働くすべての男女へ。共感の嵐!『きみはだれかのどうでもいい人』(伊藤朱里著)試し読み #5
特別掲載『きみはだれかのどうでもいい人』第1章 ためし読み #5
「おかえり。きょうで仕事納めなんでしょ?」
帰宅したわたしの顔を見るなり、母はそう言いながらゴミ袋をふたつ差し出した。
「部屋にいらないものがあったら入れてちょうだい。可燃と不燃で分けてね」
黙ってその袋を受け取った。きょうの晩ごはんちょっと遅くなるねー、という母の声を背に、わたしはからっぽの袋を後ろ手に持ち、岩でも引きずっているように重い足取りでのろのろと階段を上った。
そして、上りきったところで足を止めた。
妹の部屋のドアが、久しぶりに開いていた。
半開きになったその陰から、さっきわたしが渡されたのと同じ、四十五リットルのポリ袋が覗いていた。中身はもう半分くらい埋まっている。黒いスーツを着た、やけに足の長い男たちが並んでいるポスターも強引に丸めて押し込まれていた。このあいだまで、妹がドア越しに聞こえるほどのボリュームでその歌を垂れ流していたアイドルグループだ。近づいてみると、袋の脇には同じグループのCDやDVDも積まれている。
もう飽きたんだ、と呆れて通り過ぎようとした目の前で、ドアがいきなり全開になった。
わたしは思わず息を呑んだ。
「……なんだ、お姉ちゃんか」
沙穂はもう何年もずっと、派手な黄色い髪を伸ばし、三つ編みにしたりお団子にしたりしてアレンジに精を出していたはずだった。それなのにいま、こちらに向かって不機嫌な顔をしている彼女の髪は真っ黒だった。自分で切って染めたのか、短くなったそれを編み込みも巻きもせずにただ後ろで縛っている。まっすぐすぎる前髪も全体のべたついた艶も、妙にやけくそじみていて神経に障った。
「お母さんが監視に来たのかと思った」
そう言って背を向けた姿を見て、わたしはその場に立ちすくんだ。だらしない小学生が育てたカイワレ大根みたいに半端な長さの髪を無理やり束ねているのは、わたしが洗面所でなくしたと思っていた、いつも使っている黒いヘアゴムだった。
「それ、わたしのゴムなんだけど」
床にできた荷物の山を掻き回していた妹が、驚いたように振り向いた。
「どこから持ち出したの?」
「どこからもなにも。そこらへんにあったの使っただけだけど」
「そこらへん、って。返してよ」
「お姉ちゃん怒ってんの? こんなの、だれのもなにもないでしょ」
「いいから返して。わたしは仕事があるから、それじゃないといけないの」 妹はそれ以上抵抗せず、無表情にヘアゴムを外してわたしに差し出した。 手と手が触れないように指先で受け取ったそれに、べったりと黒い染料がついている気がして目を逸らす。対面で腕を組む沙穂の髪は、首の真ん中くらいのところで一直線に切られていた。そのラインに沿って、生白い喉をぱっくりと切り裂いてやりたかった。
「いいじゃん別に。そんなの、どこにだって売ってるじゃん」
「どこにでも売ってるなら自分が買いなさいよ」
「うわ、こっわ。仕事でなんかあったの?」
「そういう問題じゃない。人のもの使うなとは言わないけど、持ってく前にひとこと言うとか最低限のことは守って。仕事に行くときに困ったんだからね、洗面所に派手なウールのしか残ってなくて」
「え? お姉ちゃん、まさかアレつけて役所行ったの? ウケるんだけど」 妹はもともとこういう口の利き方をする子で、そのせいでいらないトラブルをたびたび引き起こしていた。ただ、勉強が苦手だから言葉を知らないだけで、別に本人に悪意があるわけじゃない。それさえわかっていれば、気にならないはずだった。
「なに、いまの。どういう意味」
「だって自分でそう思わなかった?」
「たしかに職場にはどうかと思ったけど」
「そういうんじゃなくてさあ。お姉ちゃん、もう二十五でしょ」
見つめ返すのが、精一杯だった。
「気をつけなよー。あたしまた新しいバイト始めたんだけどさ、いるんだよそこにも。いい歳してまだフリルとかリボンとか卒業できないヤバいおばさん。テンパるとすーぐヒスってバイトに八つ当たりするくせに、たまにキャラもののメモとか使ってかわいさアピールしてくんの。なんかもう必死すぎてイタいんだよね。だーれも指摘できないし」
言いながら沙穂はガラクタの山から、大きな暗緑色のものを持って引き返してきた。
卒業アルバムだった。高校からは偏差値の関係で進路が変わってしまったけど、幼稚園から中学校まで、わたしたちは五学年違いで同じところに通っていた。わたしの出身中学でもある校名が表紙に刻まれたそれを、妹は無造作に足元のゴミ袋に投げ込んだ。
「……なに? だって、お母さんが捨てろ捨てろって言うからさ。うっさいんだもん。環がものをちゃんと捨てられない人間はろくな大人にならないって言ってる、って。お父さんもお母さんも、昔っから環が環がってお姉ちゃんのことばっか」
こみあげてきたのは吐き気にも似た、汚い手で触られたような嫌悪感だった。
「わたしには、そんなことなかった」
「ん?」
「ていうか、なんなのさっきの言い方。なんでそんな上から目線なの。イタいとか言うけど、別にその人に殴られるとか蹴られるとかしたわけじゃないでしょ」
「や、違くてさ、わかるじゃんふつーに。なんかもうわたしという存在をわかって、わたしのこと気にかけて、わたしのこと認めて、わたしってかわいいでしょまだ若いでしょーっていう、その自意識の刺さってくる感じが痛々しいんだよ」
「そんなのあんたもじゃない。なに、その安っぽい風俗みたいな部屋。それがかわいさアピールじゃなくてなんだっていうの」
「……はあ? 関係ないじゃんそれ」
「関係あるでしょ、だいたいあんただって五年後には二十五だしそのままの趣味で二十年経てばイタいおばさんだし、そもそもいまだって五歳下の子からすればイタいババア呼ばわりされてもしょうがないんだからね」
「どうしたわけ、さっきからおかしいよ」
「おかしいって言えるほどわたしのこと知らないでしょ、部屋から出もしないんだから。あんたが毎日のんきに引きこもってるあいだにわたしは働いてるの、殺すとかおまえのせいで死ぬとか言われながら足引っ張られながら頭下げてお金稼いでるの。好きなものくらい好きなように持ってなにがいけないのよ、迷惑かけてないし、そもそも家の金食い潰してるだけのあんたになんで人の生き方とやかく言う権利があるわけ!?」
漂ってくる匂いに気がついて、口をつぐんだ。
温まっていくホワイトソース、焦げたチーズ。グラタンだ。わたしの好物で、受験勉強のときにも母がよく夜食で作ってくれた。できたてでなくても、夜遅くなってからでも、レンジで温め返せばちゃんと同じ味で食べられる。
リビングのテレビがきょうはついていなかったことを、そこでようやく思い出した。だけど、わたしの声に気づいた母が様子を見にくる気配はなかった。
意味わかんない、と沙穂が眉をひそめた。ノーメイクだと眉が霞みたいに薄くなってしまうところは、あまり似ていないわたしたち姉妹の、数少ない共通点だった。
「仕事でなにがあったのか知らないけどさ、八つ当たりやめてよ。そりゃあたしは金食い虫でお姉ちゃんは自活してて、そのとおりだけど、じゃあ、あたしにどうしてほしいの。死ねばいいわけ?」
「そういう問題じゃない」
「じゃあなんなの」
死ねばいいとは思わない。そんなの、なんの解決にもならない。
ただ、こっちの努力に応えてほしい。誠意を尽くしたら、ありがたいと思ってほしい。応える力がないのなら、せめて負い目くらいは感じてほしい。 あなたの苦労に報いなくて申し訳ないと、十字架を背負いつづけてほしい。
それはわたしが沙穂だけじゃない、須藤さんや染川さんや、いろいろな人に対して望んでいたことで、そしてたぶん、いろいろな人から望まれてもいたことだった。
「なんで捨てるの、卒業アルバム」
「だからお母さんが」
「わたしには、沙穂と違って人の気持ちがわからないって」
「……は? マジでウザい。人を都合よくてめーの物差し代わりにすんなっての」
「そういうこと、言うのはよくない。わたしの勘違いかもしれないし」
沙穂は深々と溜息をつき、ぼさぼさになった髪を撫でつけながら言った。 「別に、好きなものは好きってのがいけないとは言ってないじゃん。ただ、お姉ちゃん、好き勝手言われることってあるよ。自分で選んだんだったら黙って受け入れろとか、そういう意味でもなくて。たぶんどこにでも、ただ、あるんだよ」
わたしは沙穂に背を向けて、自分の部屋に飛び込んだ。
ふたつのゴミ袋のうち、ひとつをドアノブに引っかけた。もうひとつを鞄と一緒に部屋の中央に置き、袋の口を広げる。そしてその場に座り込み、まず鞄を開いた。
手帳を取り出してみる。一月から十二月までだから、ちょうどもうすぐ役目を終える。新しいものを買わなくちゃと思ったきり、忙しさにかまけて忘れていた。ピンクの髪の少女と水色の髪の少年が月や星にまたがって遊ぶイラストの上に、ラメをちりばめたビニールカバーがかかっている。その手帳を、袋に入れてみた。
ペンケースの中を確かめ、シャープペンシルとメモパッドも手帳の隣に入れた。そこで心当たりがなくなって周囲を見渡した。でも一緒に納められそうなものはなにもなくて、捨てることも捨てないことと同じくらい痛いのかもしれない、と思った。だけどやっぱりこれじゃ足りない気がして、もう一度、他人になったつもりで部屋を観察してみたら、本棚の下の段にしまってあった卒業アルバムが目についた。
幼稚園、小学校、中学、高校、大学。とりあえず、中学のものを引っ張り出そうとした。でも、写真集やら雑誌やら、重たいものがぎちぎちに詰まっているせいでなかなかうまくいかない。えい、と強く力を込めたら、その隣にあった高校のアルバムが飛び出てきてしまった。
床に落ちた拍子に、アルバムが入っていたケースから重たい冊子がすっぽ抜ける。
とりあえずケースを持ち上げると、ぱさりとなにかが膝に落ちてきた。古びた紙が何枚か重ねてホチキス留めされている。宿題のプリントとかだろうか。いくらなんでもこれは捨てられるだろう、と手に取って開いてみて、わたしはピンで刺し貫かれた蝶の標本みたいに硬直した。
それは初めてソロパートを勝ち取ったときの、合唱曲の楽譜だった。
座り込んだまま、一枚ずつめくってみる。
思い出した。練習しすぎたせいでボロボロになって、しまいには表紙が外れてしまったのだ。実際、いたるところにペンで注意事項が書き込んである。中には楽譜の演奏記号をただ日本語にしただけのものもあって、幼さと必死さに苦笑してしまう。もう、とっくに捨ててしまったと思っていた。こんなところにとってあったのだ。さすがに卒業アルバムまでは処分しないと考えたのかもしれない。未来の自分から匿うような場所に。
ソロの部分は最後のページにあった。そしてそこだけは、淡いピンクのマーカーペンでぐるっと囲ってあった。わざわざ定規で引いたらしい、まっすぐな線だった。よほど力を入れてペン先を押しつけたのか、ところどころ端のほうが黒ずみ、時間が経ったせいで色自体もくすんだようにかすれている。どこにも行けずに同じ場所をぐるぐる巡っている、みっともない流れ星みたいだと思った。
もう楽譜の読み方さえ忘れていても、歯のあいだに唇を巻き込んでぎゅっと口をつぐんでも、そのメロディは自然と、壊れたオルゴールの音が閉じた蓋の隙間から漏れるように、記憶の隙間からこぼれ出た。
──わたしも死んだらこうなるのですか?
そんなの、知らねえよ。
(第1章特別掲載試し読み おわり)
続きはぜひ、書籍でお楽しみください。
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〈同じ景色を、違う目で(または聞けなかった声に寄せて)〉
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