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ココロノコリ 1ー1


 母さんが、泣いてる。
 生きていたら十七回目の誕生日だったはずのその夏の夜、川村若葉が最初に気づいたのはそのことだった。
 若葉の家は、祖父の代まで大きな農家だった。大学を出たあと地元の役場に勤めた父は家業を継がなかったけれど、今でも本家と呼ばれて盆暮れには親類縁者の帰省場所になるこの家には、仕切りのふすまを払ってしまえばだだっ広い空間に変わる和室が多くある。中でも、今若葉が立っている仏間は、普段は閉めてある左右の部屋との仕切りを開ければ、優に三十畳の広さになる。
 知己の少ない高校生の通夜を営むには、十分の広さだ。
 若葉は、おそらく自らの遺体が安置されているのだろう白木の柩の足元側に、経をあげる僧侶や、前列に並ぶ親族や、その後ろで窮屈そうに正座する弔問の客に正対して立っている。立っていた。──気がついたら、ここにいた。
(聞こえない)
 僧侶の手の撥がぽくぽくと木魚を叩き、読経の形に口が動くのが見える。白いハンカチに半ば顔を埋めるようにして、母はおそらく嗚咽している。その場の光景は、生きていた今朝までと同じようにはっきりと見えているのに、ただ、それに伴う音声だけが、聞こえない。
「──母さん」
 泣かないで、と、言ってみようとする。けれど、十七まで育てた一人息子が、十七までしか育たずに死んだその晩の母親に、泣くなということなど無理だ、と、どこか乾いた頭の隅で思う。どのみち、若葉のかけた声はどうやら、母にも、その場のほかの誰にも、届いてはいない。
 どうしてこうなったのか、すぐには思い出せない。確かなのは、自分がもうこの世の者ではないということ、目の前で行われているのが、自分、川村若葉の通夜だということ。
(死んだんだな)
 困ったことになった、と思う。
(自殺だと思われちゃうかな)
──Y県S市で高二男子、イジメを苦にして自殺か。
 ニュース番組のラインナップまで目に見えるようだ。若葉自身には、死にたいという気持ちなど全くなかったとしても。
 弔問の客が、順に焼香に立つ。大叔父、従兄、近所の人たち。担任の高須の顔もある。その横で、青ざめてうつむいているのは委員長の種田だ。学校はまだ夏休みだった。おそらくは生徒代表として呼び出されたのだろう種田以外には、学生服の人影はない。ほかの皆はまだ、僕が死んだことをしらないのかもしれない、と、ぼんやりと思う。それとも、知っていても来ないのかもしれない。──来られないのかもしれない、という気もする。
 怖くて、来られないのかもしれない。
(伊東くんは──)
 中でも、もっともこの場に現れるはずのなさそうな、その少年の鋭いまなざしを思い浮かべて、若葉ははっとする。
(いるはず、ない)
 そうだ、伊東雄大が、今夜この場にいるはずがない。なぜなら。
(思い出した)
 今日の午後、若葉は伊東と一緒にいたから。そしておそらく若葉は、死んだそのとき、伊東のバイクに乗せられていたから。
 高台にある図書館から下る、坂道の曲がり角だった。このスピードでは曲がりきれない、と、思った。きつく目を閉じて、伊東の背中にしがみついた。怖かった。
 伊東雄大が、若葉の通夜に出るはずはない。なぜなら今夜、この町のほかのどこかで、もう一人の少年の通夜が、しめやかに行われているはずだから。
 さくり、と、畳をしなわせて、一歩、進んでみる。周囲のざわめきが聞こえない若葉の耳には、その小さな音がずいぶんとクリアに響く。顔を上げる。誰も気づいた様子はない。
 見えていない、とわかっていても尚、忍ぶように、静かに、静かに、弔問客の間を抜ける。母が泣いている。父の肩が震えている。高須の横を過ぎるとき、思いがけずその頬を伝う涙を見た。
 廊下へ抜ける寸前に、ちらりと奥の柩に目をやる。柩の窓は閉められていた。祖父の通夜も、この仏間で行われた。その夜には、幼かった若葉は死者への畏れも知らず、時折り柩に近寄っては、大好きだった祖父の、不思議に穏やかな死に顔を見た。通夜を終え、告別式を終えて、焼き場へと運び出す直前まで、祖父の柩の窓は開いていたように思う。
(僕の柩は、開けられないんだな)
 伊東のバイクがガードレールに激突し、わけもわからぬまま宙に放り出されたとき、若葉はヘルメットをしていなかった。事故死した自分の遺体は、通夜の席にその小さな窓を開けておくこともできないほど、損傷が激しいらしいと思った。
 そのことに対する感慨はあまりわかなかった。自分はもう、生きていない。だから、そこにあるその身体とは、もうあまり関わりがないように思える。
 泣いている母親に、少し申し訳なく思いながら、若葉は静かに廊下を抜け、客の下足であふれる玄関から外に出る。
 身体はたしかに死んでしまっているのに、自分はまだこうしてここにいる。身体の死と共に、自分の意識も消えてしまわなかったのが何故か、若葉にはなんとなく分かる気がする。
 ──心残りが、あるのだ。

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