_きみだれ_書影_枠なし_

「精神が変わった」羽田圭介さんも絶賛!『きみはだれかのどうでもいい人』(伊藤朱里著)試し読み #4

「きみだれ」書影(枠付き)


特別掲載『きみはだれかのどうでもいい人』第1章 ためし読み #4


 実家に戻ったばかりのころ、一度、妹の部屋に入ったことがある。  
 わたしがいない隙を縫って、妹は無人になったわたしの部屋に自分の不用品を移動させていた。昔の教科書とか、好きなアイドルの出演番組を撮りためたDVDの山とか、ほとんど使った様子のない美容器具とか。文句を言おうと思ってノックしても返事はなく、ドアを開けると本人は出かけていた。  まず目を引いたのは、まっピンクのレースのカーテンだった。  
 お互いにひとり部屋をもらって以来、わたしたちはカーテンも学習机もベッドも本棚も、姉妹でお揃いのものを使っていたはずだった。それなのに、たった二年で妹の部屋は様変わりしていた。小学生から使っていた机はフランフランのパソコンデスクになっていて、ベッドシーツや布団カバーもピンクがかったものに買い替えられ、ハートの形の赤いクッションがその上にひとつ転がっていた。わたしの部屋と隣り合った壁際には色とりどりのカラーボックスが組まれ、ポエティックな題名の恋愛小説やこれ見よがしな美術系の参考書、アクセサリー立てやお菓子を模したキャンドルなんかが並んでいた。中でもスペースを占めていたのはCDやDVDに囲まれた巨大なステレオコンポで、それはひとり暮らしのわたしが使っていたテレビくらいのサイズだった。そしてベッドの上の天井とかドアの裏側とか、いたるところに画鋲で男性アイドルのポスターが貼られていた。  
 そのまま部屋を出て、移されていた妹のものを自分の不用品ごと一掃した。母からわたしの伝言を聞いた妹は、黙ってどうでもよさそうにうなずいたらしい。  
 あのどぎつい部屋、場末のラブホテルと安手のカラオケビデオに出てくる頭の悪い女の子の部屋と実用性皆無のインテリア雑誌の切り抜きをごちゃまぜにしたような空間を作るために、妹はどれくらいお金をかけたんだろう。一介のサラリーマンである父の、いまだに学習塾でパートを続ける母の。もちろん本人の支出もあるかもしれない、雀の涙ほどのバイト代と、わたしが倹約したぶん彼女に回されたお小遣いと。  
 でも、趣味自体を否定はしない。沙穂の場合はちょっとやりすぎだけど、わたしだってピンクやレースは好きだ。初めてのひとり暮らしのために女性向けのインテリアショップを巡ったときの高揚感、ずっと好きなもので囲まれていたいというあのときめきはいまも忘れていないし、忘れたら、おしまいだとすら思っている。  
 あの女のようには、絶対になりたくない。
「女を売りにしなくてもやっていけるように、もっと大人になりなさい」  
 それが、わたしのかつての上司、たった一年半でわたしを地方に飛ばした張本人である、あの女の口癖だった。わたしが自分のために大事にしていた、ささやかだけどいろいろなもの。高校時代に友達と穴を開けたその足で買いに行ったピアス、初任給で手に入れた花柄のスカート、ボーナスでプロにやってもらったネイル。そんなものたちを「売り物」としてひとつひとつ丹念にあげつらい、値切りに値切ってゼロまで貶め、とうとうわたしが耐えかねて自分からそれを手放すのを待つのが彼女のお決まりの手口だった。  
 もちろんわたしだって、赤信号だとわかっていて道路を突っ切るような真似はしない。少し気分を上げて働くためにみんなやっている、その程度のささやかなことばかりだったはずだ。でも、少し髪を巻いてみたり控えめに香水をつけたりしただけで、必ずあの女に勘付かれた。溜息をつかれ、それまでどんな仕事をしていても「もういいわ」と取り上げられて、その日は以降、あからさまにお茶汲みや電話番といった雑用しかやらせてもらえなかった。
「この仕事に就いた以上、ひとりひとりが組織の顔なの。どう見られているか自覚を持ちなさい。一度ついたイメージは、なかなか取り返しがつかないんだから」  
 その言い方で、本人がどう世の中を見ているかが明白だった。わたしだってそれまでの人生で何度か役所に足を運んだことはあったけど、窓口の人の服装や髪型なんか気にしたことがない。なんだったら金髪にサングラスで応対をされたって、仕事ぶりさえまともであればどうでもよかった。  
 みんな同情してくれたけど、面と向かって異を唱えてくれるほど勇敢な人はいなかった。わたしは偉くなる、が口癖の彼女をだれもが遠巻きにしていて、本人だけはそれを敬意の表れであると信じていたらしい。実際には、文句の言いすぎで左右非対称に歪んだ彼女の顔を、みんな陰で失敗した福笑いに喩えてバカにしていた。他にも、資料の不備を注意されているとき服からナフタリン臭がしたとか、部下のミスを追及しながら吊り上がる眉が三十年前の角度のままだとか、さんざんな言われようだった。どうしてこれまで、だれも指摘してあげなかったんだろう。そんな疑問は、もちろん口に出すまでもなかった。
「だって『そんなの仕事と関係ないでしょ!』って逆ギレされるのが目に見えてるもん。ああいうタイプってすぐヒステリー起こしてものとか投げてきそうじゃん」  
 そんな日々が一年近く続いたころ、わたしはちょうど彼氏と別れた。  
 相手に新しい好きな人ができたという理由で、わたしはまったく動揺せずにその申し出を受け入れた。もともと会う回数が減ることに比例して興味も失せていたし、学生時代に勢いで付き合いだしてなんとなく続いていただけだったので、ちょうどいいきっかけだとありがたく感じたくらいだ。自分で切り出しておきながら彼はこちらの反応の薄さに釈然としなかった様子で、別れ際、わたしの顔をまじまじと見つめながらこうつぶやいた。
「なんか働きだしてから丸み失せたよね。かわいげっていうか、華みたいなのが」  
 そのときはなにも感じなかった。でも次の週末、履き潰した仕事用のパンプスの代わりを買いに行った地元のショッピングモールで、ついでに洋服でも買おうとあたりを見渡した瞬間に異変に気がついた。どの店のマネキンを見ても、鮮やかなビタミンカラーも女性らしい曲線的なシルエットも、これまでみたいに優しく誘惑してはくれなかった。それらを着こなしている自分自身の姿を、わたしはまったく想像さえできなくなっていた。  
 愕然としつつ歩き疲れるまでふらふらと徘徊し、途方に暮れながら偶然足を止めたのが、子供のころによく通っていたファンシーショップの前だった。  
 いつしか茶色や黒ばかりになっていた自分の持ち物に、わたしは拒食症だった女の子がリハビリでお粥を食べるように、慎重に淡いピンクを混ぜていった。シャープペンシル、メモパッド、手帳。でも年甲斐がないと陰で笑われるのは嫌だから、だれかの視線を少しでも察知したら「妹が好きなので」と照れてみせる。違和感がないうちは青信号。面と向かって笑われたら、ギリギリセーフの黄色信号。  
 客観的でありたい。あの女のようにはなりたくない。人の話に聞く耳を持たず、頑なに自分のやり方しか認めないから、どんどん時代から外れて孤独になっていくんだ。かわいそうな女。男になりそこねただけならまだしも、いまさら女にも戻れない。だから意地になって同じ生き方を人にも強要せずにいられない、呪われた女の化石。  
 ──すぐヒステリー起こしてものとか投げてきそうじゃん。  
 わたしは須藤さんにヒステリーを起こしたわけじゃないし、ものを投げてもいない。
「あら、おかえり。きょうはちょっと早いのね」  
 帰宅してすぐ部屋に戻ろうとしたら、階段を下りてきた母と鉢合わせした。
「頭が痛いからもう寝る。ごはんいらないから」
「大丈夫? 風邪かしら。あしたは休めるの?」  
 自分のほうが痛そうに眉をひそめる、芝居がかった仕草に食傷する。そんなことできるわけないじゃん、と答えると、瞼にたかる虫でも払うように「なんで?」とまばたきをされた。無言で母を押しのけ、階段を上り終えたあたりでまたドア越しに音楽が聞こえた。  
 いつもと違って、妹の歌声は聞こえない。でもそのぶんいつもより大きいボリュームで、まるでなにかの腹いせか八つ当たりみたいに、沙穂は甘ったるい音楽を廊下まで響かせている。母がさっきまで妹の部屋にいたことに、そのとき気がついた。  
 ノックで黙らせようと手を上げかけて、やめた。  
 自分の部屋に戻った。どうせまた出て行く場所だと思って、家具はほとんど買い替えていない。ブルーの遮光カーテン、子供のころカッターで傷をつけてしまった学習机。ベッドには、十年以上使ってくたくたになった毛布が敷かれている。コートもストッキングも脱がないままそこにうつ伏せに横たわると、低いベースやドラムの音が蛇のように地を這ってここまで届いてきた。毛布の裾をたぐり寄せ、耳を頭ごとすっぽりと覆う。昔、歌の練習をしたときにそうしていたみたいに。  
 妹はいつまでああやって、頭がからっぽでも受け入れられるような軽薄な音楽だけを聴いているつもりなんだろう。ごちゃごちゃとモノに溢れた部屋で、都合の悪いことには耳をふさいで。まだ親から説教してもらえるうちに、あの癖は早く治したほうがいいのに。もしかしたら、もう手遅れなのかもしれない。  

 次の日も、黒いヘアゴムはやっぱり見つからなかった。わたしはきのうと同じウールのシュシュで、きのうよりも髪を少しだけ高い位置でまとめて出勤した。  
 いつもよりさらに一本早い電車で事務所に着くと、席には須藤さんと課長のふたりが座っていた。朝早く来てそのぶん残業を避けている課長はともかく、パートやアルバイトの職員は就業開始がわたしたちより三十分遅いはずなのに。
「おはようございます」
「……お、おはようございます」  
 こっちがせっかく平静を装って挨拶したのに、須藤さんはびくんと肩を震わせ、蚊の鳴くような声で同じ言葉を返してきた。事情を知らない課長の前で挙動不審にならないでほしい、と思いながら席につくと、机の表面がかすかに湿って艶を帯びている。水拭きをした直後らしいとすぐにわかったし、状況から考えればだれがやったのかも察しがついた。でも気がついたとたん石でも飲まされたように胃が重く感じて、そのまま知らん顔をして始業の準備にとりかかった。
「あのタレントもさあ、昔はいい男だったけどもう見る影もないわねえ」  
 デリカシーのない田邊さんがきのうのことを蒸し返すんじゃないかとひやひやしていたけど、彼女が出勤するなり真っ先に口にしたのは昨夜のテレビに出ていたという芸能人の話題だった。年末年始が近くて機嫌がよかったのか、彼女は珍しくみずから須藤さんに話しかけたりかいがいしく仕事を教えたりしていて、須藤さんは須藤さんでいつもそっけなかった先輩の気まぐれがよほど嬉しいらしく、トイレまでいそいそと後を追うほどだった(わたしとふたりきりになりたくなかったのかもしれない)。  
 わたしはといえば午後から窓口当番だったので、定時までは来客の対応や取り次ぎに追われていた。やっと須藤さんの存在──というより不在に気がついたのは、待合スペースに人がいなくなったことを確認して席に戻り、田邊さんが急いで机を片付けているのを目にしたときだった。
「須藤さん、いないですね」  
 いつもの自動販売機ではないことはわかっていた。ずっと正面玄関の見える窓口にいたから、須藤さんが来れば嫌でも視界に入る。
「んー? ああ、そうねえ」  
 田邊さんは周囲を見回し、気もそぞろといった様子で相槌を打った。一緒にいたんじゃないんですか、と言いたいのをぐっと我慢する。
「書庫にでもいるんでしょうか。なにかご存じですか?」  
 さあー、と平板に答えた田邊さんが、ふいにきらっと目を光らせた。
「きのうのこと気にしてたし、トイレかどっかで落ち込んでるのかもよ?」  浮足立つ気分とは裏腹に、比較的平和な一日だった。催告状を握ってだれかが怒鳴り込んでくることも、ローカルニュースで老女の自殺が報じられることもなかった。それだけに、きのうのこと、という田邊さんの言葉は静かなフロアにひときわよく響き、席で黙々と仕事をする課長の耳にも届いたのは明らかだった。  
 言うだけ言って田邊さんはノートパソコンをぱたんと閉じ、お疲れー、と去っていった。彼女からすれば早く帰りたい一心で、深い意味はなかったんだろう。それでも少しのあいだ、わたしは膝の上に石を乗せる拷問でも受けているみたいに座ったまま動けなかった。  
 しばらく経ってから、ブランケットを払いのけて重たい腰を持ち上げた。  一階の女子トイレはこのおんぼろの庁舎で唯一、来訪者もよく使うから、という理由で少ない予算を割いてリフォームが入った場所だ。ただ個室も洗面台もふたつずつという狭さは変えられないから、たとえ姿は見えなくても気配まではごまかせない。染川さんは休職前、よく奥の個室にこもって絶えず水を流すことで嗚咽を隠していたらしい。もちろん田邊さんの情報だ。その前は地下の書庫が「お気に入り」だったという補足も含めて。
「あそこお化けが出るよ、って教えてあげたら、さすがにやめたみたいだけどねー」  
 冗談か本気か知らないけど、どちらにせよ、どうでもいい話だった。  
 手前側の個室のドアは開いていた。奥のほうからは水を流す音がする。とりあえず備え付けの棚から自分のポーチを取って、なんの気なしに鏡を確認した。  
 きのうメイクを落とさずに寝てしまったせいか、いつもはファンデーションで隠せているクマやそばかすが浮き上がって見えた。前髪は脂っぽく束になり、昼休みにビューラーで上げ直したはずのまつ毛もとっくにうなだれている。とりわけひどいのは口元だ。法令線はくっきり出て、唇は乾燥で荒れている。口角はへの字に下がり、しかもその下がり方は妙に左右が不揃いで、半径一キロ以内にあるものすべてに不満を言いだしそうだった。  
 やべーババア、と思わずつぶやきかけ、その台詞があまりにも顔にハマっていて慌てて飲み込んだ。ポーチからリップクリームを出して、また鏡を覗く。  
 背後でドアが開き、疲れきった顔のうしろから須藤さんが姿を現した。  
 赤くなった顔をハンカチで押さえた彼女と、鏡越しに目が合った。その目尻のひきつり、口元のこわばり、電気を流されたように跳び上がった体の震え、すべてが映画のフィルムをひとコマずつ見るように鏡で確認できた。  メイク直しに集中しているふりをして、わたしは振り返らずに言った。
「お疲れさまです」
「あ、す……ごめんなさい。お疲れさまです」  
 わたしが叱ったせいか、須藤さんは「すみません」という言葉を口にしない。ごめんなさいを禁じたら「申し訳ありません」と言うんだろう。それも封じられたらどうするんだろう、似たような言い替えを続けたあげく、また「すみません」に戻るんだろうか。ぐるぐるぐるぐる、肝腎なことから目を逸らしながら同じところを巡りつづけて。  
 リップを直し、ビューラーを使い、目薬を差し、パウダーを重ね、やることがなくなって前髪に櫛を入れる。そのあいだずっと、隣で須藤さんはうつむき加減に手を洗っていた。指や爪のあいだまで液状石鹸を泡立て、流した水滴を拭い、そうしながら動こうとしない。ハンカチをこねくり回すせいで、一度乾いた手がまた湿ってしまいそうだった。
「……あの、中沢さん。お願いが、あるんです」
「わたしにですか」
「はい。……わたしなんかが、おこがましいのですが」  
 ついに意を決したように、須藤さんはわたしのほうを向いて話しはじめた。  
 この人がこんなに長いセンテンスでしゃべるのは新記録だな、と思った。図々しくてごめんなさい、とか、みなさんの前ではなかなか、とかいう長い言い訳のあいだに、わたしは次の台詞を予想する。業務内容の改善、人間関係への愚痴。あるいは──きのうの態度について、理不尽だと指摘されるのがもっともありうる。  
 そりゃあ須藤さんにとっては、切り出すまでに時間がかかる内容だろう。いっそ本音を口にしてくれたほうがこっちだって気楽だし、挽回のしようもある。覚悟を決めてうなずき、正面から彼女に向かい合った。
「いいですよ。なんでも言ってください」
「ありがとう、ございます。えっと、染川さんのことなんです」
「……はい?」
「あの、どうか、悪く思わないであげてください」
「や、待ってください。わたしがいつ染川さんを悪く言いました?」
「染川さんの代わりに、同期の中沢さんが、わざわざ出世コースから外れてこちらにいらしたこと、伺いました」  
 ポニーテールの結び目が熱くなった。小さいころ妹と喧嘩して、癇癪を起こした彼女に髪を引っ張られて涙が出たときの感覚が十年以上ぶりに蘇る。泣きたくなんかないのに、涙腺だけが勝手に震えてしまうあの感じ。  
 採用されて三か月経ってもいっこうに職場になじまないし仕事も覚えない、こんな人に、どうしてそんなこと、よりによって。
「染川さんがそう言ったんですか?」  
 幼い仕草で首が振られると、こけしのように短い髪がばらばらと揺れた。  いつのまに、ふたりはそんなに仲良くなったんだろう。仕事に直接関係ないことはだいたい総務で面倒を見ているから、その縁かもしれない。でも、どうだっていい。
「染川さん、優しい人なんです」
「知ってますよ」
「そうですよね!」  
 あからさまに冷たく言ったのに、須藤さんはぱっと顔を輝かせた。  
 自分はあんなに傷つきやすいくせに、どうして人の言葉になると表面しか受け取らないんだろう。誤字脱字も一言一句直さないままタイピングされた、彼女の入力したデータのことを思い出す。仕事が難しすぎるとか、わたしも含めたまわりの人間が苦手だとか、文句をぶつけられたほうがまだマシだった。世界中の人間の口角が疲弊とストレスと不平不満でどん底まで下がっても、きっとこの人は自分だけ微笑んでいるつもりに違いない。
「中沢さんは、優秀ですし、お若いから、きっと、また、すぐに望みの部署に行けます。わたしが保証したって、あてになりませんけど……どうぞ、染川さんと、仲良くしてあげてください。彼女も、中沢さんに、申し訳なく、思っているはずです」
「……どうして、須藤さんがそんなことを気にされるんですか」  
 本当は、そんなの別に聞きたくない。  
 否定されることを恐れてあらかじめ自己卑下で心を閉ざして、自分こそが被害者だっていう顔で、そうされる相手の迷惑なんか考えもしない、そのくせ自分自身の面倒さえろくに見られない、そんなあなたがどうして人を庇えると思ったんですか?
「その、ご病気だったんですよね、染川さん。わかるんです、わたしも、あの、つらかった時期が、あって。染川さん、わたしより頭がよくて、心配りのできる方ですから、よけいにいま、気を回されて、疲れも溜まっていらっしゃると思うんです。同い年の中沢さんが仲良くしてさしあげると、きっと、心強いんじゃないかなって」  
 櫛の歯が手に食い込んできて、自分が拳を握っていたことに気がついた。  須藤さんも熱弁のあまり拳を握っている。力を込めてグーを作っているはずのその手は、カスタードのたっぷり詰まったパンみたいにぶよぶよとやわらかそうだった。必死でしゃべるそばから唾が飛んできそうで、わたしは顔を背けた。  
 傷つきやすくて、繊細で、病んでしまった者同士だから、人の気持ちがわかる。そうでしょうね。美しいですね、生きることに挫折させられた者同士で。わかりやすい病名ひとつもらっただけで、この世で自分たちにしか、傷つく権利はないって顔をして。  
 鏡に向き直り、後頭部に手を伸ばして、まだ青い実を枝からもぎ取るようにヘアゴムを外した。中途半端に肩まで伸びた髪が、ぶわりと勢いよく広がる。ぱんぱんになった袋の口を無理やり留めていた金具が、中身に耐えかねて吹き飛ぶところが頭に浮かんだ。
「ごめんなさい、さしでがましく。でも、あの、中沢さんにも、染川さんにも、お世話になっているから……わたし、あの、きちんと外で働かせていただくの、これが初めてなんです。この職場に採用してもらう前に、じつは家庭のほうでちょっと──」
「そんなの知らねえよ」  
 ひらいた袋の口から沈黙と、冬の夕方の隙間風が入り込んできた。  
 メイクを直したばかりなのにぼさぼさの髪だけ野放図に広がった顔が、上からすうっと血の気を失い青ざめていくのがわかった。それが自分の口から実際に出てきた言葉だと、信じることができなかった。そのはずなのに鏡のほうに目を向けると、ひきつった口角はほとんど機嫌よく見えるくらいに上がっていた。動物にとって笑顔はもともと駆け引き、特に威嚇や警戒から始まった表情だという、昔テレビかなにかで知った話を思い出した。  
 無言で凍りついている須藤さんに、わたしはその顔を、よく見せてあげた。
「……なんですか?」  
 彼女はなにも言わず、身動きもしなかった。  
 わたしは前を向き直し、手首にはめていたカラフルなシュシュで、ほどいていた髪をまたひとつに結んだ。ほとんどつむじに近い場所に強引に髪を集め、後れ毛までたくし込んで、毛玉で飾られたゴムがちぎれそうなほどぎゅうぎゅうに縛りつける。その結び目を須藤さんに見せつけるようにしながら、振り返らずにトイレを出た。
「お疲れさまでした。消灯、お願いします」  
 返事は聞こえなかった。  
 フロアに戻る途中、廊下で堀主任とすれ違った。獰猛なほどのしかめっ面で、こちらをなにか問いたげにちらっと一瞥したものの、結局は歩幅も緩めずに大股で歩き去っていく。そんなに急ぐ用なんかそうそうないだろうに、さも自分の代わりなんかどこにもいないのだと言わんばかりの態度だった。  フロアにはほとんど人気がなく、いつもこれ見よがしに残業している染川さんも珍しくもう帰っていて、堀主任の不機嫌の理由がわかった気がした。パソコンの電源を落として席を立ち、女子更衣室でボタンの取れたコートを着る。ロッカーの扉の裏についた小さな鏡を見ないようにしながら、きっといまわたしの口角は、また「やべーババア」に戻っているんだろうと思った。  

 翌日からはまた慌ただしく時間が過ぎ、すぐに年内の仕事納めがやってきた。  
 毎年、この日になると職員はそれぞれひとりずつ直属の上司と一対一で面談をする。困難な案件の方針を話し合ったり、今後の指導を受けたり、悩みを打ち明けたり、時間の使い方はいろいろだ。ただ、うちの担当の場合は課長とわたししか正規職員がいないので、そうでなくても忙しいときに同時に席を外すのはなかなか難しい。やっと休憩室に入って面談を始められたのは、結局、定刻の十分前だった。
「大変だったろうけど、僕としてはよくやってくれたと思います」  
 わたしが用意しておいた資料をめくり、そこに目を落としながら課長は言った。
「今年は特に、自分の業務に加えてバイトさんの面倒も見てくれたし」  
 ありがとうございます、と殊勝に一礼すると、下ろした髪が顔の横に被さってきた。  
 須藤さんは、あれ以来休んでいる。当日の朝早いうちに欠席の連絡をしてくるらしく、きょうも彼女からの電話を受けたのは課長だった。わたしにそれを伝えるときにも、たしか課長は「バイトさん、風邪が長引いてるみたい」と言っていた。  
 ほっとする一方、きっと課長は須藤さんの名前なんて覚える気もないんだろうなと思った。わたしも早くそのくらいの立場になりたい、とも。普段なら真っ先に皮肉を言うはずの田邊さんが、珍しくノーコメントを貫いているのも幸運だった。ここしばらく須藤さんのぶんまで仕事を請け負っているから、さすがの彼女も無駄口を叩けないほど疲れているのかもしれない。
「まあ、君はまたすぐ本庁に戻る人間だろうからね」  
 特に恩を着せずに言われたことで、逆に深い安堵の息が漏れた。須藤さんの「出世コースから外れた」という台詞は、いまだに季節外れのハエみたいに気まぐれに蘇ってきては、不快な響きでわたしの頭にまとわりついていた。
「どう、あの人は元気かい」
「どなたですか?」
「君の上司の女性がいたでしょ。あの人、僕の同期なんだよ」  
 身じろぎした拍子に、また、鎖骨まで伸びた髪が揺れた。
「ま、彼女はさっさとエリートコースに乗って僕なんか追い越してったけど。あとはほら、総務の堀さんとかも同世代でね。彼女たちは当時から優秀で目立ってたなあ」
「……ああ。すみません、最近はお会いしていないので」  
 髪を束ねずに職場に来たのなんて、どれくらいぶりだろう。あのプードル風のシュシュはどうにも縁起が悪い気がして、仕事納めの日くらいは、と思って丹念にブローしてコテでまっすぐに伸ばしてきた。おかげで癖はきれいにとれたけど、そのぶん拠り所がない髪は薙ぎ切られたみたいに頼りなく落ちてくる。
「そうなんだ? てっきりちょくちょく会っているのかと思った。いやね、彼女ずいぶん君を気にかけてたから。俺がこっちに来てからも、よく電話で様子を訊いてきたよ」  
 一人称まで変わった課長は完全に雑談モードで、わたしの用意したレジュメに頬杖まで突いて脱力していた。わたしのほうは、肩もお腹も腰も頭も、完全に強張って動けない。どこに力を入れればあるいは抜けば、この状態を脱出できるのかもわからない。
「そうでしたか。仲、良かったんですね」
「いや、というかね。彼女、うちの職場には珍しいタイプでしょ。理想を持ってバリバリやってく感じで。俺たち世代だとなおさらで、なにかと苦労したんだって。性別を理由にやりたい仕事ができなかったり、見た目や年齢のことでいろいろ言われたり。昇進してからも風当たりが強かったみたいだよ、ビシビシやれば女のくせにって逆恨みされて、だからって下手に出れば舐められてさ。ひどい話だよねえ」
「……ほんとですね」
「まあ彼女の場合、それを撥ねのけるだけの力があったからよかったけど。とにかく足を引っ張られることも多かったらしいよ。その点、俺は一緒にいて気楽だったみたい。ごらんのとおり、仕事にこだわりとかプライドとか全然ないたちだから。代わりに、男の人はなにも考えなくても出世できていいわねーなんて叱られちゃうことはあったけど」  
 珍しく冗談まで飛ばし、あはは、と課長は相好を崩した。わたしはかろうじてうなずく。こんなに苦労して愛想笑いをしたのは初めてだった。  
 たしかに課長は牧歌的だ。この口ぶりからすると、あの女の言い分を丸飲みにしているらしい。そりゃあ一緒にいて気も楽だろう。でもこのぶんだとわたしについてもこの調子で伝えているんだろうから、その点では安心だ。
「いまでもたまーに、大勢の飲み会なんかで顔合わせたときはしゃべるよ。ああそうそう、まだ中沢さんが一年目のときかな、そこでも君のこと話してた気がするなぁ。うん、思い出してきた。久しぶりに女性の部下ができたって聞いたよ。いまどき若い女の子で、自分と同じタイプは珍しいって」
「同じタイプ?」
「そう。実際に会ってみると、たしかに納得だな。こう、頭がよくて上昇志向があるっていうか。それで思い入れもひとしおだったんだろうね」  
 なんの愛着も、だからこそ裏も含みもない声で言われると、荒っぽい手で頭をぐしゃぐしゃに撫で回されるような心地がした。上昇志向? 偉くなる、なんて恥ずかしげもなく言ってのけるあの女と、ずっと同類として見られていたんだろうか? わたしは偉くなりたいとか出世したいとか、そんな俗っぽい動機で仕事に取り組んだことは一度もないのに。ただ、努力のぶんだけ正当に評価されたかっただけだ。
「そうでしょうか」
「そりゃあもう。いまはどうだか知らないけど、俺らの時代はね、若いうちに県税に配属されるってのは期待の表れだったんだよ。いろんな人の事情に触れて自力でお金を集める経験が、使う側に回ったときにも活きるからって。それに彼女だって、わざわざ何度も俺に君のこと訊いてきたくらいだもの。なんの問題もない、むしろ物足りないくらいだろうから早く本庁に戻してあげたらってそのたびに言ったんだけどさ。らしくもない心配するから、これも親心かなと思ったよ」  
 口角を上げつづける気力はなくなっていた。次にどこから石が飛んでくるか、正確な判断ができなくなっていた。悪意があるのもないのも、被害者も加害者も第三者も、だれが敵でだれが味方かも、すべてがごちゃごちゃだった。ただ、乱暴に髪を掴まれ激しく揺さぶられたような酔いだけが、三半規管の中身を泡立たせている気がした。
「……なんて言ってましたか、あの人」  
 定刻のチャイムが、間延びした音で鳴った。  
 久しぶりに長くしゃべった課長は、ふいに熱が冷めたらしい。頬杖を外して資料を片付けながら、放り投げるようにあっさりとした口調で言った。 「あの子はもっと、挫折することを覚えたほうがいいって」

試し読み#5 へつづく)


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伊藤朱里 × 島本理生 『きみはだれかのどうでもいい人』刊行記念対談

伊藤朱里 新刊エッセイ「この本私が書きました」
〈同じ景色を、違う目で(または聞けなかった声に寄せて)〉

「好書好日」伊藤朱里さん「きみはだれかのどうでもいい人」インタビュー 突き放されることで得られる解放感

『きみはだれかのどうでもいい人』書籍詳細(公式HP)

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