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「ギバー」の落とし穴

どうもShoSeiです。
好きな時計の針の角度は10時25分です。

今回は「ギバー」について。

ここ数年で広く知られるようになったこの言葉だが、皆さんはどういった印象を持っているだろうか。

まあ「与える人」というのは本当にカッコイイ響きだし、憧れる人も多いのかな。

そういったものに対する僕の考えを身勝手に発信していく。

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そもそも「ギバー」というのは、他者を中心に捉え相手が何を求めているかを注意深く考えるタイプの人を指します。与えることに対し、見返りを期待することもなく、手を差し伸べる、言わば”奉仕する人”とされている。

それでもってギバーは2種類に分けられる。

他者利益には興味が関心があるが自分の利益には無頓着で人に与える一方で自分の利益を損なってしまうタイプの「自己犠牲型」と 他者利益と自己利益の双方に興味関心があり、受け取るより多く与えるが自分にもしっかり他者から還元されていく為、自己利益を損なわないタイプの「他者思考方」だ。

ちなみに、常に多くを受け取ろうと行動し自分がより有益になるように持っていく。相手が望んでいることよりも自分の利益を優先していくタイプの「テイカー」とギバーとテイカーのちょうど中間で常に公平という観念に基づいて行動し、与えられなければ与えない、何かをしてもらったら恩を返すというタイプの「マッチャー」も存在するらしい。

そして世に言うところの成功者は「他者思考型のギバー」が多いことから、「自分もそうなりたい!」と思う人が増えているという訳だ。


僕はこの考え方に強烈な違和感を覚える。本などに書いてあることは間違いないが、それを受け取る人が大抵大きな勘違いをしてしまっているように感じる。そもそも、人は常に「テイク」をしながら生きている。

僕がこうしてブログを発信してそれを読んでくれる人がいれば僕はその人の時間を奪っているし、友人との会話はある意味では“互いにテイクをしあっている”とも受け取れる。

結局与えるという行為は、与えたものの大きさから奪ったものを引き算した結果残るものだ。それは目に見える価値も見えない価値も含めて。

しかし多くの人は自分が人に与えることばかりを考える。それは本当に「他者思考」か?別にそう思うのは自由なんだが、それすら「身勝手」や「己のエゴ」であることを自覚しなければならない。


人が与えられるものなんて限りがある。例えば餓死をしそうな人が目の前に2人いて、貴方は1人しか救えない状況の場合、1人を助けることで知らないうちにもう1人の生きる希望を奪っているかもしれない。

可視化されていないだけで、救うとはそういった側面も持ち合わせている。それほどに「自分が救われたい」という下心だけでは背負いきれないものだ。小さなテイカーを自分の周りに沢山配置して自分だけがギバーになりたい貴方では人に何かを与えることは出来ない。

僕もよく知らないが、ギバーはなりたいと思うものではなく、正しく身勝手に生きた結果なっているものなんだろう。


それは「ギバーになりたい」と思ってしまった時点で「足りない人探し」を始めてしまっているという事実で明らかだ。

ギバーになりたければ身勝手を自覚するんだ。その身勝手の及ぶ範囲が君の与えられる範囲だ。搾取してはいけない。それは身勝手ではなく自己中心的なアホだ。

そして忘れないで欲しいのが、このブログを読んでいるだけでも貴方は何かを与えている。実は人は知らずに沢山のものを奪っているが、結構知らないうちに与えてたりするんだ。そして、それに勝手に救われている人もいるに違いない。

そんなに与えることにこだわり過ぎなくていい、身勝手に生きよう。

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最後に宣伝を失礼。

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