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ばあちゃんが死んだ日、俺はサウナで汗と涙を流した。

初めまして。
タカラベルモント株式会社の経営企画に所属している日野と申します。
このnoteは本来、我々経営企画で新規事業を立ち上げるプロジェクトの広報PRの一環として使う予定で立ち上げたものです。
次回以降は、私が地方の営業から新事業開発担当になる一連の流れから現在まで、そしてこれからについて定期的に配信していく記事になる予定ですが、こんなタイミングでこんなことになってしまったので文字にしてみようと思いました。
記事を書くのは初めてのことで、やり方を調べながら頑張って書いてますので、やさしい気持ちで読んで頂ければと思います。


2021年02月10日18時少し前、ばあちゃんが天国へ旅立ちました。
連絡は令和らしく父からのライン

うちの婆ちゃん、6時前に亡くなりました。
お母さんが看取ってくれました。
詳しくは後で連絡します。
追伸
コロナ禍なので、帰省する事は絶対にしないように。
落ち着いてから、お参りしてもらえれば良いから。
●●●(地名)でも、コロナが出て来たので、周りがピリピリしてるからね。

めちゃくちゃ端的。
最低限の必要な情報とこちらへの指示、その背景までわかりやすい。

このラインの一週間前、かなりの長文でばあちゃんに脳梗塞が発覚したと知らされ、その時点ではまだまだ生きれるかもしれないし、すぐにポックリ逝っちゃうかもしれない、と言われていただけあって

「早い」

くらいしか感想が出てきませんでした。

冷たいやつと思うかもしれないですけど、実際この一年はコロナの影響で帰省ができず会えてないし、その前の年はインフルエンザが流行ってるからと、ばあちゃんがいる施設に入れてもらえず、なんやかんや1年半は会えてませんでした。

ここで私とばあちゃんの馴れ初めについて。
出会いは私が生まれた平成元年7月17日。(多分)その頃から、今日に至るまで、完全なばあちゃん子でした。
地元は田舎で父も母も同じ市内で出会って結婚してるので、当然父母の実家ともに車で10分くらいでいける立地でした。
今回亡くなったばあちゃんは父方の祖母で、じいちゃんは私が生まれる遥か前に死んじゃってるのでずっと一人で暮らしてました。
小学校低学年くらいまでは毎週末ばあちゃんちにご飯食べに行ってて、食べ終わった頃に父母が車で迎えにきて、その車で帰る車内から見送るばあちゃんに向かって、見えなくなるまで投げキッスを連発して「投げキッスの回数がばあちゃんの寿命ゲーム」を一つ下の妹と繰り広げていました。(今思えば確かにいつも80回ちょっとだった気がする)

小学校4年生くらいの時に父母が家を建てたので、その家にばあちゃんも同居することになり、それから高校を卒業するときまで一つ屋根の下で暮らしてました。(なんか定期的にばあちゃんは自分ちに帰って一人で過ごしてたりしてたけどこの辺はうろ覚え)

私が大学生になって東京で暮らし始めた頃、ばあちゃんが携帯を手に入れました。その日から週に3回くらいは電話をするようにしてて、他愛もない話で毎回10分くらい話してました。
就職してからも、帰省のたびに二人でご飯を食べに行ったり、手を繋いでばあちゃんの買い物に付き合ったり、それはそれは微笑ましい祖母孫に見えたと思います。

そして私が就職をした9年くらい前、そのあたりから、見るからに体力の衰えや弱ったな、と感じるようになりました。
そうなってからはデイサービスを利用したり、ヘルパーさんが来たり、人の助けに頼りながら生活していました。
それでも日々連絡を取り合っていて、その頃は私が営業していたので、運転にハンズフリーでデイサービスでの出来事などお喋りしてました。

時がたって、日に日に電話の会話も怪しくなっていくのを実感してた頃、母から「ばあちゃん施設に入れるから」と連絡がありました。
当時は結構手のかかる赤ちゃんレベルで大変だったそうです。
ばあちゃんは内気で愚痴っぽいところもあったので、施設じゃうまくやっていけないんじゃないかな、とか思いながらも、大変そうな母を見てると「それも仕方のないことかな」って自分を納得させていました。

施設に入ってからは電話もできないので年に3回のGW・盆・正月だけ会うことができて、たまに施設の意向(インフルエンザの流行など)で会えないこともありました。

2016年に私が結婚しました。施設に入る前に妻にはばあちゃんにも会ってるし、何度か施設に一緒に行ったこともあります。
結婚式は地元からそう遠くない場所で挙げました。それは心のどかでばあちゃんにも来て欲しいと思ったからだと思います。
相当無理を押して、さらに周りのサポートもあってばあちゃんは式に出てくれました。本人も迷惑かけたくないと言って来たがらなかったのですが、かなり無理をさせました。でも今思えばそれでよかったと思っています。

2018年に娘が生まれ、2回ばあちゃんに抱っこさせることができたのはよかったと思っています。ただ、その頃には少し痴呆も入っていて、会ってすぐは私が誰か分からないような事がほとんどでした。

そして2021月02月10日、ばあちゃんは天国に旅立ちました。
最後に会ったのは一昨年の夏、施設の夏祭りだったと思います。
おめかししてて少し面白い顔だったのを覚えています(笑)

冒頭の通り、ラインで知った訃報は全く実感がなく、しばらく会ってないのもあってか、あれだけ大好きだったばあちゃんの死に涙も出ませんでした。

訃報を知ったのは子どもを保育園から連れて帰ってきて、家に着いた時。
妻には一言「ばあちゃん死んじゃった」
実感ないからあんまり悲しくないなーとか話たと思います。
その後すぐに、ふと口をついた言葉が


「俺、サウナ行ってくるわ」


妻は一言「わかった」と言ってました。
日課である風呂に娘を入れ、日課である寝かしつけをして、22時頃家を出ました。荷物はいつものシャンプーとトリートメント(自社製品PRします)、洗顔(イプサ)、化粧水(イプサ)を持って。

家族が死んだ日にサウナ行ったことある人ってそんな多くないだろうな、って思いながら電車で2駅。
いつものサウナ、アムザです。

鍵番号はいつもの100番。

いつもの館内、いつもの料金、アムザはこんな祖母不幸者も暖かく迎えてくれた。

いつものルーティン。ガッツリ体と髪を洗って洗顔。炭酸風呂に浸かって露天に行く。いつもの景色。
いつもと違うのはばあちゃんが死んだということだけ。

別に夜空見たからどうとかもないし(ネット張っててイマイチだしね)、嫁と娘から離れて一人になったのに感傷的になって涙が出ちゃうということもない。
思えば私はこれまでの31年間、身内の死に遭遇した事がない。そういう悲しみの経験がない。加えて最後に泣いたのは中学2年の時。当時の学年主任に胸ぐら掴まれてスネを蹴られながら怒られたあの日以来、一度たりとも泣いた事がない。


俺はマジで血も涙もない男なのか・・・?


そんなことを思いながら体を拭き、水分を補給し、サウナ室へ。
なんとそのタイミングでまさかのアウフグースタイム!ウヒョー!!!
心躍らせながら入室。空気の入れ替え、いつもの挨拶、この時間はミントの香りのアロマ水、それをまずは数杯かける、仰ぐ、またアロマ水をかける、仰ぐ・・・
1セット目からバチバチに体が熱くなって待望の水風呂へ。


きんもちいいいいぃぃぃぃぃ!!!!


蕩けそうになりながら、リクライニングチェアへ。
水風呂で冷え切った体、強く鼓動する心臓、ドクドク脈打つマイボディ、戻りゆく体温で気持ちよくなり意識が遠のく中で思い出したこと。そう、


ばあちゃん死んだんだった


熱波をくらい熱々の体の私、死んじゃって冷え冷えのばあちゃん
水風呂につかる私、ドライアイスに包まれているばあちゃん
ドクドク脈打つマイボディ、脈拍のないばあちゃん


涙流さず汗流す


これでいいんだ。きっとばあちゃんも悲しんで欲しいなんて思ってない。
孫がニコニコ楽しそうにしてるのが一番嬉しいはず。
とか思いながら、自分を納得させつつ水分補給。
水を飲みながら、もし自分が泣くとすればきっとばあちゃん死んだ時だろうな、って昔からずっと思ってたのに涙が出ないじゃん・・・ってかなりショックを覚えました。

そして運命の2セット目に。


泣きました


程よい暑さと静まり返ったサウナ室で、覚醒した頭の中から蘇る数々の記憶。


手を繋いで買い物に行ったこと。
母親に内緒で買ってもらったシゲキックス、コロコロコミック。
一緒にカルタをしたこと。
一緒にした塗り絵。
一緒に見た世界ふしぎ発見。
一緒に書いたのにイマイチわかんなくてハガキ出したのに届かなかった応募者全員サービス。
よろよろ歩くのに無理にショートカットしようとして転んだ時に怒鳴っちゃったこと。
先月の誕生日に何かしようと思ったのに「会った時でいいや」と先送りにしちゃったこと。

思い出せないくらいいろんなことが思い出されて泣いてしまいました。


汗は涙を流してくれる


多分誰も気づかなかったと思います。
時間にして14分。
涙は出るわ鼻水出るわ汗でるわ、身体中の水分がどんどん排出されて干からびるかと思いました。
どんだけ涙が出ても汗にしか見えないこの施設。きてよかったと思いました。
悲しみや辛さに直接向き合うのではなく、そういったものを自分の中に落とし、心の中で向き合うには最高の施設だと思います。
汗を流して、一緒にいろんなものが流れていったと思います。
残ったのはいい思い出と、感謝の気持ち。
こんな見送られかた望んでるかっていったらそりゃ会いにきて欲しいんでしょうけどこのご時世仕方ないです。ばあちゃんごめん。
そんな気持ちで今日は2セットだけと決めてサウナ室を出る。

めちゃくちゃ悲しい気持ちになりながら入る水風呂、外気浴。
それでもやっぱりサウナは気持ちいいです。

外気浴をしているとき、やっぱり少し泣きました。

もう会えないんだ、触れられないんだって思うと悲しい気持ちになりました。
コロナ禍じゃなければ当然帰省して葬儀に出るのですが、このご時世最後に会うこともできず、ただ遠方で悲しい気持ちに浸るだけ。
初めてコロナを憎いと思いました。

水分を補給して、着替えて、時短の影響でやっていない飲食店を尻目に家路につく。

父親からのテレビ通話


「ばあちゃん見る〜?」


テレビ電話越しにヘラヘラする父と母。
実家に安置されているようで、しっかり見せてもらいました。
綺麗な顔してました。


こんなご時世だから身内が死んだ日にサウナに行きました。
普通はあんまりおすすめできないことだと思います。
きっとばあちゃんも普通に怒ってると思います。
去年までは週3でサウナに行ってましたが、娘の成長とともに回数が減る中、2週間ぶりくらいのサウナでした。
日常的なリラックスもですが、自分と向き合う最高の施設だと思います。
これからもサウナに通うし、これからも最高のサウナライフを送ります。


ばあちゃんの面倒を見てくれた施設の方々、他にもたくさんの方にお世話になりました。この場を借りてお礼申し上げます。
また、長々とまとまりのない文章にもかかわらず、ここまで読んでくださって本当にありがとうございます。

今回はあえて文章を見直すことなくひたすらに書き綴ってみましたので、変なところ多いと思いますごめんなさい。

次回以降は新規事業の話をしていきます。どのくらいの頻度になるのかわかりませんが、ぜひよろしくお願いいたします。


最後に。


ばあちゃんちでよく見たな〜って記憶に残ってるCM

最近妻とこのCMの話をしてて、虫の知らせというか、こういうのあるんだなって感じました。


ばあちゃん。
本当に本当に大好きです。
天国でじいちゃんと仲良くやってください。
当分会うことはないし、連絡もできないけど、
きちんとお墓参りするし、いつでも心の中にばあちゃんがいると信じてます。
「悪いことすんなよ」って口癖のように言われてたし、
今はもう父親なので悪いことはしません。安心してください。
俺が死んで、生まれ変わる事があったら、またばあちゃんの孫に生まれたいです。
俺が東京に出ていく時、帰省から東京に戻る時、悲しそうな顔させてごめんね。
施設に会いにいった時、「寂しいからみんなと暮らしたい」って言ってたのをさりげなく流したの、本当にごめん。きっとつらかったよね。本当に無力で情けない。最後に会えなかったこと、話せなかったこともごめん。
もう一回手を握りたいし、もう一回抱きしめてあげたいけど、それは70年くらい待っててね。
俺もばあちゃんに会いたいけど、まだ死ねないし、100歳まで生きたいから長いこと待たせるけど、待っててね。
色々辛いこともあったと思うし、本当にお疲れ様でした。
noteやらなきゃって思ってた矢先、こんなことになったのでネタにしてごめんなさい。
絶対に新事業を成功させて、いい報告をできるよう頑張るね。

今まで本当にありがとう。ずっと最愛のばあちゃんです。
天国で楽しく幸せに過ごせることを祈っています。

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