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クトゥルー神話とバットマンの世界が融合! 『バットマン:ゴッサムに到る運命』解説

クトゥルー(クトゥルフ)神話とバットマンの世界を融合させた、ファン垂涎の読み切り作品『バットマン:ゴッサムに到る運命』が刊行されました。この作品を深く楽しむための予備知識として、クトゥルー神話研究家であり、本作の翻訳者でもある森瀬 繚さんのスペシャル解説をお届けします!

文:森瀬 繚

※本記事は『バットマン:ゴッサムに到る運命』付属の作品解説を再編集し、大幅に加筆したものです。

H・P・ラヴクラフト的恐怖に脅かされるゴッサム

『バットマン:ゴッサムに到る運命』は、DCコミックスのエルスワールド・レーベルより、2000年11月から翌年1月にかけて全3号で刊行されたリミテッド・シリーズである。メインライターは、陰影のコントラストに特徴付けられる、アーティスティックな絵柄で人気を集めるアーティストのマイク・ミニョーラ(本書のカバーアートも彼のペンによるもの)。

『バットマン:ゴッサムに到る運命』
マイク・ミニョーラ、リチャード・ペイス[作]
トロイ・ニクシー[画]
森瀬 繚[訳]

バットマンのエルスワールド、かつマイク・ミニョーラものといえば、時代を19世紀末期に置き換え、バットマンと切り裂きジャックの対決を描いた『バットマン:ゴッサム・バイ・ガスライト』(1989年発表/小社刊)が有名だが、本作はこちらのシリーズとはまた異なる“ if(もしも)”の世界。“禁酒法時代”、“ジャズ・エイジ”など、様々な呼称が知られる1920年代を背景に、いわゆる宇宙的恐怖── H・P・ラヴクラフト的な恐怖に脅かされるゴッサムシティの運命を描く物語なのである。マイク・ミニョーラのラヴクラフトへの傾倒はよく知られている。『ヘルボーイ』の暗澹たる世界観や、オグドル・ヤハドに代表される邪神たちは、ラヴクラフトのいわゆるクトゥルー神話の世界観を彼なりに再現しようとしたものだと、様々なインタビューで語られてきた。

サルナスに到る運命

高校時代、マーベル・コミックスのコミカライズを通して『コナン・ザ・バーバリアン』の熱狂的なファンになったミニョーラは、そこから原作者ロバート・E・ハワードの小説を読み始め、さらには彼の作品が掲載されていた〈ウィアード・テールズ〉をはじめとするパルプ・フィクション雑誌の存在を知り、必然的にラヴクラフトに辿り着いたということである(ミニョーラは後年、マーベル・コミックスとダークホース・コミックスの『コナン』のコミックにおいて、ライター/アーティストとして仕事している)。彼は本作について、自分の仕事の中では「ラヴクラフトに最も近づいた」とインタビューで語っている。実際、『ゴッサムに到る運命( The Doom That Came to Gotham )』というタイトルは、ラヴクラフトが1920 年に執筆した「サルナスに到る運命(The Doom That Came to Sarnath)」(拙訳『未知なるカダスを夢に求めて』〈星海社〉に収録)のオマージュであり、ゴッサムが爬虫類まみれになる展開は、同作のクライマックスに倣ったものである。しかし、作品成立の経緯となると、ミニョーラの口は重くなりがちであるようだ。

爬虫類(と両生類)まみれになるゴッサム

『バットマン:ゴッサムに到る運命』はもともと、リチャード・ペイスの企画だった。ペイスはカナダ出身のアーティストで、90 年代からマーベルやDCでペンシラー、カラーリストとして仕事を始め、前者では特に『テラー・インク』や『X-MEN』『ナイト・スラッシャー』、後者では『スターマン』が知られている。なお、イノベーション社より1990年から刊行されていた、コミック版『ヴァンパイア・レスタト』にも参加していた。

ペイスの証言によれば、彼とミニョーラは『ヘルボーイ』のミニシリーズ企画(実現しなかった)を巡って一緒に仕事していた。その時、「もしもH・P・ラヴクラフトがバットマンを描いたら」というコンセプトの彼のアイディアを気に入ったミニョーラがDCコミックスにそれを売り込み、本作の企画が立ち上がったのだという。しかし、何かしらの事情でペイスがはずれ(このあたりについて、関係者が一様に口を濁しているため、仔細はよくわからない)、ミニョーラが宙に浮いた企画を引き取り、ペイスの作成したアウトラインを下敷きに、脚本を仕上げることになったのである。

作画担当として起用されたトロイ・ニクシーは、一見してミニョーラのフォロワーとわかるアーティストだ。当時、他ならぬミニョーラに見出されて一緒に仕事をしており、オレゴン州の独立系コミック出版社オニ・プレス社から、ラヴクラフティアン・ホラーコミック『ジェニー・フィン』( 1999年)を刊行していた。

バットマンの世界観を解体し、ラヴクラフト的な物語に再構築

本作を読んだ古くからのバットマン・ファンは、徹底した“思い入れの欠如”に困惑を覚えるかもしれない。ミスター・フリーズとキラークロックは伝統的なアイデンティティを剥ぎ取られ、ロビンは3人のうち2人までが命を落とす。

そもそもブルース・ウェインは、何が目的で漆黒のコスチュームに身を包んでゴッサムの夜闇を跳梁するのか。過去、両親が殺害されたことは回想シーンに描かれるものの、『バットマン:ゴッサム・バイ・ガスライト』と異なり、彼の流浪の動機は明言されないままだ。

バットスーツに身を包む目的を見失っているブルース・ウェイン

「バットマンについては何も知らず、特に関心もありませんでした。モンスターがいる世界にバットマンを配置することで、彼はようやく僕にとって魅力的な存在になるんです」

これは、あるインタビューにおけるミニョーラの発言である。この言葉通り、彼はラヴクラフト的な物語をまずは構築し、バットマンものに登場するキャラクターたちを文脈から容赦なく切り離して、再配置したのだった。一方で、ペイスのアウトラインが存在したとはいえ、ミニョーラはこの物語が“ラヴクラフトっぽく”なるように、言葉選びの一つ一つに到るまで細心の注意を払っている。本作に漂っている、名状しがたい奇妙(ウィアード)な感覚はたぶん、そうしたミニョーラの温度差からきているのではないだろうか。

クトゥルー神話とは

そもそもクトゥルー神話とは、20世紀前期の2つの世界大戦の戦間期に活動したアメリカ人作家、H・P・ラヴクラフトとその友人たちが、神々やクリーチャー、書物、土地などの名前を共有し、作品同士をゆるやかに関連付けるというお遊びを通して形成された、架空の神話大系だ。その世界観を最大公約数的な言葉でまとめると、「人類が誕生する以前のはるかな太古に、宇宙や異次元から地球を訪れ、この星を支配していた怪物的な存在を巡る物語群」ということになる。太古の人間や異形の種族から神として崇められたクトゥルーやヨグ=ソトース、ナイアルラトホテプなどの名で呼ばれるこれらの“神々”は、現在では地球内外のそこかしこの場所に幽閉され、あるいは眠りについているのだ。

このお遊びは、ラヴクラフトが1937年に亡くなった後も継続し、様々な国、様々な言語、そして様々な媒体を越えて、現在に到るも広がり続けている。もちろん、コミックの世界も例外ではなく、そうした中でも特に、バットマンへのクトゥルー神話への影響は深い。

アーカム・アサイラム

何をおいても真っ先に挙げられるべきは、バットマンもののゲームや映画(『ジョーカー』や『THE BATMAN-ザ・バットマン-』にも登場)でお馴染みの、アーカム・アサイラム(アーカム療養院)だろう。バットマンに捕らえられたサイコ系犯罪者を収監する、専門の医療施設である。アーカムというのはもともと、ラヴクラフトが創造したマサチューセッツ州の地方都市で、1920年に執筆された「家の中の絵」という作品が初出となる。ラヴクラフトによれば、セイラムの少し北に位置するミスカトニック大学のホームタウンであり、彼の作品に描かれる様々な怪事件の舞台にもなっている。
2022年現在、アーカム・アサイラムの「アーカム Arkham」は、綴りこそラヴクラフトのアーカムと同じだが、創設者アマデウス・アーカムの名前からとったとされている。詳しくは、『バットマン:アーカム・アサイラム』(小社刊)を読んでみてほしい。

ただし、当初は違っていた。バットマンの世界観に「アーカム」というワードが入り込んだのは、1974年刊行の『バットマン』#258。バットマンの宿敵、トゥーフェイスを措置入院させている施設としての登場である。この時は、「ニューイングランドの近く」という設定で、名前も「アーカム・ホスピタル」だった。アーカムに存在する療養所(アサイラム)の元を辿ると、ラヴクラフトの「戸口に現れたもの」に登場するアーカム・サナトリウムまで遡る。作中では単に「アサイラム」と呼ばれることもあり、さらに言えば、この施設のモチーフはダンバースにかつて存在した「ダンバース州立精神病院」なのだろう。ダンバースは、かつてはセイラム・ヴィレッジという村だった。現在は観光地となっているセイラムの近くにあり、1692年の魔女裁判で有名な事件が発生したのはこちらの村の方だった。ダンバース州立精神病院は色々と悪名高い施設で、こちらの病院自体もラヴクラフトの「インスマスを覆う影」でちらりと言及されている。
ここは長らく廃墟となっていたが、アスベストが出てきたため取り壊され、現在は住宅地になっているようだ。なお、かつての廃墟の姿は、映画『セッション9』で見ることができる。

ちなみに、アーカム・アサイラムがゴッサム近くの島に存在するという設定は、TVアニメ版からのものだ。巡り巡って、アーカム・アサイラムはクトゥルー神話作品にも逆輸入され、ゲームや他社のコミックに似通った施設がしばしば登場している。たとえばダイナマイト・エンターテインメント社のクロスオーバー・シリーズ『プロフェシー』では、ラヴクラフトの小説の登場人物であると同時に、映画『死霊のえじき』シリーズの主人公でもあるハーバート・ウェストがミスカトニック・アサイラムに収監されていたりする。

バットマンとクトゥルー神話

クトゥルー神話的なバットマンのエピソードは、他にも存在する。少し遡って、1972年刊行の『バットマン』#241と#242。こちらに連続掲載されているロビンものの短編"Secret of the Psychic Siren!"、"Death-Point!"には、神話クリーチャーこそ登場しないが、“昏き魔神(ダーク・デーモン)”クトゥルーを崇拝する邪神カルトが登場し、超常の力を発揮してロビンたちを苦しめるのだ。作中には“預言者ラヴクラフトより授けられた神聖なる書物『ネクロノミコン』”への言及も。このカルトは作中で「クトゥロイド・カルト( Cthuloid Cult)」とも呼ばれている。

続いて、『ブレイブ・アンド・ボールド』#164(1980年)掲載の「空飛ぶ博物館の秘密」というエピソード。ゴッサムの博物館からとあるアーティファクトを運んできたバットマンとホークマン。木箱を搬入するや、博物館全体が謎のパワーで空に浮き上がり、どこかに飛び去ろうとする。このアーティファクトというのが2体の謎めいた彫像で、かつて他の惑星で崇拝され、そして遠い昔に行方知れずとなっていた"ミステリイ・ワンズ"の神像なのだった。“~・ワンズ”というのは、ラヴクラフトの頃から続く定番的な神話存在のネーミングであり、そして同エピソード中に描かれた姿は、タコのような頭部を具えた“大いなるクトゥルー”をどうしたって彷彿させるものだった。

『バットマン』#544~546(1997年)の3冊にわたり展開するシリーズ、「大アルカナ(Major Arcana)」では、あろうことかジョーカーの手に禁断の書物『ネクロノミコン』が渡ってしまう。こういう危険なブツを手に入れて、この男が放っておくはずはない。彼は地獄のサタンを喚び出してやろうと早速儀式を実行するのだが、出現したのは『バットマン/ゴッサムに到る運命』にも登場するアンチヒーロー、地獄の悪魔エトリガンだった。
ジョーカーは弁舌巧みに悪魔に取り入り、一体化している人間ジェイソン・ブラッドとの分離を望むエトリガンに助力するという条件で共闘が成立。無論、嘘も誤魔化しもあるわけで、それをいかにバットマンが暴くか……という、王道的な妖術師もののストーリーだった。

そして、ラヴクラフトをこよなく愛するマイク・ミニョーラもまた、『ゴッサムに到る運命』以前のバットマン仕事で、クトゥルー神話を扱っている。1999年刊行のクロスオーバーもののミニシリーズ『バットマン/ヘルボーイ/スターマン』には、ラヴクラフトが自作の題材としたらしい、"グレート・オールド・ワン"が登場するのである。ライターはジェイムズ・ロビンスンで、ミニョーラは作画担当だ。こちらは、ネオナチのスキンヘッズが初代スターマンのテッド・ナイトを誘拐、彼の技術を利用して古代レムリア人に封印された邪神サゴー・ヨゲロス(Suggor Yogeroth、小社刊『バットマン/ヘルボーイ/スターマン』ではシュゴー=ヨグロス)を復活させようとしているというストーリーだった。

バットマンというキャラクターが生まれてから80年余り。その関連作品において、様々な作品とのコラボレーションやオマージュが試みられてきた。そうした中に、クトゥルー神話が入り込むのは必然と言えるだろう。しかしながら、単に背景要素としてではなく、世界観として正面から取り組んだ作品は、今のところこの『ゴッサムに到る運命』のみとなっている。本作を日本に紹介する役目を担えたことに、クトゥルー神話の研究者として、H・P・ラヴクラフトの翻訳者として、この上ない名誉を感じている。関係者の諸兄諸姉に、この場を借りて厚く御礼申し上げたい。

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