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「良き先祖」がお寺の一階を再発明する

House of Beautiful Businessというグローバルで集うビジネスコミュニティからの招待で、The Great Waveというオンラインの集いに参加している。自分の登壇するセッションが無事に終わり、ホッと一息ついたところ。登壇者をざっと見てみると、日本人らしき人、自分しかいないかも。英語ということもあって大変だったけど、それなりに準備したので、なんとか自分なりにやれた感はあり。

というのも、準備そのものが楽しかった。セッションのタイトルは「Time Rebels and Good Ancestors」だ。

Time Rebels and Good Ancestors
What can we learn from the past to ensure our well-being in the long term? Three perspectives on time, legacy, and immediate action, featuring a monk, a writer, and a thinker.
時の反逆者と善良な先祖
長期的な幸福を確保するために、過去から何を学べるのか?僧侶、作家、思想家をフィーチャーした、時間、遺産、即効性に関する3つの視点。

一緒に登壇したRoman Krznaric氏の著書『The Good Ancestor』(未邦訳)が題材となっている。日本語で言えば「良い先祖」ということになる。ここでもしばしば話題にしている「日本のお寺は二階建て論」において、日本のお寺は一階が「先祖教」で二階が「仏道」と整理している僕にとっても、先祖供養の慣習があまりない西欧社会を生きる著者が「先祖」をどう捉えるか、興味がそそられるところだ。Romanの好意で本のデータを送ってもらい、早速読んだ。

以下、僕が読んで自分なりにまとめた本の趣旨を紹介した上で、そこから自分が得た気づきを書いてみたい。

現在、人類は未だかつてないほど、短期思考になっている。でも、今日私たちが直面する様々な課題を考えたとき、長期思考でなければ立ち行かないことは間違いない。人類の歴史において、バルセロナのサグラダファミリア然り、世代を超えた努力によって成し遂げてきた偉業は数知れない。実に、他の哺乳類と比較しても、長期思考こそが人間の最も卓越した能力の一つであると言っても良いだろう。

マシュマロ脳とドングリ脳。人間は確かに、目先の利益に弱いところがある。「マシュマロテスト」と呼ばれる、幼い子供の目の前にマシュマロを置いて、我慢できればあとでもっとたくさんのマシュマロをあげるという、有名な実験。少なからぬ子供たちが、欲望に耐えきれずに目の前のマシュマロを食べてしまう。ということで、人間の欲望に対する根本的な弱さを示す事例として引き合いに出されるマシュマロテストだが、子供の育成環境や大人たちへの信頼感が結果を左右するといった研究結果もある。短期思考のマシュマロ脳は後天的なもので、環境や努力次第で変えられるという希望もここにありそうだ。

ドングリ脳は、長い年月をかけて初めて得られる果実のために、世代を超えて希望と努力を受け継いでいく、長期思考の脳を指す。今生きている人類だけでなく、これまで豊かな文明を築いてくれた数えきれないほどの過去の先祖への感謝とともに、これから生まれてくるはずの数えきれないほどの未来の世代へ思いを向けることのできるのが、ドングリ脳だ。短期思考に飲まれることなく長期思考を保つことを支えてくれるのが、「まだ生まれていない未来の世代にとって、今、自分は”良い先祖”と呼ばれるような行動ができているだろうか?」という問いだ。「Good Ancestor=良き先祖」という本書のタイトルは、先祖ではなく、自分に向けられている。

現代人は「時間をめぐる綱引き」の中に投げ込まれている。人を短期思考に引きずり込もうとする6つのドライバーと、それに対して長期思考へ向かわせる6つの方法が、綱引きをしている状態だ。

1つ目の綱引きは、「時計の専制」と、それに対する「深い時間認識の謙虚さ」("Tyranny of the Clock” vs “Deep-Time Humility”)
中世以来時間が早まり続けた結果、人間が時計に支配されるようになってしまっている一方で、宇宙的時間認識において人間の一生など一瞬のまばたきに過ぎないという謙虚さを持つこともできる。

2つ目の綱引きは、「デジタルによる注意散漫」と、それに対する「レガシー・マインドセット」(“Digital Distraction” vs “Legacy Mindset”)
テクノロジーが進み、人々のアテンションがハイジャックされるようになってしまっている。一方、子々孫々にも自分の良い功績を覚えておいてもらえるよう何かしら遺産を残したいというマインドセットが、人間にはある。

3つ目の綱引きは、「場当たり的政治」と、それに対する「世代を超えた正義」("Political Presentism” vs “Intergenerational Justice”)
政治が次の選挙のことばかり考える近視眼を強める一方で、7世代先まで考えた世代を超えた正義というものを人間は考えられる。

4つ目の綱引きは、「投機的資本主義」と、それに対する「聖堂的思考」(“Speculative Capitalism” vs “Cathedral Thinking”)
金融市場の上げ下げの振れ幅がどんどん大きくなる一方で、人間は自身の一生の長さをはるかに超えたプロジェクトを計画することもできる。

5つ目の綱引きは、「ネットワーク化された不確実性」と、それに対する「全体性のある予測」(“Networked Uncertainty” vs “Holistic Forecasting”)
様々なリスクや汚染がグローバルレベルで高まっている一方で、新しい人類社会を多様なやり方で実現する可能性も見えている。

6つ目の綱引きは、「右肩上がりの成長」と、それに対する「すべてを超越する目標」(“Perpetual Progress” vs “Transcendent Goal”)
終わりなき経済成長が追求される一方で、一つの惑星としての繁栄を求めて力を合わせて努力することもできる。

人類に残された時間は少ない。グレタさんをはじめ、次世代は動きはじめている。綱を引き戻そうとする力もそれなりに強い中、私たちが「良き先祖」になれるかどうか、問われている。

Romanの議論から、思ったこと。

前提として、「日本のお寺は二階建て論」については以下を読んでもらえればと思いますが、

ここで言うお寺の一階部分(先祖教)が衰退して、二階部分(仏道)を求める人が増えているのは、"short-termism(短期思考への傾倒)"が強まっていることと関係しているのではないか。

人間の寿命は延びたけれど、思考はどんどん短くなっている。腰を据えてゆっくりと人生とか宇宙のこととか考えたりする時間はどんどん持てなくなっていくし、寿命が延びたせいで自分の死も遠ざかっているから、死んだ後のことなんてなおさら考えることはなくなっている。宗教は、日常の生活感覚を超えた悠久の時間に身を投ずることだとすると、今起こっていることは、よく言われるように人々の「お寺離れ」とか「宗教離れ」などではなく、人々の「長期思考離れ」と言うこともできるかと思う。

そう考えると、お寺の一階部分(先祖教)が衰退して、二階部分(仏道)を求める人が増えている背景には、「here and now=今、ここ」への注目が高まっていることが関係しているかもしれない。もちろん、マインドフルネスや仏教における「here and now=今、ここ」は、short-termism(短期思考)ではなく、いわば今ここにある豊かな永遠性に触れるものなので、それ自体がネガティブなものではまったくない。しかし、それを求めるように人々がなった背景に、short-termismが影響している可能性はある。

時間軸で整理するなら、お寺の一階はDeep-time(悠久の時間)、二階はMoment of eternity(永遠の瞬間)ととらえ直せば、一階と二階の構造は輪郭がよりくっきりする。

僕らはお寺の一階を作り変えるのにまたとない好機を迎えているのかもしれない。

これまで、お寺の一階は「先祖教」だった。自分たちがこうして生まれて生きているのも、ご先祖様があってこそ。だからとにかく、ご先祖を大事にしましょう、というメッセージを住職は檀信徒に発信してきた。それ自体は何も間違っていないし、悪いことじゃない。法事や墓参りを通じて、遠く世代を隔てた今は亡き見えないご先祖に思いを馳せる慣習は、Romanの議論に即せば「Deep-time」と呼ばれる悠久の時間軸で世界を見直す、長期思考を促す素晴らしい機会だったのだと思う。

しかしいま、short-termismの蔓延により、その大事な機会が失われつつある。何が問題かと言えば、みんなが先祖を大事にしなくなったことが問題なのではなくて、Deep-timeに身を委ねる機会が消えていくことが問題なのだ。如何せん、僕ら僧侶は先祖のことばかり言い過ぎた。過去の世代ばかりでなく、未来の世代にも目を向けようじゃないか。法事や墓参りは、自分が先祖に思いを向ける機会を重ねることによって「今こうして自分が先祖に思いを向けるのと同じように、いつか自分も死んで先祖になった時、子孫は先祖である自分にどんな思いを向けてくれるだろうか。その時、子孫から尊敬される先祖になることができるだろうか」と、Deep-timeに生きる感覚を養うプラクティスとして定義できる。

現代は、「目に見えないステークホルダー」を議論に招き入れることが求められる時代だ。グローバルでは、それは「unborn generation=これから生まれてくるであろう未来の人々」のことを指す。日本人も、「目に見えないステークホルダー」を勘定に入れて議論をしたりものを考えたりすることを得意としてきたが、これまでそれはほとんど100%、「dead generation=すでに旅立った過去の人々」のことだった。今こそ僕らは、これまで得意としてきた「目に見えないステークホルダー」の取り扱い範囲を、過去だけでなく未来へ拡張すべき時だ。

法事はこれまで「過去の先祖を大切にする儀式」だったが、これからは「過去の先祖に思いを向けつつ、自分がいずれ先祖の仲間入りをするときに、未来の世代にどんな風に自分のことを覚えていてもらいたいか、生き方を考える儀式」へと、Deep-timeの方向を過去だけでなく過去と未来の両方向へと開くような、そんな意味合いに再発明するべきときではないか。

住職業は、墓守業、という人がいる。
そういう側面は、確かにある。
でも、そこで思考を止めてしまわず、もう一歩踏み込んで考えたい。

墓を守るということは、死者を守るということだ。
では、死者を守ることは、墓を整えるだけで、それができていると言えるのか?

意味を豊かに捉えれば、もっとできることはある。
遺された人々に死者へ思いを向ける機会を作り、彼らの人生に良き影響を与えること。
目に見えない死者の存在をこの世界に現前させ、死者に代わってこの世界に働きかけること。
そんな風に考えれば、住職の役目は無限に広がる。

さらに、もし住職が「目に見えない存在」である死者との橋渡しができるなら、
同じく「目に見えない存在」であるまだ生まれていない未来の人々の橋渡しにもなれるはず。

僕は今回のセッションの最後にこう発言した。

「死者の守護者から、過去と未来の目に見えない人々の橋渡しへ」
"from the guardian of dead people to the bridge between invisible people in the past and in the future”

個性的なことで知られる新明解国語辞典の最新版では、
「恋愛」
の定義が変わったらしい。「異性」という対象の限定が解除され、そのぶん中身がより豊かに表現されている。

そろそろ
「住職」
の定義でも、「死者」という対象の限定を解除して、目に見えない存在すべてに広げ、そのぶんもっと中身を豊かに創造してもいいのではないだろうか。

現代仏教の僧侶は、短期思考の渦の中にある現代の日常生活では想像もつかないような、長い時間感覚と、目に見えない存在への感覚を、養う必要がある。

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このnoteマガジンは、僧侶 松本紹圭が開くお寺のような場所。私たちはいかにしてよりよき祖先になれるか。ここ方丈庵をベースキャンプに、ひじ…

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