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菊と刀~「恥」の文化と「罪」の文化

 アメリカの女性文化人類学者、ルース・ベネディクト氏は著書『菊と刀』において、日本文化を「恥の文化」として西洋の「罪の文化」に対比させた。ベネディクトは第二次世界大戦中に米国戦時情報局から日本研究の仕事を委嘱され、来日してから『菊と刀』を刊行した。
 ベネディクトは、恥の文化は他律的であり、自律的である罪の文化より道徳的価値において劣ると考えた。欧米では内面の良心を重視する(=罪の文化)のに対し、日本は世間体や外聞といった他人の視線を気にする(=恥の文化)と考察した。両者の違いは、行為に対する規範的規制の源が、内なる自己(良心)にあるか、自己の外側(世間)にあるかに基づいている。

 欧米ではなぜ内面の良心を重視する「罪の文化」が発展したのか。欧米はキリスト教文明であり、行動の規範に宗教の戒律が存在することに所以がある。彼らの心には常に神が存在しており、神に見られているという絶対的な規範の中で行動をしている。キリスト教の教えによると、神の戒律を守れば、心は清澄に保たれ一点の曇りもない状態になり、それに反したときに強い罪の意識を持つといわれている。つまり、彼らの心には常に神が存在しており、神に見られているという絶対的な規範の中で行動をしている。このことが罪の意識に繋がっている(神との約束を破ることが「罪」)のだ。このことをベネディクトは「罪の文化」と呼んでいる。

 一方、日本は多神教であり、神や仏の意識はそれほど強くない。そのため、人々の評価の矛先は世間の目に向かっていく。「他人に笑われたくない」「恥をかきたくない」といった気持ちが、日本人の行動を規定している。正しいかどうかで行動を決めるのではなく、「世間」がそれをどう思うかで自分の行動を決めているとし、ベネディクトはこれを「恥の文化」と分析した。災害時にも関わらず、物品を支給される際も暴動など起こすこともなく、きれいに列をなして自分の順番を待つ日本人の姿が海外からも賞賛されている。これらの規律を守った行動の裏側には日本人の「恥の文化」がある。

 哲学者の梅原猛氏は、ベネディクトが言うところの日本人の「恥の文化」は「武士道」と関係があることは否定できないと言っている。武士の道徳を描く「忠臣蔵」。これは「忠臣蔵」は単なる娯楽作品ではなく、多くの日本人に道徳を教えた。その道徳は、表面上は忠義であったが、内面は恥を知る心であったと指摘している。

 梅原猛氏によると次のように考えられる。
 登場人物の吉良上野介は、浅野内匠頭は、赤穂四十七士は「恥」を知っていた。吉良上野介はどうして浅野内匠頭を激しく罵ったのか。勅使の接待を司る最高責任者である吉良上野介は、田舎大名(浅野内匠頭)の不手際によって恥をかくことを恐れたからだ。そして浅野内匠頭はどうして吉良上野介を松の廊下で斬りつけたのか。それは、田舎大名とはいえ立派な大名である彼が吉良上野介ごとき者に辱められ、恥をかいたからである。また、大石内蔵助率いる浅野内匠頭の家臣たちがどうして艱難辛苦の末に吉良上野介を殺して仇討ちを果たしたのか。それは、彼らが主君の恨みを晴らせない恥知らずの武士と思われることに耐えられなかったからである。四十七士こそまさに恥を知る忠臣であった。このように武士の社会は、恥を知る心によってその秩序が保たれていたと、梅原氏はベネディクトの「恥の文化」を説明した。

 明治維新以降、主君に対する忠義の道徳は、天皇に対する忠誠の道徳に変わったが、戦後、そのような道徳は封建時代のものとして否定され、恥を知る心も次第に薄れつつあるように思われる。「恥の文化」が存在している限り、人目を気にするだけ秩序は保たれることになるが、日本人が「恥」をなくし、「恥」を感じなくなれば、秩序のない時代に突入することが考えられる。いや、もしかしたら手遅れなのかもしれない。「恥ずかしいか、恥ずかしくないか」から「正しいか、正しくないか」に移行すれば良いが、「自分の欲求を満たすか満たさないか」という自分の欲求を基準に行動を決定するような「欲の文化」に移行する危険がある。

 携帯用カメラが普及し、いつでも誰でも写真や動画が取れるようになり、あっという間にSNSで他人に情報提供ができる便利な時代に入った一方、それらの行動が個人の責任に任されることになり、個人の道徳観や倫理観がよりいっそう重視されることになった。コンビニや回転寿司屋で簡単に商品にいたずらをしたり、人の嫌がるような画像を投稿して楽しんでいる行為は「罪」の意識も「恥」の意識もなく、「自分は有名になりたい」という我欲を基準に行われているようで、日本がこのような「欲の文化」に移行していくのではないかいう危惧がある。

 ベネディクトの『菊と刀』には日本古来の階層社会が創り出した道徳観が「恩」と「義理」であるということも書いてある。日本では、これらの意識も最近では少しずつ薄れつつあるが、日本のよき伝統として「恥の文化」とともに守っていかなければならない。

 「恥の文化」と「罪の文化」を比較してみると、日本がもつ特有の性質がはっきりと見えてくる。世間体を気にする「恥の文化」はまるで悪行かのように扱われているものの、換言すれば、日本人のもつ心の美しさを表しているといえるのではないか。但し、グローバルな視点に立った時、「恥の文化」の度が過ぎ、自己表現の妨げになってしまう一面も持つ。「恥」に内包される美徳は、「思いやり」と「わかりにくさ」の紙一重で脆いものだ。日本人に根付いた「恥の文化」について、もう一度肯定的に見直すことが大切なのではないだろうか。

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