上方落語協会志演義〜復活•会長選挙!その①

今後、上方落語協会の歴史的事件をいろいろピックアップして書いていこうと思います。

私が入門して実際に体験したことを中心に書きますが、

●事実の部分と、
●私が入門する前のことを先輩方が喋ってたこと(内容の真偽は不明だが、先輩達がそう発言したという事実)

を中心にドラマチックな感じで書いていければ、、、と思っています。

ただ、そうなると、どこまで史実になるのかわからないので、
「三国志演義」みたいなものとして読んで下されば幸いです(笑)

記事にできないのも含めて、
なんとなく大きな事件簿として記事の予定は下記です。

●復活!会長選挙
●繁昌亭オープンと企画委員会
●繁昌亭の指定席化
●喜楽館建設騒動
●六代文枝師匠の勇退と会長選挙〜仁智政権誕生
●補足=上方落語協会と各事務所の関係性(米朝事務所、吉本興業、松竹芸能)

まずは、「復活・会長選挙!」について書いていきます。
ただし、これは、私が入門する前からの膨大な伝聞情報(ゴシップ)があり、そこを触れないと話がしにくいのですが、それを書くと、多くの一門が嫌な気がしますし、多くの噺家から

「お前、そんなことよう書くなぁ!」

となりますので、なんとかギリギリのラインで書きたいと思います。


【歴史的事実】

1957年4月1日上方落語協会創立
会長=三代目林家染丸、幹事=六代目笑福亭松鶴・桂米朝・五代目文枝・
 三代目春団治・三代目旭堂南陵 ※当時は別の芸名の者もアリ)

★選挙制度を開始!(?年)←松鶴師匠の発案
※1968年 - 1977年松鶴師匠が会長ですが、
 会長の任期中に「選挙」をしたのか、
 三代目染丸師匠が辞める時に「選挙」を開始したのかは不明。
 (調査して事実判定後、記載変更します)
※少なくとも、第1回目の選挙で会長に就任したのは
 六代目笑福亭松鶴。

1968年 - 1977年 会長=松鶴、副会長=米朝

1977年 - 1984年 会長=三代目春団治、副会長=五代目文枝
1984年 - 1994年 会長=五代目文枝、副会長=仁鶴
(※1986年六代目松鶴死去)

選挙の中止→理事会で会長選出に変更
1994年 - 2003年 会長=二代目露の五郎、副会長=四代目林家染丸
(1994年枝雀一門&ざこば一門が協会を脱退)

選挙制度の復活→協会員全員による無記名投票で会長を選ぶ
2003年 - 2018年 会長=六代桂文枝
2004年社団法人へ。2006年天満天神繁昌亭オープン。
2011年公益社団法人へ
(※塩鯛一門、ざこば一門、枝雀一門の多くが随時復帰)
 ↓
2018年 - 会長=笑福亭仁智 副会長 5代目桂米團治

★会長選挙・復活は、大モメに揉めた!

前提の知識として、上方落語協会の会長選挙は協会員になれば芸歴に関係なく1人1票で、無記名投票なので、非常に公正・公平・平等です。
しかし、大きな一門の師匠が「次の会長は●●がええな」と言えば、弟子はもちろんその師匠の意向を汲むものだとは思います。また師匠と弟子は、そこらの思想を共有しやすいので、大きな一門の師匠の意見は事実上、何票にもなるとも言えます。
ただ、「師匠の意をあえて汲まない」と弟子が自由意志で思えば、無記名ですから、誰にでも投票できます。もちろん師匠が何も言わない場合もあります。

私が入門したのは1998年ですから、当時は選挙はしていませんでした。
選挙が復活した時にはムチャクチャ面白かったです。
その当時の話を本日は書いていきます。
「選挙が復活」ということですので、「そもそも、上方落語協会の会長選挙はどのようにして生まれ、どのようにして中止に至ったのか」をまずは解説します。
※ただ、ここは私の入門前なので、先輩方の伝聞により書いていきますが…。


【前提】親睦団体・上方落語協会

私が入門した時(1998年)は、当然、上方落語協会は親睦団体であり、上方落語協会は寄席も何も持っていませんでした。

島之内寄席という月に1回の協会主催の定例落語会があり、それ以外は何らかの余興などが協会にあれば仕事を引き受けてるようでした(末端すぎて、当時の協会が何をしてたのかは不明です)。

当時の体制と落語世界

西暦2000年当時、親睦団体・上方落語協会の体制は下記でした(私の記憶)。

会長=露の五郎
副会長=林家染丸
相談役=桂米朝、三代目桂春団治、五代目桂文枝
理事=笑福亭仁鶴など、、、

忘年会みたいなのが、難波のミュンヘンで行われていました(当時は和室の大広間)。

私が初参加した時は仁鶴師匠が乾杯の発声をしていたのを覚えています。

そして、当時は、
米朝一門の一部の人=枝雀一門、ざこば一門、小米師匠、千朝師匠、団朝師匠、宗助師匠(現・八十八師匠)は、協会に所属してませんでした。

入門してから先輩方の話を聞くと、

「今の体制になった経緯(五郎師匠が会長になった経緯)」

「米朝一門の一部が非協会員であること、米朝一門が協会に非協力的であること」

が全部繋がってる、、、みたいな話を聞きました。
(※現在の米朝一門の方々ではなく、当時の雰囲気であり、そういうことをよく聞きました)
それについては、お客様も、舞台で聞いたことがあるかもしれません。
(有料部分にそのあたりのことも書いておきます)

※なお、お囃子さんは協会員ではありませんでした。
(西暦2000年時点において、演芸家の名簿には、上方落語協会のところには「会友=三代目旭堂南陵」と表記されている一方、米朝一門系のお囃子さん以外は「おはやし連」と記載されてたと思います。米朝一門系のお囃子さんは名簿には記載がなかったです)

露の五郎会長時代

私が入門した時は、露の五郎師匠が会長でした。
そして何年かごとの総会で、

「露の五郎師匠が会長に再選されました」

と報告を受け、五郎師匠が挨拶をしていました。
徒弟社会ですし、私は芸歴2〜3年の末端会員でしたので、もちろん何の文句もないですが、

「これはどういう形で“再選”されたんやろう???
 自分は協会員やけど、全くルールを知らないし、
 誰が選んでんねやろう???
 (再選ということは少なくとも誰か選ぶ権利のある人達がいて、選んでるようだ…)」

と不思議に思っていました。
(会長選挙が復活するまで、よくわかっていませんでした)

なんとなく芸歴を重ねるうちに、
「理事会というのがあり、そこで決められるらしい」
ということがわかりました。
※「当時、どういうふうに理事が決まって、
どういうふうに会長が決まっていたのか」については
今も知らないので、またベテランの師匠に聞いてみます。

※私の入門後、しばらくして「5人以上弟子を持つ一門の師匠は理事、そしてその一門から別に理事付役員というのを出す」という制度が一時期ありました。
例)仁鶴師匠は「仁鶴一門」の理事で、理事付役員を仁鶴一門から別に1人出す。六代目松喬師匠も「六代目松喬一門」の理事で、松喬一門から別に理事付役員を1人出す。笑福亭一門としては「(鶴光師匠は東京で、福笑はやりたくないので辞退して)松枝師匠」が理事で、別に笑福亭から理事付役員を1人出す、、、みたいなルールでした。
(ただ、これが三枝師匠が会長になってからの制度か、その前の制度かは不明です。ただ、このシステムは三枝政権の前後だったと思います)

会長選挙の機運

当時、今よりもっと仕事が皆、少ない時代、

「協会の仕事に偏りがあるのではないか?」と思う人や
「現会長・執行部への不満」を持つ人

というのがあったようです。
(というか、これはいつの時代でも出ると言えますが、、、)
※もちろん私は末端も末端なので、不満も何も持ちようがない状況です。入った当時の状況が、そういうものですから。。。

ただ事実として、

そもそも松鶴師匠がいた時代には、上方落語協会は会長選挙をしていた

そうです。

私の師匠=笑福亭福笑からの情報ですが、

「(六代目笑福亭)松鶴がいきなり、
 “これからは民主的に会長選挙をやる!”言うて、
 皆が“はい!”言うてやり出したんや、、、どこが民主的やねん」

という逸話があります。
その後、会長選挙があり、会長が

六代目松鶴師匠→三代目春団治師匠→五代目文枝師匠

となります。この後、会長選挙で、米朝師匠が選挙で選ばれたのですが、
米朝師匠が辞退し、その次に枝雀師匠を会長に打診したそうですが、それも辞退となったそうです。
(枝雀師匠は選挙で次点だったのか副会長候補だったのか、どういう選挙形態かは不明ですが。。。)
※逸話としては枝雀師匠が「僕は落語だけやりたいので(辞退します)」という理由を言い、
三代目春団治師匠が「そんなこと言ったら僕だってそうだよ」と嗜めたというエピソードが伝聞として残っています。

その後、仕方なく(選挙で選べなかったということで)、
前会長&前副会長の「五代目文枝師匠と仁鶴師匠」で、もう一期、続投することになり、その後、選挙ではなく「理事会の選出で」=「年功序列で」ということで、その次の期は

露の五郎師匠が会長になった

という経緯を聞きました。
そうしたことから「露の五郎師匠は選挙で選ばれてないから」という何らかのわだかまり(?ツッコミ部分)があるので、モヤモヤを持つ人もいたようです。そこらを聞いたことはあります。

結局、時代が経ち、そもそも「モヤモヤを減らすべきでは?」という人の気持ちと、現状を変えたいという人の気持ちから、「選挙にしてはどうか?」という機運が上がって来たようです。
(私は末端なので、そういう機運はないのですが、周りはそういう雰囲気だったのと、私個人としても「選挙はしてみたい」とは思いました)

ただ、なんとなく選挙復活の寸前は、

「選挙にするかどうか」を先に投票せなあかんのと違うか?

みたいなぐらいの、やや険悪な空気もありました(笑)
今思えば不思議ですが、まあ「選挙にする」という時点で今の体制やシステムに不満を持ってるということを表明することなので、
上層部からすると「失礼な!」という気になったのかもしれません。
ただ、そもそも「選挙にしてはどうか」と言えるのは理事会に出席してる人しか言えません。
これは、亡くなった桂福車師匠が提案したとのことです(福車師匠本人から当時、私は聞きました)。
もう一人、それを推した師匠の名前は言うてええのかわかりませんが、春団治一門の桂●●師匠です。(また許可あれば書きます)

そして、理事会での検討後、会長選挙をすることになりました。

会長選挙までの紆余曲折【各一門の舞台裏】

以下は噂話でしかないです。
というのも、色んな噺家が、当時「こんな気持ちやった」という内心の話ですので、全く根拠がないのです。
ただ、先輩方が「●●はこんな気持ちやった。こういういきさつや」みたいに発言したという事実だけは存在します(笑) それを書いておきます。

以下は決して、私が言うた訳では無く、先輩方の発言のダイジェストです。ただ、非常にセンシティブな内容なので、ここからは有料です。

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