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プラグマティズム思想を持った人間はどう行動するのか

 〈プラグマティズムとは何か〉を説明をした。
 次の文章である。 

 この文章を書くに当たって、私は七種類の辞書・辞典を確認した。また、多くのネット上の文章も確認した。
 率直に言えば、私はその全てに不満であった。それらは他人に勧められるものではなかった。〈プラグマティズムとは何か〉が分かる文章ではなかった。(だから、自分で説明を書いたのである。)
 一番大きな不満は次のものである。
 
  「プラグマティズム」の説明がプラグマティズム的でない。
 
 これは、喩えれば次のような状態である。
 
  『論理的文章の書き方』という本の文章が非論理的である。
 
 そのような本は全く信用できない。非論理的な文章を書く人間が「論理的文章の書き方」を説いても全く信用できない。その「書き方」は本人の文章すら直すことが出来ていないのである。
 「プラグマティズム」の説明がプラグマティズム的でなければ、その内容自体が疑わしくなる。〈プラグマティズムを分かっていない〉のではないかと疑わしくなる。
 では、読者の皆さんにも、疑わしく思っていただこう。プラグマティズム的でない説明を読んでいただこう。『世界大百科事典』(平凡社)の説明である。

【プラグマティズム】

アメリカの最も代表的な哲学。日本では〈実用主義〉と訳されることがあるが,この訳語はこれまでプラグマティズムに関して多分に誤解を招いてきており,最近ではこの訳語を使う人は少ない。プラグマティズムは哲学へのアメリカの最も大きな貢献であり,実存主義,マルクス主義,分析哲学などと並んで現代哲学の主流の一つである。プラグマティズムを代表する思想家には C. S. パース,W. ジェームズ,J. デューイ,G. H. ミード,F. C.S. シラー,C. I. ルイス,C. W. モリスらがいる。プラグマティズム運動は〈アメリカ哲学の黄金時代〉(1870年代~1930年代)の主導的哲学運動で,特に20世紀の最初の4分の1世紀間は全盛をきわめ,アメリカの思想界全体を風靡(ふうび)するとともに,広く世界の哲学思想に大きな影響を与えた。1930年代の半ばごろから外来の論理実証主義,分析哲学がアメリカの哲学を支配するようになってプラグマティズム運動は退潮したが,パース,ジェームズ,デューイらの古典的プラグマティズムはアメリカの思想界に深く根を下ろし,依然大きな影響力をもっている。実際,一時期プラグマティズムを圧倒して絶大な影響力をもっていた論理実証主義,分析哲学自体が,時が経つにつれて逆にプラグマティズムの影響と反批判を受けて転向ないしは退潮し,かわって再び〈プラグマティズムへの転向〉〈より徹底したプラグマティズム〉(W. V. O. クワイン),〈ネオ・プラグマティズム〉(M.ホワイト)などと呼ばれる新しい傾向が見られるのは,アメリカにおけるプラグマティズムの根強い影響を示すものと言えるであろう。……〔略〕……
(米盛 裕二)

 誠に疑わしい文章である。
 プラグマティズムらしさが全く感じられないのだ。
 この文章には一つの事例も無い。(この後も、かなり長く説明が続くので、紙幅の問題は無い。しかし、事例は一切無い。)
 「広く世界の哲学思想に大きな影響を与えた」とは書いてある。しかし、どのような「影響を与えた」かは書いていない。(注)
 これは全くプラグマティズム的でない。これでは、この筆者は〈プラグマティズムを分かっていない〉のではないと疑われても仕方ない。
 〈プラグマティズムを分かっている〉人間ならば、事例を挙げるはずである。
 なぜか。「プラグマティズム」とは〈事例を検討することによって言葉(思考)を明晰にしよう〉とする思想だからである。
 前回の文章で、私は次のように述べた。
 
  〈思考の結果を問うことによって思考を明晰化しよう〉とする思想がプラグマティズムである。
 
 つまり、「思考の結果」が必要である。「思考の結果」を問うことによって、「思考を明晰化」するのである。事例を検討することによって「思考を明晰化」するのである。
 だから、〈プラグマティズムを分かっている〉人間ならば、次のように問うはずである。
 
  プラグマティズムの思想を持った人間はどのような行動をするのか。
 
 これで、だいぶプラグマティズムらしくなった。行動(結果)を問うのがプラグマティズムである。事例を検討するのがプラグマティズムである。
 プラグマティズム思想を持った人間は事例を挙げる。そして、〈事例を検討することによって思考を明晰する〉のだ。思考の混乱を整理するのだ。
 前回の文章で、私はそのような事例を挙げた。
 ジェームズが混乱した論争を整理した事例である。ジェームズの仲間は〈リスのまわりを人間が廻っているかどうか〉を議論していた。しかし、それは定義の違いに過ぎなかった。二つの見方の違いに過ぎなかった。ジェームズはその事実を指摘して、混乱した論争を終わらせた。思考を明晰にした。(詳しくは前回の文章をお読みいただきたい。)
 次のような思考実験をしてみよう。
 
  〈プラグマティズムとは何か〉で論争している人々がいるとする。
  プラグマティズム思想を持った人間なら、この論争をどう解決するか。

 
 事実を検討することによって解決するだろう。次のような問いを検討することによって、解決するだろう。
 プラグマティズム的思考をすると、どのような「結果」が起きるのか。プラグマティズム思想を持つと、どのような行動をするのか。その行動は、プラグマティズム思想を持っていない人間の行動と、どのような違いがあるのか。
 このように、プラグマティズム思想を持った人間ならば、思想の「結果」を問う。行動を問う。
 行動が分からなければその思想は分からない。プラグマティズム思想を持った人間ならばそう考えるはずである。
 
  〈プラグマティズムとは何か〉をはっきりさせるためには、その事例が必要である。
 
 事例なしでは〈プラグマティズムとは何か〉がはっきりしない。事典は〈プラグマティズムとは何か〉をはっきりさせるものである。「プラグマティズム」を説明するものである。だから、プラグマティズムの事例が必要である。
 「プラグマティズム」を説明しようとする人物が事例を挙げないのは悲しい矛盾である。
 〈プラグマティズムを分かっている〉人物ならば、「ジェームズのリス」の事例を挙げるはずである。
 プラグマティズムは事例を重視する思想なのである。
 そう。
 「プラグマティズム」と言えば「リス」なのである。


(注)

 さらに、驚くべきことに、この文章には「プラグマティズム」の定義も無い。その理由を筆者である米盛裕二氏は次のように述べる。

 「あらゆるプラグマティストたちの多様に異なる関心や見解,〈種々のプラグマティズムの歴史的文化的多側面〉は,一つの一般的定義にはとても収まらない。」
 
 〈いろいろあるから定義できない〉と事典で言われても困る。
 「一般的定義にはとても収まらない」からといって、何の定義もしないのは事典としては問題であろう。
 そこを何とかするのが事典の仕事である。
 例えば、「一般的定義」を紹介し、これでは「収まらない」と収まらなさ加減を説明するのである。
 そうでなければ、事典の「プラグマティズム」項目の説明としては不適格である。


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