見出し画像

読書感想 「空海の風景」 司馬遼太郎/中公文庫

pp.1--94

空海、十八歳で大学を中退し、インド密教の影響を受けて、四国の山野で行をする。その大滝嶽へ誘われて、一度行ったことがある。なんの変哲もない、小高い山だったが、空海の聖地であると、連れて行ってくれた人は教えてくれた。

その人は、生まれた長男に弘法大師の「大師」にちなみ、「タイシ」(漢字は忘れた)という名前までつけていた熱狂的な弘法大師ファンだった。

僕は、その頃、すっかり遍路にハマっていた。明けても暮れても、四国を歩いている時期だった。

ちょうど、空海が辿った道を、ほぼ、同じ年代の頃に、四国へ導かれたことは、本当に不思議だ。

pp.95--234

「弘法も筆のあやまり」ということわざがあるくらいだから、弘法大師、空海は立派な文筆家だったのだと思う。本書にもそれが示されている。

中国に渡った空海たちは、はじめ密輸業者と思われ、なかなか入国を許されなかった。空海はそれまでパッとしない放浪者のように扱われていたけれど、入国を願い出る文章を書くという役になった途端に、突如として表舞台に現れる。

「賀能、啓す。高山、澹黙なれども、禽獣、労を告げずして投帰し、深水、もの言はざれども、魚竜、倦むことを憚らずして逐ひおもむく」

文章って大切だと思う。その人の人柄が、そこにあらわれる。力強さとか、人間の深さとか、いろんな面がそこには表現されている。

pp.235--277

「運河に沿って暮らしている市民たちの不潔さはおそろしいばかりであった。ひとびとは運河にむかってさかんに排泄するが、水はわずかにしか流れないために、それら排泄物はたゆとうている。犬猫の死骸もうかんでいる。その水を汲んで米をとぎ、米を煮、沸かして湯をつくる。  船中にいるワークワークたちに与えられる飯も、この水を汲んだものであった。」

数年前に中国深圳へ渡った時、取引先が昼食をもてなしてくれることになった。暑い日だったから、飲み物を出してくれたのだが、それが日本で見るような「ポリバケツ」に入って出てきたのには、驚いた。しかもそれは無造作に地べたに置かれていた。中国では絶対に生水を飲んではいけないと教えられた。日本人には抵抗力がなく、すぐにお腹をこわしてしまうからだ。

江戸の町は、当時世界最先端の下水道が整備された都市だったという。現代に至っては、ウォッシュレットを発明したり、この国の人はもとより清潔好きなのだろう。

pp.278--322

「長安には常時、四千の異国の使臣と随員が滞留していたというし、そういう異土の人と袖を触れあいつつゆくこと自体が、狭斜を歩く楽しみであった。」
海外出張が続いていた数年間は、僕にとってその人間性を深めてくれるとても貴重な時期だったと、今になっては思う。そこでいろんな人種に会って、話をしたことが、僕の中の世界を広げてくれた。

海外へ赴任してみたいかと社員に聞くと、いつもかえってくる答えが否定的なのが残念でしかたがない。見知らぬ土地を踏み、見知らぬ人や文化と会ってみたいという冒険心を、いつの日からか、私たちは失ってしまったのだろうか。
多様な考え方と接することでこそ、人間性は深められると僕は思う。

同じ場所にとどまっていてはいけない。もっといろんなものを見て、感じ、自らの心を育てていこう。

pp.323--360

「恵果もまた、その人生が終ろうとする最後の数ヵ月という時期に空海が出現する。恵果の死が、七ヵ月後の十二月十五日に訪れることを思うと、空海の運のよさのただごとなさに誰しも驚かざるをえないのではないか。」

「空海は、インド・中国をふくめた密教発達史上、きわめて得がたい機会に長安に入り、恵果に会った・・」

松下幸之助は入社面接で、「あなたは運が良いと思いますか」という質問をして、「はい」と答えた人間を採用していったという話を聞いたことがある。

「運が良い」ということは、決して天に運を任せているということではないと僕は思う。日ごろからの努力が、その人に「運」を引きつけていくものではないだろうか。

開花の時節は、人それぞれであっても、努力はその人を決して裏切らない。いつの日か必ずその人をして「成功」へと導いてくれる。

pp.361--451

「空海は、自分の行跡について沈黙してしまう期間をその生涯でいくつか持っている。」

最近僕はあまり人と会わなくなった。しかし、どういうわけか人の中では僕についての勝手な想像が膨らんでいるらしい。僕を見つけると、ひどく驚いて車のまどから首を出す人もいる。僕が人徳者だと言い出す人までいる。会ってもいないのに。

将棋でも、ビジネスでも、相手に手のうちを見せないということが大事だ。相手にすべてが知られてしまっていることほど、弱く脆いことはない。

欲しいけど、手が届かない。会いたいけど、会えない。そいういう状況をうまく操作することで、自分がもっていきたい方向へものごとを有利に進めることができる。

pp.452--562

「インドにおいては密教は師承以外に相続させなかったし、不空も当然ながら筆授を否定した。恵果もむろんそうであった。」

日本でも、人は親や師匠の背中を見て育つという教えがある。禅宗にも同じような考え方が見られる。仕事の上でも、あれこれマニュアルにして、伝承するということではなしに、見よう見真似で伝えていくという方法が、技術者の間で今も行われている。

あるひとは、それは属人化していて、危ないというが、僕は、その方がいいと思う。大切なことは、言葉にできないし、しないほうが伝わりやすいことが多い。言葉にした瞬間に嘘になってしまうほど、真理は深い。

pp.563--600

「日本の宗派が他宗派に対してそれぞれ門戸を鎖し、僧の流出をふせぐという制度をとるにいたるのは、この泰範の事件以後とされる。その意味では、泰範はついに無名の存在としておわるとはいえ、日本の教団社会史上の存在として、見のがしがたいといっていい。」

最澄は、その弟子であった泰範(たいはん)を敬愛してやまなかった。彼をして天台宗の後継とさせようとしていたのに、泰範は空海のもとへと去っていく。それまでは、日本の仏教はお互いに宗門の壁を設けることがなく、僧侶たちは自由に交流していたのに、この事件をきっかけに、各派が門戸を固く閉ざしたのだと、著者の司馬遼太郎は書いている。

驚くべきことだと思う。たった一人の人物、最澄によって、日本の仏教の姿は大きく変えられてしまったのだから。

家の宗門は浄土宗なのに、僕は大学院を修了後、禅宗(臨済宗)で得度、出家した。しかし四国遍路に魅せられて、真言のお坊さんとも交流していた。その中で不思議に思っていたのは、彼らは、自分の宗旨にばかりこだわり、なぜ他の宗派の体系を学ぼうとしないのかということだったが、今その謎が解けたような気がする。

pp.601--660(読了)

「私事になるが、太平洋戦争中の夏、学生のまま兵隊にとられるというので、似た運命になった友人二人と徒歩旅行をした。計画というのは吉野からまっすぐに熊野の大山塊を突きぬけて潮ノ岬へ出、熊野灘を見ようということで、吉野の下市の小さな駅舎にあつまり、やがて山へ入った。」

司馬遼太郎さんも熊野の山を歩いている。僕は、那智の滝から遡るようにして、熊野古道を北上していき、紀三井寺を経て、その足で高野山へ登った。

生まれて初めて高野山へ着いた時のことが、今もなお、思い出される。

十二月も半ばの寒い吹雪の日だった。歩いている道はどんどん細くなって、やがて道が閉ざされてしまい、見上げるばかりの断崖となってしまった。もう戻ろうにも日が暮れかかっていて戻れず、やむをえず天を仰ぐようにしてひたすら道なきみちを登っていった。そうしてようやく辿り着いたのが高野山だった。

野宿で歩いていた私は、常喜院という塔頭に泊めてもらえることになった。僕の話を聞きたいというお婆さんが部屋に椅子を持ってきて、ちょこんと座ったのを覚えている。

「上求菩提、下化衆生」という言葉を教えてもらったのも、この時だった。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?