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『僕が愛したゴウスト』を読んで

扉を抜けると、そこは5分後の未来だった。


みなさんは、異世界に紛れ込んでしまった経験はあるだろうか?
僕には、ある。
正確には、幼心に「未来にきた」と、信じ込んでいたときの経験だけど。

小学1年生の頃だった気がする。
季節は正確に覚えていないのだが、薄着のわりには早々に陽が落ちて、赤とんぼが飛んでいたから、おそらく秋だったのだろう。

当時の景色や気温なんかより、「未来に到着した」と感じた瞬間の胸の高鳴りと、一抹の不安の方が鮮明に記憶に残っている。

近所に3つ年上のお姉さんが住んでいた。お姉さんは僕の同級生のお姉さんでもあり、僕の実のお姉さんの友人でもあったが、とにかく彼女は僕にとって3つ年上のお姉さんだった。
当時はちょくちょくお家にお邪魔していた。

詳しい経緯は覚えていないのだが、その日、僕はその3つ上のお姉さんと近所を散歩していた。
名古屋の下町には昔ながらの住宅が多く、トタン板の塀や、ひしゃげた屋根を携えた家屋が点在していた。

裏路地に入ると、そういった古びた家の存在は一層顕著になり、錆びた自転車や物干し竿など、生活臭がメタンガスのようにあたりに充満していた。


ふと、お姉さんが、とある扉の前に立ち止まった。
ドアノブ式の勝手口の扉だった。なんてことはない、ただの赤焦げた薄い木の扉だ。

「しょうくん、この扉には、絶対に何かあるよ」

お姉さんは大真面目だった。そう言われると、無垢な僕は「うん、うん」と信じ込んで、目を輝かせた。
なんの変哲もないただの扉が、途端にどこか異質な雰囲気を帯びているように見えた。

「きっと、5分後の未来に通じている扉だと思うんだ」

お姉さんは僕より3つ年上、つまり当時小学4年生だった。
年不相応にファンタジーに通じていたのだと思う。

僕は「えーっ!」と声をあげながらも、未来に行ったらどうなってしまうのだろう、と怖くなった。同時に、およそ自分にしか経験できないかもしれない目の前の機会に、胸が躍った。

「扉、通ってみようか」

お姉さんは僕の目を見て言った。
「え」と、僕は躊躇した。
扉は勝手口だったので、恐らくこの家に住んでいる見知らぬ誰かの中庭に通じているのだろう。怒られないかな、と率直に思った。

「大丈夫!私たちは中庭じゃなくて、未来に行くんだから」

小学一年生にとって、小学四年生の声ほど説得力のあるものはない。僕たちはドアノブを回し、扉を開いた。

扉をくぐり、中庭を抜けると、見慣れた路地に出た。
しかし、そこが5分後の未来だと「分かっていた」僕は、目に映るその世界に違和感を感じた。
どこか、ぎこちないのだ。

すでに夕暮れ時で、赤トンボの群れと、カラスの鳴き声が、赤く染められた空っぽの空に舞っていた。道行く人は、元の世界よりも、さらに見知らぬ人に思えた。世界に心がないように感じた。

「うしろは降り向いちゃダメ。過去の私たちがいるかもしれないから」

路地を少し進んで、お姉さんの家の前に戻ってきた。どこか、寒々とした佇まいだった。

僕たちはこの未来の世界において、「招かれざる客」だった。ここにいていいのだろうか。戻る手立てはあるのだろうか。早く戻らないと。僕は焦った。

「もとの世界に戻るには、どうしたらいいの?」
「こっちだよ」

お姉さんに手を引かれて、先ほどの扉に戻ってきた。幼いながらも、そうか、また、この扉を通ればいいのか、と早合点していたが、お姉さんの答えは予想外のものだった。


「この扉を、蹴り続けるの。5分間」


「えっ」

僕は、手を引くお姉さんを見上げた。お姉さんの目は好奇によって塗り固められていた。

それから僕たちは扉を蹴り続けた。

「この、扉めっ!」「こいつ!」「くたばれ!」「扉!この!」なんて叫びながら、二人して薄い木の扉を蹴り続けた。

「こらっ!」と住人の親父に怒鳴られた。

当然だろう。

僕たちはゴキブリのように一目散に逃げ出した。怒鳴られた驚きと、未来を旅した事実に、心臓はずっとバクバクしていた。

***

打海文三の『僕が愛したゴウスト』を読んだ。小学5年生の少年が事故を境に、それまでとはどこか違う世界に迷いこむお話。その世界に住む人々には、心がなくて、尻尾がある。


扉を抜けた日を境に、僕の世界がすっかり変わってしまった。

なんてことは一切ないのだが、お姉さんの中二病をしっかりと引き継いだのはこの日なのかもしれない。

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