読書感想文|「笹塚居候日記」(燈)|Part1 卯月
※この投稿はネタバレを含みます。
ただ、ノンフィクションであるため、ネタバレされた後だからこそ気づくことのできる著者の言葉の表現や感性もあると思うので、これを読んで良いと思った方はぜひ読んでみていただきたいです!
(どこまでも本当の思いで、どこまでも感想を綴りたいと思わされた書籍です。)
この書籍は2023年4月1日〜12月4日の燈さんの、笹塚に住む大学の同じサークルの先輩の家に居候したノンフィクション
前書き、一章、二章…のように、前書き、卯月、皐月…と月毎に書かれている。それに合わせて感想を書きたい。
以下、投稿本文内の太字は、書籍の本文を抜粋したものです。
前書き
表紙をめくると、見開きに思い出の写真が散りばめられている。
その写真は二人で撮った写真などではくて、おそらく笹塚なのか、"まち"の風景写真ばかり。大通りで撮った青空、通りがかりの花屋の花、居酒屋の店前など。
一つ前の投稿に書いたが、本と同封され届いたメッセージに書かれてたように、ふとした日常の中の幸せを大切にされているのを感じた。本文に入る前に、その写真を見ることで、なんとなく日記とはいえ内容の雰囲気や著者の世界観に入ることができた。
私はメディア関係の仕事をしているので、事件や事故の現場に行くこともある。いつ何が起こるかわからない、命の尊さを知っている。だから日常は当たり前ではないと思いながら生活している。ただそれは、この仕事をしてから思い知らされたことであるから、大学生のうちにそうした感性があることに尊敬する。
次のページをめくると
(どこまでも本当の出来事で、どこまでも脚色された創作です。)
と記されている。
さらに次のページをめくると本文が始まる。書き出しは
「サークルで1番話が合うから、大学卒業する前に飲みに行きたい」
きっとこの物語は、こんな一通の連絡から始まったのだと思う。
(一行の間)
先輩は料理が上手だ。・・・
(一行の間)
お兄ちゃんのような存在でした。
(一行の間)
・・・毎日通ったこの道が、笹塚というまちの好きなところ。
この絶妙な一行の間の使い方。
先輩のセリフから始まり、まるで家族であるかのように近い関係。
そんなのすぐに察した。これは自分の恋心を記したものだろうと。
先輩に言われた嬉しい言葉から始まるが、「きっと」とややうろ覚えな感じからこの時はまだ”気になっていた”あるいは”憧れだった”程度であることもうかがえる。
この本の魅力はそういうところなんです。女子大学生の純粋な恋心が記された書籍で、それも自らが書いているノンフィクション。このようなちょっと運命的なお誘いから居候生活へと繋がるから、大学生(思春期を通り越し恋心は成熟している、一方、まだ社会に出ていないからこその純粋な心の持ち主)の燈さんにとってはきっとものすごく生きた証としてこの世のどこかにアウトプットしたかったのだろう。それを自費出版の書籍という手段を選び、内容を日記形式にすることで、日常は当たり前ではないという思い、先輩を好きになれたことの喜ばしさのようなものが伝わってきて、それを自らの言葉で表現していて、その言葉表現に純粋な恋心がおそらく無意識のまま表れている。だからこの本は面白い。尊敬の念も覚える。
私の中では、芥川賞や直木賞の小説も読んだことあるけれど、こっちの方が好き。また違った面白さを感じる。やっぱり素敵な感性、純粋な心の持ち主であることが言葉表現に出ている点に魅力を感じる。
燈さんは、単に先輩という人物との思い出を綴っているのではなく、笹塚という”まち”での思い出を綴っている。
言い換えると
単に心に残っている「未練」ではなくて、場所に宿っている「思い出」を綴っている。だから、これまた大人らしさ、自立した恋心のようなものが感じられる。
この前書きの最後の一文
どれだけの期間暮らすことで、心身ともに、そのまちの住人になれるのでしょうか。
なぜ彼女が心ではなく場所に対する思いを文章として綴ることができたのか。
なぜ町でも街でもなく”まち”と私が記しているのか。これは最後に分かる。
前書き部分だけでこれだけ感想書いちゃった。ここから先、簡潔にまとめようと思いますが、超超超長文になっていましたらすみません(涙)
卯月
2023年4月1日の真夜中、正確には2日。3月末まで働いていたアルバイト先の方と飲みに行っていた先輩を、終電がなく車で迎えに行くところから始まる。
ありがちな恋愛体験談ではなく、何度も繰り返しになるが、日常への思いや”まち”への思いが綴られた文章だからこそ、車がタイムズカーシェアであること、スマホ一つでいつでも借りられて便利だなということも記されている。それがいい。
都心の道は車線が多く、雨も降っていて視界不良だったから道を間違えてしまった。
道の間違いに気付いた先輩は、
「真夜中ドライブが始まったね」
なんて言って笑う。雨はいつの間にか止んでいた。
先輩のポジティブさ、私も惚れた。素敵すぎる。
そしていつの間にか雨が止んでいるなんて、間違えてしまったけれど許してもらえて、なおかつ先輩との真夜中ドライブが始まったことへの明るい気持ちがうかがえる。きっと燈さんはこの時笑顔になったんだろうなと勝手ながら想像してしまう。
これが俗にいう”エモい”というやつなのか。
2年目の大学生活が始まるのと同時に、こうして居候生活が始まった。
こんな素敵な方と大学で同じサークルになれたのに、1年しか被らないなんて。
けれど先輩が卒業後にこうして再会どころか居候させてもらうなんて。
ノンフィクションだとは思えない。けれどノンフィクションなら確かに書き綴りたいよね。
先輩の家には自分の小さな本棚を持ち込んだ。
可愛い子には旅をさせよっていう諺は、可愛い子には本を持って旅をさせよ、に修正した方がいいと思う。
単に本が好きということが伝わるのはもちろん、先輩と過ごす自分を”可愛い子”に自ら当てはめているところに可愛らしい恋心を感じる。諺を修正すべきだという無茶振りなところにこそ、先輩に恋する私は可愛いんだぞといった、これまた可愛らしい恋心を感じる。(あくまでも私の捉え方なので許してください!!)
この一文には蛍光ペンをひいた。
その直後に
可愛い子には本と●●●●●を持って旅させよ、に訂正しておこう。
と書かれているが(笑)
居候や同棲を始めた頃は、どんなに親しい間柄でも価値観の違いからトラブルが生じ得る。先輩から怒られたこと、そこで感じた自分の反省の思いなども素直に書かれている。燈さんの性格の良さ、素直さ、先輩への愛や尊敬、憧れから身近な存在への移り変わり、それに伴う心情の変化も伝わってくる。
先輩に叱られた翌日、自分の中で先輩へ約束事を決め、メモ帳に記載したという。
尊すぎる。もし自分が先輩側ならば、こんなに良い子と居候できて嬉しく思う。
4月から始めた笹塚の近くのアルバイト。そこは焼酎が豊富の居酒屋。
お茶ハイにもハイボールにも酎ハイを入れてしまいそうになるという。
焼酎の豊富さを物語っているつもりかもしれないが、先述通り大人らしさを感じていた燈さんの大学生らしさが垣間見ることができた。けれど、サークルなどの飲み会ではなくて焼酎が豊富なアルバイト先という舞台から酒との距離感を感じさせてくれるところに品の良さも感じる。
また、どうやら賄いが出ることが楽しみだという。ところどころ見える大学生なピュアな要素が尊い。
これは感想ではなく燈さんに伝えたいことですが…
笹塚に引っ越すことを特に周囲に伝えなかったこと、その理由、鮮明に書いてありますね。私は逆で、数は多くないが心から信頼できる友達がいるはずなのに、自分の居場所を伝えたくなってしまうタイプだ。多分、引っ越すならばその旨をインスタのストーリーにでも載せるかもしれない。自分で寂しがり屋だとは思ってはいないけれど、周りに伝えなくていいやと思えるところに芯の強さを感じる。そして、本当に身近な人を大切にしていて信頼しているんだなというのも感じる。
もう私が勝手に良いふうに捉えた妄想や想像の範囲かもしれないですけれど、それはそういう思考にさせられる、そういう印象を受けとったということ。
大変恐縮ながら、感性や価値観というものが、私とすごく似ている気がする。
もちろん言葉での表現や伝え方は異なるけれど。
なんか同じタイプの方というか。ビビッとくる感じ。第六感的な。
ちょっとわけのわからないことを書かせてください。燈さんなら伝わりそう。
本文にもありましたが、地元の友達っていいですよね。地元の友達とカラオケっていいですよね。
私は「キセキ」「小さな恋の歌」とかかな。
「星になれたら」
書籍全体通して感じましたが、星や月がお好きなんですね。
(月とリンクさせた心情の表現が豊かで、それは本編と別に最後にまとめたい)
正確にはカラオケではなくて、もう一度みんなで大きな声で合唱したいってことなのかな。
カラオケというのは、集客のために採点機能があるんだと思う。地元の友達同士、職場の方同士、恋人同士、どのような組み合わせでも来れるように。もし採点機能がなかったら、主となるのは地元の友達同士だけな気がする。ただそれだと、地元の友達同士ってお金のある大人たちは安易に会えないから、集客要素として採点機能があるのかな。
遊びだったりストレス解消だったり、カラオケに来る理由もさまざまあるけれど
共通しているのは現実逃避をしたいということだと思う。大人になって忘れていた子ども心や子どもの時の思い出に、曲を選んで声を発するだけで浸れる。
地元の友達同士だと、懐かしい曲を歌うこともあるでしょ。歌う側、聴く側がはっきりとは分かれない。マイク持っていなくても勝手に一緒に歌ったり笑顔になれたりする。
職場の方同士だと、お酒飲んだ後にさらに現実逃避をしたくて行くだけ。あえてはっきり書くと、一緒に歌うことはない。それぞれが自分の世界に。歌う側、聞く側とはっきり分かれる。心は満たされない。
(「聴く」と「聞く」、そこも違う)
あ、恋人同士での場合は、お互いを知りたいから、お互いの歌ってきた曲を知りたいから、お互いの歌声を聴きたいから、と特殊だと思う。けれど、お互い(何を歌えるか等)を知った果てには一緒に歌いたくなる。合唱したくなる。
もちろん、あくまでも私の感性に基づくものであります。また、意見のようなものでもあるので、異なる意見をお持ちで納得はできなくとも、この考え方や変態的感性そのものは理解していただけるような気がするんですよね!!
ここまでおよそ4300字。原稿用紙11枚弱。長っ!まだ卯月
一旦ここで公開します!
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