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死は生の対極としてではなくその一部としてある〜『ノルウェイの森』より

今日は少し
障害者やマイノリティ関連から
離れたことを書きます。

ここ最近
身近な方、
親戚方のお2人が
亡くなりました。

お二方とも
ご高齢ではあったのですが。

自身が年齢を経たのも
あるかもしれないのですが、
今回とみに
生と死というものが
連続してるものだと
この『ノルウェイの森』の
文章のように
感じたんですよね。

特に
お1人の方は
唐突な亡くなり方だったんです。

数日前まで、
私の親に電話をかけてきたりして。

そういった理由も
あるのかもしれません。

あまり
スピリチュアルめいたことを
言うつもりはないのですが。

やはり
生と死の境界線は曖昧で
連続体のようなもの、
グラデーションで、
この肉体は入れ物に
過ぎないのかもしれない。

私が小さい頃や
それなりに年齢を経た頃の
そのお二方の
お姿や話し声や話し口調や
他のみなさんも含めて
談笑したことなどが
思い出されます。

そう、
少なくとも
私の中では
生きているんですよね。

確かに、
この世界の肉体としては
寿命を終えたかもしれない。

そして、
今は亡くなったばかりだから
特に思いが
湧き上がっているのだとも
思います。

でも、
たとえ頻度は少なくなっても
所々で
思い出すことは
あるでしょう。

誤解しないで
いただきたいのは、
だから死んでいいわけでもないし、
自死をしていいわけでもないです。
そこは絶対です。

そして天国やあの世が
あるのかは私にはわかりません。

でも、
そのお二方は
亡くなっていても
どこかで
生きているんですよね。

もちろん、
もっと身近な親などだったら、
冷静に文章など
書けないかもしれない。

ある一定の距離のある方
だったからというのは
あるでしょう。

この世界では
障害を持っているとか
性的マイノリティであるとかも
確かに辛く苦しい部分があるし、
様々な偏見や差別が外界から
降ってはくるし、
そういうものを
この現実界では
少しでも良い状況に
変えていかなければならない。

私自身も
これからも闘っていきます。

それはそうなのだけれども、
何か借り物の肉体で
生きているというか、
生と死は
連続体の中に存在していると
考えるとき、
それこそ
障害者も健常者も性的マイノリティも
異性愛者なども差なんてないというか。

メタ認知という言葉とは
違うかもしれないですが、
多様であることが前提であるというか。

今回は
あまり上手く書けなかったのですが、
何かしらみなさんに伝わって
特にご自身の障害や
マイノリティ性で
苦しんでいる方が
今回の文章で
少しでも楽になって
いただけたら嬉しいです。




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