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宗教の開疎化

縁あって、某自治体の首長さんの非公式オンライン勉強会シリーズに参加させてもらっている。国内外の有識者から首長さんがマンツーマンで意見を聞くオンラインの場に、僕がファシリテーションのサポートで入るような形だ。平時にはなかなか考えられない構図。

「この50日間、私はこれらのテーマについて、ずっとcontemplate(黙想)してきました」と語り始めた首長さんが提示した議論のテーマは広範だ。コロナを経験した後、世界はどうなるのか。民主主義はどこへ向かって行くのか。グローバル資本主義に何が起こるのか。世界と日本のパワーバランスはどうなるのか。中央政府と地方自治体の関係は。危機の中で、日本が、地方自治体が進むべき道は。そして、私たちはいかに生きるべきか。

対するイタリア人の社会学者は「一般に危機の際にはコミュニティの結束が強まるのが常だが、感染症の危機の場合は孤独が強まらざるを得ない。それが心配だ」と言っていた。コロナがこれからの宗教のあり方に大きな影響を及ぼすと僕が思うのも、まさにその点だ。

さて、僕がここ方丈庵で時々引用するGreat Thinker、安宅和人さんは、コロナが引き起こす「世界の開祖化」について語っている。

「開疎化と言っているのは、一言で言えば、Withコロナ社会が続くとすれば、これまで少なくとも数千年に渡って人類が進めてきた「密閉(closed)×密(dense)」な価値創造と逆に、「開放(open)×疎(sparse)」に向かうかなり強いトレンドが生まれるだろうという話だ。」

安宅さんのお話に乗っからせてもらえば、僕はアフターコロナで「宗教の開疎化」が確実に進むと思う。

これまで宗教組織は「密閉(closed)×密(dense)」を好んできた。宗教組織の中で通用している最も分かりやすいKPI(成果指標)は、宗祖の記念日など特定の日に、本部施設の密閉された空間にいかに高密度に人を詰め込んでたくさんの接触を生むかだった。だから、本部は信者組織に動員をかけてでも(必ずしも心から自主的に行きたいと思っている人ばかりではなくとも)、「密閉(closed)×密(dense)」を高めることを目指してきた。伝統宗教・新宗教を問わず、特に一定以上の年齢の立場あるポジションの宗教者にとって、いわば「三密」(密教のじゃなくて)状態の実現こそが、その宗教の隆盛を実感するための目に見える指標であった。

しかし、コロナによってその前提が完全に崩れた。慣れ親しんだKPIを失った宗教組織が今、右往左往している。多くは「コロナが収束した後、元の世界に戻ること」を期待しながら、大きな行事を中止や延期しているが、どうだろう。感染症のリスク回避が最初のきっかけだったとしても、開疎状態に慣れてきた人々は次第に「密閉(closed)×密(dense)」を是とするこれまでの都市生活の不自然さや無意味さに、気づきつつある。自粛生活は緩んだり締まったりを繰り返しながら、今後もだらだらと続いていくだろうから、その気づきは確定的なものとなっていくに違いない。パーティの熱狂より、当たり前にある身の回りの日常生活を整えることが、大きな価値を持つのは間違いない。

どんな宗教も、教祖はたいてい「当たり前の日常を大切に生きろ」という。「パーティで燃え尽きろ」と説く教祖はあまりいない。だが皮肉なことに、人間の性だろうか、宗教が組織化されて世代を経ると、教義としては「当たり前の日常を大切に生きろ」であっても、文化としては「パーティで燃え尽きろ」に変質してしまう。「当たり前の日常」の大切さを説くのが難しいから、つい「パーティオチ」に走りたくなってしまうのだろうか。かくして宗教者は、「イベントの熱狂」の中で「日常生活の大切さ」を説くステージ芸人となっていく。あ、自分のことか。

宗教組織にとって、昭和で右肩上がりの時代は終わり、平成は右肩下がりの時代だった。では令和withコロナは何かと言えば、今まで的な意味での上がる下がるの話そのものが終わったのだと思う。集まった人数や金額で組織の成否を測ることの意味が、ますます薄れていくだろう。

これから大切になると思う価値観として、「利他」や「無畏施」と並ぶのが、「中道」だと思う。「密閉(closed)×密(dense)」と「開放(open)×疎(sparse)」の不等号の向きも、時代によって変わっていくし、人によっても変わるだろう。細い棒の上を歩くとき、右側に落ちそうになると、自然と身体が左側に動いて全体のバランスを取ろうとする。そうこうしているうちにバランスが逆転して、身体はまた反対に振れる。僕らは「絶対に変わらないど真ん中」を見つけることができないし、世界が常に変化し続けている以上、そんなど真ん中が仮にどこかにあったとしても、それは瞬間瞬間にずれ続けていく。そう考えると「中道」とは、字面の印象に似合わず、とてもダイナミックでエキサイティングな動的平衡的「営み」であることがわかる。

前回のコラムで僕は「宗教ムラ」「男性ムラ」に属さない人との交流を大事にしたいと書いた。それもまた、自分にとっての動的平衡的な営みだ。細い細い一本道を歩いていて、身体が片側に寄りすぎたから、思い切って反対側に重心を振ってバランスをとる動作が、とっさに身体から出てきたようなものかもしれない。

価値観が転倒するときには、旧来の価値観が間違っていて新しい価値観が正しいと、どうしても考えがちだ。しかし実際は、そのどちらもその時点では正しかったのだ。正しかったというよりは、そうとしかあることができなかったと言ったほうが良いかもしれない。生きていくため、僕らにはそういう力が備わっている。

吐いたり吸ったり両方あるから、呼吸になる。今がその転換点だ。

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