![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/50522866/rectangle_large_type_2_30e2070f4738366f0925a939349afb6d.png?width=800)
「賢い」と素直に向き合えない
大学受験に失敗してからか、もっと前からだったのか、ずっとモヤモヤして、遠ざけたいようなものがありました。
一言で言うとどういうことなのか、ずっと考えていました。そして、正確に表現できているか分かりませんが、その状態は「賢いと素直に向き合えない」状態なんじゃないかと考えつきました。
頭がいいと言われるのが嫌だ、
それなりに頭のいい大学で、エリートコースを進むであろう人たちに囲まれるのが嫌だ、
テレビでエリートが売りの人を見ても、自分はこうなりたくない、
と思ってしまいます。
私は他の人から、「面白い人」だと思われたいのに、
エリートコースを進みたいんじゃなくて、芸能の仕事で活躍したいのに、
「頭がいい」「勉強ができる」と言われると、「真面目でつまらない人」と言われているみたいで、嫌だと感じてしまうのです。
そうした意識と、大学受験に失敗して、変にひねくれてしまったのも加わって、
自分からは自分がどこの大学に通っているかを言わず、
必要でない限り大学生だということも話さないようにして、
東京大学を2回受験した(2回落ちた)ということはなおさら隠しておくようにしていました。
*****
しかし、勉強ができることを隠しておくことが、必ずしもいいとは限らないと思うようになりました。
きっかけになったのは、オーディション用の写真を撮ってもらいに行った時のことです。
カメラマンの方と話をする中で、今通っている大学のことや、東京大学を目指して浪人もしていたこと、合格発表の時のエピソードなどを話してみたら、
「面白いから、もっと話せばいいのに」
と言われたのです。
その時は、それでもあまり話したくないなあ、と思いましたが、
勉強ができる、ということも、自分に興味を持ってもらうきっかけになるし、
勉強ができること自体は、そもそも別に悪いことじゃないんだよなあ、
と気づきました。
思えば、頭がいいように見せないようにしようと思う一方で、
ここ1年ほどの私はずっと、受験での失敗や浪人生活のことばかり考えていたし、
もっと言えば、私は小学校の頃から「勉強ができる人」として過ごしてきたのだから、
「頭がいい」「賢い」ということは、
私にとって切っても切り離せないことで、
私の中の大きな部分なのだ、
と気づいたのです。
それから、よくよく考えると、
表面では「賢いと思われたくない」と思いながらも、
心のどこかではいつも、
「馬鹿っぽく見られたくない」
という、美的意識ならぬ「知的意識」もあるような気もします。
その上、「賢い」ことは面白くあるために邪魔なことじゃなくて、むしろ、
「面白い中に知的な部分が見え隠れする」
という所まで持っていければ、
なかなか良いスパイスになるんじゃ?
とさえ思います。
自分にとっては嫌な部分であっても、周りに話してみれば面白がってもらえることもある、
嫌な部分も、上手く生かせば魅力になるのだな、と思えた体験でした。
この撮影の時から1ヶ月以上経ち、未だに「賢い」と言われるのが嫌だったり、エリートっぽいことや人を避けたりすることもありますが、そういう気持ちもよしとして、
「知性」というものと向き合っていけたらな、と思っています。
今の私にとっては「勉強ができる」ということでしたが、それに限らず、
嫌だと思えるような自分の部分も、「伸びしろ」だと思って、大事にしていけたら、もっと素直に自分を表現できるんじゃないか、と思います。
どんな自分も愛せるようになれたなら、とてもステキなことなんじゃないかなあ…、と思えるのです。
※そんな気持ちから、撮影の数日後に書いたプロフィールなので、こういう題名で書いてみました。良かったら下の記事もどうぞ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?