音で届ける仏教
お寺のオンライン化を考える
先日、未来の住職塾の主催で「お寺のオンライン化」というテーマのオンライン勉強会が開かれた。発表したのは、日蓮宗妙法寺(神奈川県)の久住謙昭さんと、浄土真宗本願寺派信行寺(福岡県)の神崎修生さん。
久住さんは、コロナ禍でいち早く機材を取り揃えて朝勤や法事のオンライン動画配信を始めた。コロナを理由に法事がキャンセルとなってしまう前に「オンラインでもできますよ」という選択肢を用意しておくという行動力が素晴らしい。
また、以前からずば抜けたリーダーシップでオンライン化に積極的な神崎さんは、これまでもお坊さんのzoom勉強会”b-learning”を主催しており、今度は「自坊のオンライン化」に取り組むという。信行寺のホームページはもちろんすでに存在しているけれど、それとは別に、インターネット上にお寺(の機能)を出現させることを目指すというのが面白い。
自分が「お寺のオンライン化」をするならどうだろうかと、ちょっと考えてみた。
もともと、noteで「方丈庵」を始めようと思ったのも、自分のお寺を持たない僕が、インターネット上に自分のお寺のような場があったらいいな、という思いからだった。といっても、もともとあまりお寺の伽藍などに執着はないし、身軽さが信条の「ひじり系僧侶」にとって、そのような場はできるだけニュートラルで記号的なものであって欲しいと思い、意味性の少ない「方丈」という言葉で、単なるスクエアの箱を表現した。
足し算よりも、引き算で
これまでの僧侶経験、未来の住職塾の塾長経験から、僕なりにたどり着いた「お寺」の定義は、「良き習慣の道場」であり「生きる意味を問い、生きているという経験を取り戻す舞台環境」だ。
オンラインであれオフラインであれ、目的が達せられるのであれば、方法はなんだっていい。すでに自分のお寺がある人は、「うちのお寺は、その目的に適っているか」と発想するかもしれないけれど、お寺のない僕の場合は「その目的は、お寺以外で実現できないか」となる。
目的のためなら手段は問わない、とまでは言わないけれど、最新のデジタルテクノロジーであれ、枯れた技術であれ、使える手は使えばいいと思う。
ただ、人間本来の内にある仏性が自然と開花するのが仏教らしいと思うから、なるべくシンプルな手段で目的が実現できるに越したことはない。
今ある物理的なお寺の形を基準にして、その要素をいかにこのオンライン上に移植・再現できるか、こんなこともできるんじゃないか、あんなものも盛り込めるんじゃないか、もっとこんな機能を加えてはどうか、というような足し算の発想からは離れたいと、個人的には思った。
できるだけ必要最小限の要素で、引き算がいい。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚を刺激で埋め尽くすのではなく、五感を解放したい。特に、今のように在宅のテレワークで身体を動かさずに動画ばかり見て視覚が疲れているところへ、さらに刺激的な動画を持ってくるようなことは避けたい。
先週、Temple Morning Radioに登場した禅僧の星覚が言っていたことを思い出す。
彼が開発に携わったスマホ用の坐禅アプリ「雲堂」は、今でもiPhoneやアンドロイドのスマホで使われている、坐禅の時間を計るためのタイマーアプリだ。星覚は「このアプリを使う人がいなくなることが理想なんです」とよく言う。あらゆるツールは自転車の補助輪のようなもので、自分で乗りこなせるようになれば必要ないと考えているからだ。
そういえば、他でもない釈迦牟尼ブッダが「私の教えは人が川を渡る際の筏に過ぎないから、用が済んだらさっさと捨てなさい」と言っている。依存性のあるコンテンツは、仏教の本意から外れる。
自分が生きているところがそのまま“お寺”
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