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世界は、本当に、「不可解」なのだろうか

とても有名な事件なのですが、先日、このようなWeb記事を読みました。

【華厳滝に身を投げた夏目漱石の教え子】 藤村操とは ~遺書「巌頭之感」 - 草の実堂 (kusanomido.com)

これを読んでいて、とても興味をひかれた記事でしたので、少し、このことから思いついたことを書いてみます。

明治36年(1903年)に16歳で華厳の滝に投身した藤村操の残した遺書「巌頭之感(がんとうのかん)」に、次の言葉が出てきます。

”萬有の眞相は唯だ一言にして悉(つく)す、曰く、「不可解」。”

萬有(万有)というのは、文字どおり「ありとあらゆること」なのでしょうから、「世界」とここでは言い換えてみます。

すると、上の言葉は、次のような形で言い換えられるのではないでしょうか。

世界(の真相)は、不可解(解けない=理解できない)である。

さて、いったい、世界は理解不可能(私たちの理解の及ばない)なものなのでしょうか。少し考えてみたいと思います。

まず、世界は、無限であるか、それとも、有限であるか、になります。

具体例を挙げると、私たちが観測可能な宇宙は、およそ、180億光年から400億光年程度の広がりがあるようです。
※私が読める程度の、科学啓蒙書(ポピュラーサイエンス)ですと、宇宙の大きさにはこのくらいの幅があります。

ちょっと大きさの見積りに幅がありますが、いずれにしても有限な領域であることに変わりはありません。

宇宙が無限であるならば、例えば、400億光年先に行ってみたとしても、私たちが地球で星空を見るのと同じような宇宙の広がりがきっと見えることでしょう。

宇宙が有限であったとしても、観測可能な宇宙よりも大きいならば、観測可能な宇宙の端に行ったとして、似たような景色が三重津のかもしれません。

今は、観測可能な宇宙の端に行くという例えをしましたが、有限な宇宙が、全体としてどのような形状をしているのかは、(現状の物理学、具体的には一般相対性理論が大域的な重力理論として適切であると仮定して、)3次元多様体の全体の形状の議論になるのだろうと、とりあえず言うことができると思いますので、有限な宇宙の端がどのようになっているのかについては、複数の可能性がある、ということになります。それはそうとして、ここでは、有限である、という仮定が重要です。

宇宙が、無限であるか、有限であるか、は、おそらく観測によっては決定できない議論です。なぜなら、無限のものを観測することはできません。観測可能なものは、かならず、有限です。ですので、仮に、宇宙が無限であったとしても、それは観測という手段では検証不可能です。

そこで、観測(あるいは他の実証的な手法)で決定できないのであれば、宇宙の広がりは理性的思弁により解決しなければならない問題になります。

けれども、カントは「純粋理性批判」の中で、純粋理性のアンチノミーとして、この問題(宇宙は無限か、有限か)を取り上げています。そして、無限であるという証明も、有限であるという証明も可能であることを示し、二律背反(アンチノミー)に陥ることを示しています。つまり、宇宙は、無限であるか、有限であるかを理性的思弁によって解決することは、不可能ということになります。

ここでは、宇宙が無限であるか、有限であるかを決定せず、両方の場合に分けて、考えていきます。

(1)宇宙(世界)が無限である場合
世界が無限である場合、(この世界はスピノザのいう神と同じということで、以下、考えていきますけれども、)私たち人間は、有限の存在なので、無限である世界と比較して、有限な存在は、限りなくゼロに等しいものとなってしまいます。無限である世界には、無限の属性があり、それは、有限な存在である私たち人間には、とうてい到達することのできない領域です。私たち人間も、世界認識と学術を進歩させており、一定の可知領域(Known Space、Known Field、Known Sphere)を持ってはおりますが、この宇宙のもつ無限の属性と比較すれば、おそらく私たちの可知領域など、無に等しいのでしょう。

そして、私たちが有限な存在に留まり続ける以上(=無限である神にはなれない以上)、私たちの可知領域も(今後、どんなに進歩・拡大しても)有限のままであり、そうであるならば、無限の属性をもつ世界と比較して、有限の可知領域は、無に等しいでしょう。

無限なものに対して、有限なものは、実質、無に等しい存在です。それは、有限なものとして、この観測可能な宇宙全体を持ってきたところで、なんら変わりません。

この場合、世界(宇宙)は、私たち人間にとって、理解を全く超えている存在であると言えると思います。すなわち、理解できない=不可解、なのです。

(2)宇宙(世界)が有限である場合
世界が有限である場合、有限な私たち人間の可知領域が拡大していけば、いずれは、この有限な世界を、私たちの可知領域が覆いつくすことができるのではないかと、期待できます。

ここで、私が気になるのは、誤用であるとも思うのですが、「ゲーデルの不完全性定理」です。

ゲーデルの不完全性定理は、有限なものが、それ自身として完結することが不可能であることを証明しているように思えるのです。

もう少し、不完全性定理についての、私の十分でない理解を、少し丁寧に展開してみます。
・ある公理系を前提して、それから演繹される数学の全ての命題を(ゲーデル数に置き換えて)並べます。
・対角線論法により、並べた全ての命題から、もう一つ別の(数学的に成立している)命題が生じます。
・新たに生じた命題は、当初の、演繹された全ての命題には、含まれていませんでした。

こういうことから、不完全性定理は、有限な領域を認識で満たしたときに、そこからはみ出してしまう命題が生じることを言っているように思えるのです。つまりは、有限な領域が、それ自体として完結することはできない、ということです。

これは、認識が有限な領域で完結することを否定しているように思えますが、かといって、認識の対象とする領域が無限であることを示しているわけではなく、単に、完結した領域が構成できないということのみを示しています。しかも、公理系を前提する、数学的命題に関する認識のみについて、言及しているものです。

世界に対する、私たちの可知領域には、例えば、物理学的なものがあるでしょうが、その場合には、数学の場合の前提となる「公理系」は(物理学において)何になるのか?同じような話を他の領域に広げるには、アナロジーが成立するように、調整と再考が必要です。

物理学の他にも、生物学、○○学、……等、他の領域がたくさん数え挙げることができるでしょう。

いろいろ、議論してきましたが、言いたいことは、有限な世界を、有限な認識で埋め尽くすことが可能なのか、ということです。

これは、難しい議論になると思いますし、丁寧な検討が必要だと思います。

いずれにしても、仮に、有限な世界が、有限な私たちの可知領域で埋め尽くすことが可能であれば、その時には、世界は「不可解」ではなく「可解」なものになります。この場合には、世界(宇宙)は不可解ではありません。

議論が不足していますが、全体として、仮にまとめると、「世界が不可解である」可能性は高いように思われますが、一方で「世界が可解である」のを完全に否定しきるのも、なかなか困難な作業ではあると思われます。

つまりは、簡単には、「世界が不可解である」とは言い切れないかもしれない、別の可能性(可解)を否定することは意外と厄介な作業ではないかということです。そんなことを考えました。


(2023年12月16日追記)
ちくま学芸文庫『柄谷行人講演集成1985-1988 言葉と悲劇』を読んでいます。この中に、「ドストエフスキーの幾何学」という講演があるのですが、そこから、上記の記事に関わるように(私には)思われる箇所を、少し引用しておきます。

「バフチンがいうモノローグ的世界なるものは、哲学でいえば、デカルトよりもむしろヘーゲルに見出すべきでしょう。ヘーゲルにとって、世界とは、精神の自己運動です。そこに他者は不在であり、自分の中ですべて終わってしまう。………(中略)………。世界を全体的に了解しうると考えることが、ヘーゲル主義なのであり、そこには外部=他者がないのです。」

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