
「もちろん」ボクは返事をした。
僕は先ほどの部屋の中を思い返しながらヒカリの後ろを歩いた。
この世界にはない綺麗に精製された石の壁、本棚には見たこともない本がずらりとならんでいた。
それは誰かが使っていた部屋みたいだった。
でも誰が? そんなことを考えていると、いつからそこにいたのか雲の上で見知らぬ誰かが話しをしていた。
「ねえ、いつも何を読んでるの?」
「この本のこと? これは僕の宝物なんだ」
「本が宝物なんて変わってるわ」
「じゃあ、君の宝物はなんなの?」
「このロケットペンダントよ」
「ロケットペンダントが宝物なんて変わってるや」
「この考え方をどうしてみんな理解できないの? それは素晴らしいことよ」
「僕もそう思うけど、誰もが聖人君子にはなれやしない。それが人間ってもんだろ? 今はまだ民主主義に変わる答えは出てないだけで、理想は君の言ってることなのかもしれないね」
「まじかよ! お前!」
「やったの! どうだった? やっぱりおっぱいって柔らかいのか?」
「いいなー。俺も早く童貞捨てたいわー」
ボクらナキヤミは人間の言葉を理解出来ないはずなのに、ボクにははっきりと彼らが話している言葉が理解できた。そしてその言葉を聞く度に、ボクは何故だか彼らの会話がとても懐かしく感じて、足を止めては彼らの元まで駆け寄ってその会話をもっと聞きたいと思った。「ヒカリ! ちょっと止まってくれないか!」と何度も話しかけたが、彼女は聞こえない振りをしているのか、本当に聞こえてないのか、止まることなく歩き続けていた。ボクは諦めて前を歩くヒカリの背中を見失わないようについて行った。
「私を感じることができた?」
「もちろんだよ。温かくて柔らかくてとても幸せだ」
「なら彼女を感じることだってできるはずよ。だって私たちは同じ『彼女』なんだから」
「娘がこんなことになって本当に君には申し訳けない」
「——いえ」
「現実に自由なんて存在しないのよ。だから私はどこか誰も知らない夢の世界で暮らしたいの。そこには本当の自由があって、きっと理想の恋人が私を待ってくれてるはずだから——」
「そんな夢みたいな場所があったらいいんだけどね」
「きっとあるわよ! 夢を見ればいいだけなのよ」
『君もこっちにきて僕たちの話しに加わるといいよ』
『そうだよ』
『おいでよ』
彼らがいる場所はボクにとって、とても都合の良い安らぎを感じることのできる場所のように映っていた。
『そう、こっちだよ』
ヒカリも——ヒカリも一緒に、と彼女の背中を見た。
彼女は振り返ること無く、灰色の尻尾をぶらぶらと垂らしながら前だけを目指し前進を続けている。
『彼女は放っておこう』
『それよりも君がこっちにくればいいんだよ』
ボクは少しの間、ヒカリの小さな背中と彼らを見比べていた。
この世界で初めて出会ったヒカリとなんだか懐かしい気がする彼ら、『ほら、ほら』と彼らは繰り返し、ヒカリは無言で進んでいく。
ボクは目を瞑って大きなため息をついて彼らに向けて尻尾を一度だけ右向きに振った。
尻尾を降ると彼らは残念そうに『そうかい』と言った。
ボクは「また今度」と口を作った。
『この先に進むことが、君にとって幸せなこととは限らないかもしれないけど、本当にいいのかい?』
『真実とは——現実とは実に残酷なもんだよ。それでもいいのかい?』
僕は尻尾を左向きに一回転させた。
その通りかもしれない、でもボクらナキヤミは真実を、命の名前を思い出すためにこの世界に産まれ落ちた。ボクはヒカリについて行くと決めた。
『わかったよ。もう止めはしない。行ってくるといい』
ボクは彼らに一礼して遠く小さくなったヒカリの背中を足早に追った。
『行ってしまったね』
『僕はね——自分自身を守りたかったんだ』
「待ってよ! そんなに急がなくたって——」
気付けばボクは走って彼女を追いかけていた。
それほどまで彼女は遠く先を歩いていて、もしかするとこのまま追いつけないのかもしれない、とさえ思った。
「待ってよ! ヒカリ!」
ボクはありったけの声を張り上げると、ヒカリは歩みを止めた。ボクは内心ほっとして駆け寄ると、今まで遠く離れていた彼女の背中を思ったより早く捕まえることができた。
息を切らしながら近付くと、「着いたわよ」とヒカリは小さな虫の鳴くような声で呟いた。それを聞き取れたのは偶然だった。言葉は緩やかな小さな波に運ばれてボクの耳に微かに聞き取れるほど削られながら届いた。その小さな言葉には、ボクをここまで連れてきたくなかった、と変換できそうな気さえした。
風が強く吹いた。彼女の匂いがする。
甘い、煙草の匂い。風が強く吹いた。
ボクは顔を伏せて一瞬目を瞑る。
目を開けると厚い底知れぬ雲が晴れ渡っていた。
足下には星々は輝いて、歩んできた長い一本道は、踏み外せばどこまでも続く宇宙へ落ちてしまいそうな、危険な一本道だとこのとき初めて気が付いた。
ヒカリは身体半分だけボクの方に向けると今度は右の一差し指で目の前の扉を指した。
「着いたわよ」
今度ははっきりと聞こえた。
「あの先が、あなたに見せたい場所よ」
ボクは扉の前まで歩みより、力一杯その扉を押し開けた。
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