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國松企画「驟雨とヂアロオグ・プランタニエ2本立て」を見て

國松企画「驟雨とヂアロオグ・プランタニエ2本立て」を早稲田のイズモギャラリーに見に行った。よく、芝居の世界では「小屋」というけれど、本当に役者の手にかかっては、スペースがあれば劇場になるのだ。今回はギャラリー。

ここ2-3日、机にかじりついて、いろんな頼まれた仕事をしていて、息もつけず、ゴミ出しをした30mが最大の運動量という状態だった。私って何かするとなると何でこうなるんだろうか?そう思いつつも、仕方がない。やっと、小休止をとって、見に行くことが出来た。ファン&友人の岬万泰さんの出演作品なのだ。

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今回の岸田国士の脚本の作品は、まるで小津安二郎の映画のような日本語で、山の手言葉というのだろうか、今の日本語は随分荒れてしまったなあと思いつつ、最初は美しい言葉のリズムを楽しんでいた。

しかし、「ヂアロオグ・プランタニエ」が進むにつれ、おやっと思う。美しい言葉だから、美しい感情を表しているとは限らない。人間はなんでこんなことを人に言ったり、やっかんだこんな感情をぶつけたりするのだろう。今も昔も変わらない。

そのやるせない気持ちが上がってきたときに、次の「驟雨」が始まる。特に奇をてらうという感じはなく、淡々と始まるのだが、だんだんと違和感が起こってくる。ある程度、その時代背景でお決まりの情景が描かれているのだが、何かがおかしいのだ。いや、本来も少し事件があって、違和感があるお話なのだが、そこにじわじわと強烈な違和感が起こるような、脚色・演出がなされている。

強烈な、従来の保守的なステレオタイプや常識がいかにロジカルに考えればおかしいかを感じさせるような仕掛けになっている。上質な演技でリアルに感じられるからこそ、強烈な違和感が起こってくる。これは、なかなかの衝撃のようで、帰り道でも、見た人が「あれはこうだからこうだったんだね」と理解を確かめ合う姿が見られた。内容が頭に入っていても、その情景を受け入れるのに時間がかかるのだと思う。

逆の立場なら、当たり前で、言いくるめられてしまうことが、ひっくり返してみると、いかに不条理か、感じられるのだ。私はこの設定が好きだ。また、熱い演技とクールな演技の対比がいいと思う。ネタバレになるとこれから見る人に残念なので、深くは書けないが、原作の時代の男女の論理の矛盾は直接的に、全く無視されていたかもしれないLGBTについても間接的に語られているようで興味深い。

わずか、1時間の公演だが、テレビドラマを見たりするのとは、全く密度が異なる、濃密な体験だった。そうそう、コロナ前はこういう体験が気軽に出来る日常を贅沢だなと思って楽しんでいた。今はより贅沢になってしまった。もし、この原稿を11月8日の午前に見て、午後早稲田に行ける人はあと一公演残ってますよ。おすすめします。

それにしても、興味が湧いて、原作の脚本も見たんだけれど、旧仮名遣いって、なんと読みにくいのだろうか。これを読んだのでは、全くと言っていいほど感情移入できない。しかし、話してみると、随分身近になる。不思議だ。

チケットはこちらよ。(私は関係者じゃないんですが…)


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