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私は、本が読めない、あるいは、哲学書を読んでよかったとおもうこと

本が読める人は、なぜ自分が、本が読めてしまうのかを、疑ったほうがよいのではないか。
「あなたは、なぜ、その本が読めるのか?」
「あなたは、ほんとうに、その本を読めているのか?」

私は、本が読めない。一文一文が、それどころか、一語一語に、違和感を感じてしまう。だから、進まない。一日中かけて、1ページも、進まない。

哲学書を読んでよかったと思うことは、常に挫折を繰り返していくこと、常に挫折を繰り返して、もしかしたら、何らかが理解できるのかもしれない、そういった気になるところに、たどり着くときもあること。

そういった、常に挫折を繰り返していくことのなかからしか、おそらく、理解というものは、生まれてこないこと。そういったことを、哲学書を読もうとすることは、教えてくれた。

だから、他の勉強をするときも、同じことでよいのではないかと、考えるようになった。いくらでも、挫折を繰り返しても、よいのだと。むしろ、挫折を繰り返すことのなかからしか、理解は生まれてこないのでは、ないのかと。そんなふうに思えるようになったからだ。

だから、挫折することが、怖くなくなった。むしろ、挫折は、あってあたりまえのプロセスになった。それで、理解に到達できるとは、まったく限らないのだけれども。

なお、ここで、哲学書を読む、と書いていて、哲学を学ぶ、とは書いていないのは、やはり、哲学を学ぶというのは、もともとできないのではないか、と思うからでもあり、また、自分のやっていることは、あくまで、哲学書を読んでいるだけであって、哲学を学んでいることではないと、思っている、そう感じているからである。

追記:こういう記事を見つけた。私が、上で書いた内容とは、すこし異なっているように思われるけれども、でも、とても気になったので、リンクをつけておく。
『読めない人が「読む」世界:読むことの多様性』(原書房) - 著者:マシュー・ルベリー 翻訳:片桐 晶 - 片桐 晶による後書き | 好きな書評家、読ませる書評。ALL REVIEWS

追記2:今回の記事は、以下の書籍を、参考にしていると思う。
ちくま学芸文庫『柄谷行人講演集成1985‐1988 言葉と悲劇』所収の、「江戸の注釈学と現在」という講演録。
このなかでの、伊藤仁斎の、論語の「読み方」についての言及。
仁斎は、論語を、30年も40年も(※ちょっとうろ覚えなので、年数は違うかもしれない)読み続けたのだという。そうしていると、ある日、ふと、論語のなかの言葉が「腑に落ちる」、そういう時がある、ということだ。ほかの哲学書を読むのも、同じことではないか。分からないながらも読んでいると、ある日、ふと「腑に落ちる」ということも、あるかも、しれない。そういうことである。

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