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櫻井義秀先生と語る「日本仏教の「よき祖先」」

今年も、札幌で櫻井義秀先生(北海道大学教授、ご専門は宗教社会学)と対談する機会をいただいた。北海道内の寺院関係者が集う研修会。前回に続き、アレンジをしてくれた玉置真依さんに感謝です。

櫻井先生は最近、日蓮宗で得度されたそうだ。学者から宗教者になられた背景には、自ら実践者となるほかなかった日本仏教への思いがあったのだろう。お忙しいなか、さっそく『グッド・アンセスター』をお読み下さったそうで、今回は「日本仏教の「よき祖先」」をめぐる対談となった。


櫻井先生:
今年、還暦を迎えました。社会的にいう勤め人というのは、60歳を迎えれば最前線から退きます。同世代の友人たちからは、「これまでの40年間を一生懸命やってきた。けれども、いったい何を残せたんだろうか」と、そんな言葉が出てきます。40年前に受け継いだものを、当時より悪くしてしまったんじゃないかという意識がどこかにある。会社を縮小したり、雇用を切ったり、一生懸命やったけれども、結果の出なかった経験もした。今、社会の問題を解決しないままに、ツケを残して次の世代にバトンタッチしているんじゃないかと。そんな、モヤモヤとした気持ちがあります。私たち世代の多くの人が、そんな風に考えておられるのではないかと思います。

私たちがやってきたことは、思考が短期的でした。その場その場で問題の解決を試みてきた。一生懸命それを積み上げてはきたけれども、中長期的な視点が足りなかったと思います。当たり前のはずの中長期的な思考を、当たり前にやれていなかった。これまでの社会や組織、産業のあり方について、そして私たち自身の行動を見直して、考えを整理したいです。そういった意味で、私は『グッド・アンセスター』に非常によい機会をいただきました。

櫻井先生だけではない。私自身を含めて、本当に多くの人が今、身をもって短期思考の限界を感じている。短期思考に設計された社会に共振するように、自らも同じ思考で世界を捉え、自分自身を煽ってきた。それに応える日常はいつも一生懸命であったし、得られた成果や達成感に、満足を感じる瞬間も確かにあった。けれど、立ち止まって違う視点から見てみれば、「果たしてなんだったか」とこれまでの自分や世界を見直す人は多い。短期思考の「マシュマロ脳」は、瞬間的な満足に依存的だ。意思があってもなかなか抜けられない。それゆえ、暮らしそのものを創り直そうと、アラームとアテンションに追われる生活から降りる人々が増えている。

「かつての日本は長期思考だったはず」とその辺の座布団をひっくり返してみても、「ああ、これこれ、ここにあった。」と取り出せるものではない。もちろん、長い視点で人生を送られている方々もいる。けれど、多くにおいては家中をひっくり返したところで、かつてあった「ハズ」は見つからない。そんな僕らにとって、それはもう「ない」も同然なんだろう。掘り出そうとするよりも、「失われたもの」として新たに創り、構築していくところからやっていくしかないんじゃないか。


日本仏教の扱う先祖と「グッド・アンセスター」の示す祖先


櫻井先生:
日本の仏教が十八番としてしてきた先祖崇拝的な要素は、あくまでもイエや、長く続く由緒ある家系をベースとしたものです。個で生きる人々を対象にした連綿と続くものではありません。イエから解き放って「世代」という単位で先祖を考えるとき、日本仏教は果たして、これまで通りの先祖祭祀でいいのかという課題があります。

先生は、かつて先祖崇拝の研究もされていたそうだが、世界の先祖崇拝を比較すると「アンセスターウォーシップ(祖先崇拝)」が見られる地域はアフリカと東アジアに限られるという。共通するのは「家父長制家族」で、中国であれば数千人単位の族群であるし、日本であれば氏族や家制度がこれにあたる。これらを存続させるために、宗教的な祭祀として儀礼化したり教義にする必要があったというわけだ。こうした背景があっての先祖崇拝であって、ここにある先祖と、柳田國男の語る「田園風景の中にある」先祖とは意味合いが異なると先生は指摘する。


櫻井先生:
柳田の語る「人が死ぬと、弔いによって霊は浄化され、山に帰ってまた子孫を身守る」という、田園的風景の中にある循環構造を意図した「先祖崇拝」は、家族や家に連綿と続く先祖崇拝とは違ったものがあります。「グッド・アンセスター」が示すのは、故郷や地域を見守り残していくことを通して未来の責任をもつということでしょう。ですから、「グッド・アンセスター」の祖先崇拝と、仏教寺院の担ってきた先祖祭祀と、民衆のあいだで習俗として継がれてきた慣行とは、合致している部分もあり、ずれている部分もあるんです。

先生がおっしゃるのは、「グッド・アンセスター」の、自ら祖先になっていくという視点で捉える「祖先」は、日本仏教がこれまで行ってきた「氏」的な先祖崇拝とは異なる部分があって、安易に実践の主体として結びつけるわけにはいかないということだ。これまでの先祖崇拝とは異なる「よき祖先になる」ことを、お寺や仏教が吟味する必要性を提示してくださった。

櫻井先生:
人間をどのように理解するかといったとき、インド的な人間観では、カルマ、つまり「個」をもって展開します。これに対して、東アジアの人間観は「個」ではない。関係性に在るわけですから、同列ないしは前後の世代との関係の中に人間を意識します。「人間とは何か」という問いに対して仏教が示してきた、人間存在の理解の一つが、インドにおける涅槃(カルマから抜け出ていっさいの煩悩がなくなった状態になる)であり、東アジアにおける祖先崇拝であったということです。類型論的には、そのように捉えられます。

ライフスタイルが変わり、イエや会社との関わりも相対化されるようになり、一人の人が様々な分人(顔)をもつようになった。しかし、相変わらずお葬式の担い手は遺族であり家族である。コロナの後押しもあって、昨今の弔いの場は、遺族以外の分人はアクセスすることすら難しくなっている。誰もが弔いの担い手になり得る機会を、お寺自らつくっていくということ。それは、血縁に閉じない祖先との繋がりを提示していくことであり、社会的にも意義がある。同時に、間口を解放していくことは、お寺にとっても必要なことだろう。

櫻井先生:
現代は、自分の死後について、託せる人がいない方も多くおられます。これに応えるように、最近では、生前に諸々の委任契約を弁護士や社労士の方と結ぶように、死後の「祀り」と併せてお寺に依頼できる仕組みづくりもされている。しかし、その実態についてよく知られていないのが現状でしょう。遺産、つまり、自分では使い切ることのできないものを、未来世代や様々な社会事業に「遺贈」する形もあります。町の「こども食堂」のように、血縁に限らない繋がりの意識が広がると、社会はあらゆる側面で変わってきます。犯罪を犯した人に対して、個人やその親を責めるのではなく、そこに至った環境や背景といった、広い視野での関心と責任が必要だろうと思います。人と人とがどんな風に繋がっているのか、それを確認する場として葬儀や法要の場が機能するといいと思いますね。


短期思考社会を日本仏教から解いていきたい


櫻井先生:
私の職場の話をすると、文部科学省の方針で、大学は6年間の中期計画の策定が必要で、4年目と6年目に目標到達具合を「量的に」示すことになっています。そして次の6年間の目標は、前のそれを上回ってなければいけません。長く続く教育をめぐる営みから、こうしたやり方が「うまくいく」方法として落ち着いてしまっている。際限のない仕組みです。これは、短期の業績を追求し、PDCAサイクルを回す企業の経営方針と同じです。社会のあらゆる領域に、こうした短期思考の仕組みが浸透しているわけです。「何が」「誰が」と個別に追及するというより、社会全体として、余裕をもって変わっていきたいと思いますね。変化をするにも、管理と画一化のやり方には限界がある。多種多様に育つ裾野から、ブレイクスルーが生まれてくると思います。

既存のフレームの中で捉えられる数字を、いかに大きくするかに留まっていては、改善はあってもイノベーションは起きてこない。みんな結局、疲弊していく。そのことに企業も気がつき始めているが故に、産業僧のような、これまでとは違ったものを求め始めている。企業でも宗教法人でも、拡大傾向にあったかつての成功パターンを捨てられないジレンマの中で苦しんでいる。永続的な発展の呪縛に陥らず、型を守りながらもブレイクスルーを創ってきたのが、いわゆる「老舗」かもしれない。

櫻井先生:
平均年齢にしても社会人口にしても、現状の数値によって、向かう将来像は変わります。選択肢の中には<縮小>があるにも拘らず、心情的に、<縮小>を選択することは「負け犬」でもあるかのように思われている。質的に高めながら遺していく「よい縮め方」の工夫の仕方を探りたい。政治はそこの判断がつかずに、AIを含む「発展」が全てを解決してくれるというような、短絡的な思考に流れています。重要なものを、次世代に遺す。その整理が必要です。「何を如何に遺すか」を考えることは、単なる保守に収まらない、発展的な発想に繋がると思います。

櫻井先生は、未来にツケを残すことなく受け継ぎたいと、繰り返した。それは、食物の育つ大地を、収穫のできる漁場を、つまりは生命の豊かな地球を遺すことでもある。国債を一体どれだけ国民が背負い得るのか分からないが、未来の食糧を刈り取るように地球を消費するわけにはいかない。人の身体は自然そのもの。自然への振る舞いは、そっくりそのまま人類への振る舞いに等しい。

オードリーは、「Life is Good」で自らの人生を十分に生きよう、未来世代を信じて、彼らに選択肢を残そうと言っている。僕ら東アジア文化圏に生きる者たちは、神の審判を恐れて規律で正していく手法より、山川草木に入り込んでいる神々との関わりを大切にして、豊かに生きることが向いていそうだ。そして、選択肢を残していくにあたっても、安易に審判を下さない社会でありたい。失敗を許される環境にあってはじめて、自由な選択が可能になるのだから。

仏教文化は、死者を背後に、死者と共にメッセージを発することのできる貴重な土壌だ。社会変革の力になり得る。日本の近代化は、主体性を失ったサービス享受型、消費者型の個人化であったと櫻井先生は仰っていた。過去と未来、そして今を生きる個人を繋ぐコモンズのベースキャンプとして、日本仏教のお寺が機能していくことを、社会は求めているだろう。


櫻井義秀 profile
1961(昭和36)年山形県生まれ。北海道大学大学院文学研究科博士課程中退。文学博士。北海道大学大学院文学研究科教授。専攻は宗教社会学、タイ地域研究。著書に『「カルト」を問い直す』『カルトとスピリチュアリティ』『東北タイの開発僧』『よくわかる宗教社会学』(編著)など。

*「未来を語る寺院仏教へ」
https://www.chugainippoh.co.jp/article/ron-kikou/ron/20200101-002.html

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このnoteマガジンは、僧侶 松本紹圭が開くお寺のような場所。私たちはいかにしてよりよき祖先になれるか。ここ方丈庵をベースキャンプに、ひじ…

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