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映画『教誨師』感想とネタバレと考察

映画『教誨師』は、大杉漣さんの最後の主演映画で、唯一のプロデュース作品です。

舞台は全編通して、ほぼ教誨室のみ。
他の舞台も少しだけありますが、本当に必要最低限という感じです。

メインの舞台になっている教誨室も、ただの三角形の角部屋に机と椅子があるだけで、映画のセットらしい物は何もありません。

そこで、プロテスタントの牧師である主人公の佐伯が死刑囚たちとひたすら会話をしていく、という映画。これが全てです。

極めてシンプルな画面なので、ついつい会話や表情に引き込まれます。凄く実験的で面白い映画でした。

さて、以下はネタバレと考察です

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個人的に感じたのは、
この映画のテーマは教誨師としての宗教者の生き様とか、死刑制度への反対とか賛成とか、そういうものではない、ということです。

主人公は死刑囚たちに対して、自分が犯した罪を見つめて悔い改めなさいとは言いますし、明らかに不公平な裁判によって死刑囚になってしまった人には、裁判をやり直した方が良いですよと言って再審請求をすすめたりはしますが、死刑制度自体について言及したり、加害者に過度に同情したりはしません。

主人公は、死刑囚と人間的に深く付き合って結びついていくというよりも、彼らの話す世間話や嘘話、ときに荒唐無稽とさえ思える話をただただ聞いて受け流しながら、合間合間にキリスト教の教えを説いていくステレオタイプな伝道者という描かれ方をしています。
人間としての主人公というよりは、牧師としての仮面を被った状態でスタートします。

それをひっくり返すキーマンが、
身勝手な理屈で大量殺人を犯した高宮と、
元ホームレスで極度のお人好しの進藤です。

高宮は、ああ言えばこう言うタイプで、佐伯が何を言ってもそれを逆手に取り、自分を正当化します。自分がしたことこそみんなの為になることであって、間違ってるのは社会の方だという理屈を自分の中で完成させているのです。
キリスト教にも興味は示さず、はねつけます。

対して、進藤は文字の読み書きが出来ず、佐伯に字をならいながら、洗礼を受けたいとまで言うようになります。
そもそも、進藤は死刑になるような罪を犯したのでしょうか? 刑罰のことなど何もわからないまま、裁判を進められて、あるいは誰かを庇って死刑囚になってしまったのかも知れません。

実際に、進藤は知人に騙されて連帯保証人になって借金を抱えたのに、相手の嘘を信じて心配するような、異常なまでにお人好しの人物として描かれています。

この両者は全く正反対のキャラクターです。


高宮は、牧師としての佐伯を揺さぶり、対話の中でその表面的な人格を剥ぎ取っていきます。
その過程で、佐伯は自分自身の奥底にあった「少年時代に感じた後悔と罪の意識」に向き合うことになります。

そして、高宮との対話によって佐伯は牧師としての仮面を脱ぎ捨て、キリスト教の言葉を間に挟んで高宮と接することを諦めます。
聖書を閉じ、人間佐伯として高宮に対峙することにします。

声を荒げ、教誨師という宗教者としてではなく、一人の人間として高宮のそばに居続けることを宣言するのです。
高宮は佐伯の姿勢に微笑みます。

しかし、ほどなくして高宮への刑が執行されます。

死を目前にし、恐怖におののく高宮はガクガクと震えています。

佐伯は沈痛な面持ちで高宮に最後の教誨として、聖書の言葉を読み上げようとしますが、高宮は震える手でそれを拒否します。

そして、高宮は佐伯に抱きつき、何かを佐伯に耳打ちします。

劇中では無音で、観客に想像させるようになっていますが、それに対しての佐伯の言葉は、自分も高宮に出会えて感謝しているという言葉でしたので、高宮の言葉の内容は自ずから知れます。


以下は私が勝手に高宮の心情を想像したものですが、

誰もが綺麗事ばかり並べて、剥き出しの人間として接し会おうとすることを拒んでいる世の中で、高宮は綺麗事を全て剥ぎ取って剥き出しの人間になってしまったゆえに、あまりにも大きな罪を犯してしまいました。

劇中でも触れられてますが、高宮は自分の行動は正義であり、その行動によって世の中は目を覚まして良くなると信じていましたが、それもまた彼の身勝手な理屈であり、大量殺人を社会が許すわけがありません。
勿論、社会は何も変わらず、ただ空回りした高宮は死刑囚として社会から抹殺される。

そこに教誨師として、キリスト教を間に挟んで自分と対峙しようとする佐伯が現れます。

高宮は今まで通り、相手の仮面を否定し、綺麗事を論破していきます。
教誨師としての佐伯は、高宮にとっては倫理道徳を信じて自分を非難してきたような、その他大勢と同じでした。

しかし、佐伯は高宮との対話を諦めず、ついには教誨師としての自分のアイデンティティを脱ぎ捨て、聖書すら閉じて、剥き出しの人間として高宮と接触しようとします。

そして、その接触は、拒絶ではなく、
「ただ1人の人間としてあなたのそばに居続ける」
という宣言でした。

高宮は、この時はじめて綺麗事の抜きの剥き出しの人間として、本気で自分と向き合い、寄り添おうとする人間に出会ったのです。

だからこそ、最後の瞬間、佐伯が聖書を読み上げようとした時、高宮は必死でそれを拒否したのです。
何故、一度は閉じたそれを開こうとするのか、
俺とお前の間に、今更そんなものを挟むのはやめてくれ、ということでしょう。

そして、高宮は佐伯に抱きつき、佐伯と出会えたことに感謝します。佐伯もその感謝に応えます。

佐伯自身もその感謝の言葉は上っ面ではなかったでしょう。高宮との対話を通して、自分自身の罪と、自分の罪を被って死んだ兄と出会っていたからです。


ここで描こうとされたのは、本当に宗教に出会った人とはどのような人なのか、という問いかけなのではないかと思います。
言い方を変えるならば、イエスキリストが佐伯の立場ならどうしただろうか?ということです。


イエスキリストはユダヤ教徒でしたから、イエスにとっての聖書は旧約聖書です。イエスは、聖書を閉じて人々に接した人でした。

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 イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。すると、片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。
(マタイによる福音書 一二章九―一四節)

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神と本当につながり、神からの人への愛を知ったイエスキリストにとって、型通りに聖書に従うことで目の前の苦しむ人を見過ごすことこそが神に背く行為だったのではないでしょうか。

宗教が定めた戒律にはなんらかの合理的根拠があるのでしょうが、ただそれに従って本当に大切なものを見過ごすことが、本当に聖典を読んでいることになるのでしょうか??

もし、イエスキリストが高宮と接したなら、彼は聖書を開いたか??
いや、おそらく開かないのではないか??
本当に神と出会った人は、ただ神と出会った人として行動するだけで、相手を教育することや型通りの言葉を押し付けることからは離れているのではないか。ただ、神に愛された人が、神が愛している人にとるべき行動をとるのではないか。

私は、高宮こそが佐伯を本当に神に出あわせたのではないか、もしくは、神に出会っても聖書を手放せなかった佐伯を、本当の宗教者にしたのではないか、と思っています。

佐伯と抱き合い感謝を口にした高宮は、そのまま処刑台に消えていきます。


一方で、進藤はただただ無垢な姿を佐伯に見せながら、ついには洗礼を受けたいと佐伯に頼み込み、それを許され佐伯に心から感謝します。

しかし、進藤はその場で倒れてしまいます。おそらくの脳の血管系の急性疾患でしょう。

その後、後遺症により意識朦朧としている進藤に、佐伯は約束通り洗礼の儀式を施します。

その時、進藤は神の子となり、罪を許され、しかも病気によって今後の悪の可能性からすら離れた無垢な存在となりました。

その、進藤から佐伯は大切にしていたグラビアの切れ端を受け取ります。

そのグラビアの裏には、文字の読めなかった進藤が佐伯に教えてもらった文字で書いた聖書の言葉が記されていました。

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「あなたがたのうち だれが わたしを つみにとえる というのか」

元は

あなたがたのうち、だれがわたしに罪があると責めうるのか。(ヨハネの福音書8章)

です。

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佐伯はこの時には既に、高宮によって心の奥底にいる、罪を犯したときの自分に出会い、仮面を剥ぎ取られていました。
そして、無垢な神の子となった進藤から、この言葉を与えられたのです。

進藤は洗礼と病によって神聖な存在となっていますから、佐伯にとってこの言葉は神から直接に下された言葉として受け止められました。

教誨師として死刑囚を救おうと思っていた心の奥底には、自分を棚上げにして、自分と彼らを分別して、彼らを可哀想な悪人と定め、自分をその悪人を救いへ導く善人だと思い込んだ自惚れが横たわっていた。

佐伯自身は彼らに石を投げなくても、社会が彼らに石を投げることは当然のことで、彼らは石を投げられるべきものだと見ていたのではないか? 教誨師としての私はどこに立っているのか? 私ははたして彼らに「つみにとえる」ような資格あるものなのか?

そして、それに気づいた佐伯は映画を見ている観客と目を完全に合わせます。

ただ佐伯と観客が目を合わせる長い時間。

このシーンで、聖書の「あながた」の「がた」は、佐伯とともにこの言葉を読んだ人、つまり、この映画を見ている観客のこと、すなわちスクリーンの前に居る私のことになるのです。

ここで、この

「あなたがたのうち だれが わたしを つみにとえる というのか」

「私ははたして彼らに石を投げる資格のあるものなのか?」

という私自身への問いの言葉に変換されます。

ということで、この映画のテーマは死刑制度や教誨師の生き様ではなく、私自身の中にある「他罰的な本性」なのではないだろうか、と思ったのでした。

以上は、あくまでも私の個人的な感想です。

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私自身が僧侶として最近よく思うことがあります。

聖典を学び、言葉を沢山知ったからといって、それを相手と自分の間に挟んでいくならば、ただただ人との距離が大きくなっていくだけではないのか?
学ぶことは僧侶の義務であり、大切なことだけれど、それだけでいいのか?
ということです。

何が正解なのか?
というよりも、
本当にコレが私の成りたかった僧侶のすがたか?
という感じに近い問いです。

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もう一つ、お坊さん的に一応言っておきたいことがあります。

主人公が死刑囚に稼ぎについて聞かれた時、
「牧師にはアルバイトしながら生活してる人もいる」
というような事を言うと、その死刑囚が、
「坊さんは金持ちばかりなのに」
というようなことを言っていました。
残念ながらそんなことはありません。

今は坊さんも僧侶としてのお手当だけでは生活が出来ず、兼業している方がほとんどです。
私も兼業です。

たしかに一部にはめちゃくちゃ金持ちで、しかもお金の使い方の悪い僧侶はいますが、そういう僧侶は少数です。

20年後には寺社の3割がなくなるとも言われています。

お坊さんも充分に貧乏です。

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自分自身の問いもあって、個人的には大変面白く、また実際に考え方に影響を受けた作品だと思います。

また観ます。


おあずかりさせていただきましたご懇志は、必ず仏法相続のために使わせていただきます。合掌