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短編小説 宝石に見えた罪

「落ち着いて 堅実に」
 剣木高校のスローガンが、今日も一日の始まりを伝えてくる。
 というのも、僕が登校のために活用するバスは、高校までの直行便。つまり、剣木高校の学生しか乗らないバスなのだ。外装でどれだけ自校の宣伝をしても構わない。
 僕はバスに乗り込んだ。
 運転手に挨拶をするのもいつからかやめてしまった。
 下を見つめたまま数段の段差を上り、いつも通り空いている席に腰を下ろす。
 高校直通のバスなので、乗るメンバーも一年間はほとんど変わらない。もちろん、別段誰と仲良くなるということもなく、ただ席の空き事情が把握できるだけだ。
 ため息を一つ。
 このバスはバス停と高校を三往復する。僕がいつも乗るバスは一番早い時間帯のバスだ。何回か寝坊をして二回目と三回目のバスに乗ったことがあるが、立つ場所もないくらいの込み具合と、仲良し学生たちの身内話に嫌気がさし、早起きしてこのバスに乗ることにしている。
 この時間帯のバスは一人で乗り込む学生ばかりなのがいい。イヤホンで音楽を聴いていたり、単語帳を開いていたり、スマホをいじっていたり、寝ていたり。耳に入ってくる知らない学生の話ほど辟易するものはないから。
 もちろんわかっている。学校内では、この時間帯のバスで登校する人が、がり勉だの生真面目だの学校大好き人間だの言われてけなされているのは。
 でも、僕からしたら、ここにいる皆が一番学校を冷めた目で見ている。真面目だと言われているのは、楽しむ気がないからだ。
 授業は言うまでもなく、友情、恋愛、部活、全てが窮屈でしかたがない。毎朝バスに揺られて数十分。五十分の授業が六回あって、予習、復習、塾、部活動に費やされる毎日。
 罪を犯したか犯していないかの違いを除けば、学校と刑務所は一緒かもしれない。
 このバスに乗っている僕らは、束縛された中に楽しみを見つけることの無意味さを悟った人間だ。諦めている。後の時間帯にバスに乗り込んでくる奴らの方がよっぽどがり勉で、生真面目で、学校を楽しんでいる。

 バスが止まった。ここでまた二人ほど生徒が乗り込んでくる。
 はずだった。
 乗り込んできたのは大人だった。しかも、黒い覆面をして手には包丁を持っている。
 その凶器を運転手と生徒に交互に向けながら男は怒鳴った。
「今からこのバスは俺のものだ! 言うことを聞け」
 誰も悲鳴を上げることはなかった。きっと、この男が二つ目か三つ目のバスに乗り込んでいたら、定番の悲鳴を聞くことができただろう。しかし、一つ目のバスはひたすらに静かだった。いつもと違ったことが起きてやや整理に戸惑っている、といっただけの雰囲気。
 男も静寂過ぎて逆に戸惑い、返答を求める。
「わ、わかったか? 運転手」
「はいぃ」
 運転手は裏返った声で答えた。
 普段は右折する信号を、バスは真っすぐ進んだ。
 見慣れた古びた団地の景色が、木々の緑が目立つ豊かな住宅街へと移り変わる。
 生徒たちは無意識的に窓の外を眺めていた。たった一本の道の違いが、恐ろしいほどの新鮮さと高揚感をもたらす。たった一本の道の違いですら、窮屈な日常に光明を差し込む。
 僕は刃物を持った男をそっと見て、震えた。
 恐怖という感情はなく、体が震えたのは、猟奇的な期待という感情のせいである。バスが学校から遠くなれば遠くなるほど、その期待は破壊衝動を伴って膨らみ続けた。
 朝の小テストの時間には間に合わないだろう。いや、それどころか、一時間目の授業にも参加できないかもしれない。となると、グループワークをやる必要がなくなるし、もし二時間目もいかなくていいとなったら、あの教師のくだらない話を聞かなくても済むのだ。
 心をチクチクと痛めつけていた要因が、バスの揺れと共に消えていく。
 三時間目の授業も出る必要なんてない。部活にいく必要だってない。そうだ、塾にもいかなくていいんだ。友達ごっこもしなくていいんだよ!
「すみません、あの、どこまでいくんですか?」
 気がつけば、僕は刃物を持った男に話しかけていた。
「あ?」
 男が鋭い眼光をこちらに向けてきて、車内が緊張に包まれた。だが不思議と、僕が感じているのは今から好きな映画が始まるときのような高揚感であり、他の生徒たちも同じ高揚を抱いているという確信があった。
「なんでお前らに言わなきゃなんねぇんだ」
「どこにいくかだけでも教えてください」
 僕の後方から別の生徒の声が響いた。
「教えてください!」
「教えてください!」
 男は重なる生徒たちの声に確実に動揺していた。好奇心で満ちたその声には、不安や犯罪を咎める意思が少しも含まれていない。
「家だ」
 男は口を開いてしまった。
「俺の家だった場所だ」
「だった?」
「三年間の海外出張から帰ってきたら、家には別の男が夫としてそこに住んでいた」
「そんな無茶苦茶な」
「あぁ。俺は怒った。だが、怒ったところで無駄だった。最初から妻にとって俺は家と金のためだけの存在だった」
「お子さんはいるんですか?」
「いない。妻が子よりも先に家を欲しがっていたのはそういうことだったんだ。俺は巣作りオスにすぎない。そう悟った。……だから突っ込む、その家に。俺の人生はもう終わったようなものだが、あいつらの人生もそうしてやるんだ」
車内は沈黙に包まれた。
「心配するな。お前たちは下ろす。さぁ、これで満足か? 黙って座ってろ」
「手伝います!」
 僕は反射的にそう叫んでしまったわけだが、その言葉は間違いなく生徒たちの総意だった。男の動機が何であろうと、僕たちは既に心を解き放っていた。
「私も手伝います」
「俺も」
 唖然とする男に向かって、生徒たちは次々に協力を申し出た。

「住所はどこですか?」
 生徒たちは席から立ち上がり、前に押し掛けた。男は刃物をこちらに向けてきたが、そんなものに目を向ける人はいない。
「住所は?」
「あ、えっと……」
「それならこの道を通った方が早いですね。運転手さん、次の信号を左へ曲がってください」
 運転手は奇声が混じった怒声を張り上げた。
 こいつだけは、この奇跡の出来事に身を預ける勇気がないようだった。
「君たち、どうかしているぞ! これは犯罪――」
「どけ」
 相撲部の男子生徒が運転手の首根っこを掴んで放り投げた。空席となった運転席には、普段は物静かな女子生徒が入り込む。
「私、初めての運転よ!」
 バスはうねり声をあげて加速した。大いに揺れる車内。
「お、おい!」
 信号を軽く無視し、減速することなく左折する。
 盛り上がる車内。
「飛ばせ、飛ばせ!」
 最早刃物を持った男が一同をなだめる立場になっていた。しかし、十人近い高校生がエネルギーを爆発させたら、それを止めることは不可能だ。
 そのとき、生徒たちの耳に危険な音が聞こえた。
「もしもし、警察ですか? バスジャックが起きました! 犯人は……」
 僕は運転手のスマホを取り上げて、床に強く叩きつけて破壊した。カバンの中から汗拭き用のタオルを取り出し、運転手の視界を奪う。すると、それを見ていた他の生徒たちも各々のタオルを持ち出してきて、運転手の口を封じ、足を縛り、腕を柱に括りつけた。
 鈍い音。
 頭だけが熱く、体は冷えている。熱を出して寝込んだときのような不気味な浮遊感が全身を包んでいた。だが、もう行動を止めることはできない。
 大丈夫。楽しい。
 自由だ。僕らは解放されている。
 サイレンの音を高々と鳴らし、警察の御一行様がバス目掛けてやってきた。
「まずい! 降り切れ!」
 女子生徒はさらにアクセルを踏み込んだ。
「あっ、そこ右」
「嘘!」
 周りの状況を見る余裕などなかった。轟音を響き渡らせながら、車で敷き詰められた道路に右折を目論んだバスがなだれ込む。車体に次々と車が激突し、無実の車たちは、回転、横転、粉砕、崩壊。窓ガラスは派手に弾き飛び、火花があちこちで散らばった。クラクションが鳴り響き、二次災害も相次いでいる。
 車内も極端に傾き、何かに掴まっていないと外に投げ出されてしまいそうだった。
 不健康な汗が溢れんばかりに飛び出した。生徒たちは皆手足を小刻みに震えさせ、眼球は真っ赤に充血している。
 鈍い音。
 数十台の車をなぎ倒しながら、バスは右折を成功させた。漏れ出したガソリンに引火したのか、後方で凄まじい爆発が起きた。
「いけ、いけ、いけ!」
 鈍い音。
 鈍い音。
 パトカーが奇声を上げて追いかけてきた。
 並走される。
「こっちからぶつけよう」
 僕はカラカラの口で叫んだ。
女子生徒が同意してハンドルを操作しようとしたが、それを止める者が現れた。
「もうやめろ!」
 男だった。
「なに言ってるんです? あなたが始めたんですよ!」
 制止を試みた僕の体を突き飛ばし、男は運転席の奪取を試みる。伸ばした手にかみつく女子生徒。
「ぐあっ!」
 それでも男は女子生徒を容赦なく運転席から引きずり出し、自らが乗り込む。バスを止めるつもりだ。僕たちは一致団結して男に乱暴を働き、壮絶なもみ合いが開始された。こちらには相撲部がいたのですぐに勝負はつくかと思われたが、男は死に物狂いで抵抗した。
「俺が悪かった。俺が間違っていた! 君たちを悪者にするつもりなんてなかったんだ!」
「ここまできてやめるのか!」
 血みどろのもみ合いの過程でハンドルがおかしな方向に傾いた。
 鈍い音。
 バスは不器用に右往左往し、ついには車道を外れてショッピングセンターに突っ込んでいった。
「あ、危ない!」
 気づくのが遅すぎた。
 タイヤが駐車場の段差に引っかかり、バスは横転しながらショッピングセンターの壁に激突した。

 奇妙なことに、軽傷はあるものの、僕らの中誰一人命を失った者はいなかった。
 瞬く間にパトカーと救急車がバスを取り囲み、僕たちを救助する。
 当然僕たちは被害者として優しく声をかけられる。
「運転しろって言われたんです」
女子生徒は涙を流す芝居までしてみせた。
対して、数人の警察官に囲まれて、手錠をかけられる男。
何も言わない。
 運転手は当の昔に気を失っていて、担架で運ばれていく。彼が何を言ったところで、恐怖で気がおかしくなったと判断されるのがオチだろう。
 まさしく完全犯罪だった。
 怯えたような態度を作りながら、僕たちは最高の快感を味わっていた。
 バスの外に出たときに浴びた風が、頭の熱を優しく逃がしてくれて、澄み切った非日常が体中を巡る。
「おい、見てみろ」
 警察官が咎めるように言った。犯罪者である男に向けられた言葉であったが、本当の犯罪者である僕たちはつられてその声に反応した。
 警察官が指さした場所には、赤い二本の線が引かれていた。
 それは、遥か後方から伸びていて、倒れたバスのタイヤまで続いていた。
「何かわかるか?」
 その赤色が、どんな赤色かわかったとき、僕たちは初めて正しく震えた。
 つまり、その赤の線に沿うように転がっている黒い塊は……。
 男がこちらを見た。
 僕たちは膝をついた。
「大丈夫、君たちのせいじゃないよ」
 背中をさすって慰めてくれる警察官に向かって、僕は青ざめた顔で首を振った。
 青春という、退屈でくだらなくて、せまっ苦しい世界。明日からまたそこに戻って生活をすることができるだろう。
 だが、僕たちは罪を背負ってしまった。
 どんな理由を唱えても、決して許されることのない罪を。
 僕たちの背で、バスが火を上げて燃えた。

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