「努力」に関する論
どうもShoSeiです。
お気付きの方はいると思いますが、僕のブログは“勝手な屁理屈をそれっぽく書いてるだけ”なので悪しからず。
今回は「努力」について。
前回、神様に関する記事を書いたことの延長だと思って貰えれば嬉しい。
“努力は報われる”という考え方は、「そうである」「そうとも限らない」の2つの派閥があるだろう。結論から言えば僕は圧倒的に後者なのだが、押し付けるつもりは毛頭無いので前者の人も楽しんで読めると思うし、その上で意見や感想などをくれたらとても有意義で心地がいい。
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まず、「努力が報われる」と思っている人の考えから想像していこうと思う。大きく分けると2つのタイプが存在すると予想する。
・目に見えないものからの恩恵的思想
・1万時間の法則的思想
まあ、基本的には「良い事も悪い事もやったことは返ってくる」や「技術はやればやるだけ身に付く」という思考回路ということだろう。
だが、ひねくれ者の僕はどちらにも違和感を感じてしまう。
まず1つ目に関して言えば、「良い事や悪い事は受け取る側によって決まる」という点だ。報われたいという下心があろうが無かろうが、良心から千羽鶴を作って送ったとして、残念ながら受け取る側には特例を除いて迷惑でしかない。ここのルールがいまいち分からない。
相手を喜ばせる為に詐欺で得たお金でプレゼントをしていいはずは無いし、逆に「自分が良いと感じること」に重きを置くとしたら、世界の為に行ったテロは見えざるものから報われるのだろうか。
若干話は逸れているが、あくまで「努力」という観点においては、僕が報われると思えない意見としては伝わったと思う。
そして1万時間の法則という「何事も1万時間を対象への努力に使えば、その対象において一流になれる」という考えに対しても違和感しか無い。
結局、「努力のやり方」と「対象の選択のセンス」にほとんどが依存していると感じるからだ。まだ、楽器やスポーツや今で言うとゲーム等は何となく分かる。だが、教育や知的専門職などは絶対にそれでどうにかなる類では無いし、スポーツ等に関しても、元々の運動能力や体型や才能などが一流になる為には間違いなく必要だろう。
これらは全て、人生において「どれだけこの思想を信じ、実践するか」によって得られる幸福であり、難易度としてはかなり高いと感じる。だって社会は「公平であるべき」までのレベルにしか達していないし、今後も達することは無いであろうから。
ただ、もちろん考えを否定したい訳ではなく「特に意味もなくこの考えを信じていると、いつか痛い目見るかもよ?」くらいのもの。何事もそうだが「自分が自分なりに解釈し、幸せだと信じるものを、心の底から実践する」という行為は、間違いなく幸せの形である。
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僕もブログを続けているが、「続けるだけじゃ意味は無い」と思っている身だ。なんなら意味なんて求めてない。楽しい暇つぶしがこれだったってだけ。その上である勘違いをしてしまうと窮屈そうだから、それについても触れていく。
「天才はもれなく努力をしている」に対して、「なるほど!逆に言えば努力をすれば天才になれるんだ!」
これが窮屈すぎる勘違いだ。これだけは別に知ったことではないが、避けた方がいいかもしれない。明らかなミスなので。この勘違いをするから色々と誤った努力をひたすら繰り返してしまう人がいるのだろう。それも素敵だが。
「天才はもれなく努力をしている」に対して「なるほど!とりあえず努力をしないことには天才になれないんだ!」
これが正しい。これは思想ではなく対偶やら命題やらの話であるから、どれだけ批判されても覆るものではない。
つまり「続けるだけじゃ意味は無い」が「続けなければ意味は生まれない」ということになる。
別に必ずしも1万時間もやる必要はないと思うが、報われる以前にこれは「単なる前提」であるのではないだろうか。そして、努力はきついものという考え方も存在するしジャンルによってはその通りなのだが、結局は「努力と気付かずに努力してた奴」が1番強い。
そう、「報われたい!」とか最初から思ってない。ただただ「やれることをやっていた」だけ。
僕は当事者では無いので、貴方の努力が報われることを当然願っているし、仮に報われなくてもそこから得た経験や見える景色に興味がある。応援というほどのものでも無いが、勝手に楽しみにしている。
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宣伝は毎度のごとく面倒臭いので、ブロフィールに飛んで固定記事やマガジンを漁ってくれることとする。(笑)
オススメとして、ここ最近で1番伸びた記事でも貼っときます。
「あちゃ〜、社会が僕たちの苦手な方向に発達しちゃったな〜。」っていうブログです。(笑)
今日も生きてて偉い!
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