宇佐見りん「かか」読了

中上健次作品集を読み進めているので、ここいらで中上フォロワーの作家さんも読んでみようと思い、以前から気になっていた、というか、途中まで読んで頓挫していた(そんな分量じゃないのですよ、100ページちょいなので)宇佐見りんさんの「かか」を読んだ。

こう、本を読むこと自体は好き、だけど長時間文字を読む耐性はまだそこまでない、という自分にとって、中上健次の作品が良い練習台(失礼だ)となって、リベンジ読みは一気読みとなった。

「かか」は主人公の”信仰”が主題で、芥川賞を獲った「推し、燃ゆ」も推し=信仰と捉えればおそらくそういう主題を含んでるのだと思う(まだ読んでません!)
そして、信仰の中には、自覚のある”推し”と、無自覚の精神的な”拠り所”が、人にはあると思う。

「別に推しとか、私はないです」という認識を持っている人でも、自分が生きていく中で、寄り添ってしまうもの、寄りかかってしまうもの、信じてしまうものがあるだろう。
そして、それは無自覚であることも多く、人から指摘されて初めて分かったり、あるいは自己に対する好奇、探求を重ねて行く中でそう言った気づきがあったりする、とも思う。

本作は後者、母親”かか”と自分”うーちゃん”の不可分性、そしてそこに紐づく母親への信仰を、”熊野”へ向かう道中の回想の中で、”気づく”というより”取り戻す”ような物語である。

”うーちゃん”は、信仰に初めて”気づく”というわけではない。
この物語は”うーちゃん”が”かか”に対する信仰を疑い始める立ち位置から始まる。そして”うーちゃん”が、”身内”の痛みを共有してしまう、という描写がある。それは、決して『血縁だから』というわけではなく、あくまで”他者の存在を自分の身体に取り込んでしまった”ときだけである。従姉の明子に対しても(瞬間的に)あり、”かか”に対してもそう。

本作は”うーちゃん”の、無自覚であった”かか”への信仰に対する懐疑、乖離、そして再検証の物語である。
そしてその、自分に備わった(なんていうんだろう)”共感性痛覚”のありようは”うーちゃん”にとって、”あん時”の”かか”の痛みを振り返る重要な手立てとなる。

痛みだけでなく、匂いや光陰、温度・湿度、血の流れや触感など、鮮やかに互換に訴えかけられるような描写が数多あり、勢いに乗って読んでしまえるけど、おそらく読んで行く中で受ける爪痕は深い。

それは自分の感性を信じて描き切れる勇気と胆力の賜物なのだと思う。

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